第24話 喪失
輝は、練習室を出て行った。
私は輝を、引き止められなかった。
窓から吹き込む風が、私の心を冷たくなぶる。
金曜の夜は、あんなに楽しく笑って話せたのに――
たぶんもう、そんな機会は訪れない。私のことを――こうなる火種を作った私のことを、輝がよく思っているはずがないから。
あ……
今日の夜は、ふたりだけで会う約束だった――
・・・・・・
「かおる祭には、出ません」
少し前から様子がおかしかった輝がそう言って、私はようやく事態に気付いた。
輝は私に視線も合わせず、きびすを返してドアに向かった。
――いけない!
部屋から出してはいけない。また里奈の時と同じに――
部屋から出さなければ、まだ話ができる。いくらでも落ち着かせられるし、歩み寄れる。
もし出て行ってしまったら――輝が里奈を連れ戻してくれたように、奇跡でも起こらない限りもうここには来ない。
私は身を乗り出して、呼び止めようとした。
「待って、輝」
「待ってください!」
すぐ隣からガタンという大きな音と、私より大きな声がした。
見ると、里奈が椅子を蹴飛ばして立ち上がっていた。
「足を引っ張ったりなんかしません。輝さんは、この中の誰よりも真剣にやっているんです!」
強い力のこもった声。
その声を聞いた琴音が、こちらを向いた。
「それはないと思う。なにより今の様子を見れば――」
「琴音さんに、輝さんの何が分かるんですか!」
小さな身体のどこから出たかと思うほどの、大きな声。
あの大人しい里奈が――
ちょっと人見知りで、素直で、いい子で、先輩の言うことをきちんと聞いてくれる里奈が……
この1年で、見たことのない姿、聞いたことのない声を――
「輝さん、待って――置いてかないでください!」
置いてかないで……?
里奈は邪魔な机を乱暴に押しのけ、輝を追おうとする。
輝がドアを引き開け、開いていた窓から風が吹き込んだ。
風は輝の背中を押しながらドアの向こうへ吹き抜ける。
輝の背中が、ドアの向こうへ消える。
風に押されたドアは、いつもよりずっと速く閉まった。
――ガシャッ
聞き慣れた、レバーが下ろされる音。
それは輝が、私たちに心を閉ざした音……
……。
ドアに駆け寄った里奈が、もう一度レバーを上げる。
風に押された大きなドアは、簡単には開かない。小柄な里奈は、レバーを必死に引っ張ってドアを開く。
そして外へ向かって手を伸ばし――
「輝さん……」
そう呼んだ声に、力はなかった。
里奈の手は宙をさまよったまま、何もつかむことはなかった。
・・・・・・
「里奈、ドア閉めて」
長い沈黙を破ったのは、岩村先生の声。
里奈がするりと手を放すと、ドアは風に押されてひとりでに閉まった。
まるで輝の意思が、そうさせたかのようだった。
里奈はレバーを下げないまま、うつむいてゆっくりこちらに戻って来た。
自分が押しのけた机を見て、それから下を向いて――
そっと床へしゃがんで、何かを拾い上げた。
……?
里奈が大事そうに両手で持ったそれは、ひとつの楽譜――拾い上げる瞬間に見えた譜面には、びっしりと文字が書かれていた。
……。
なぜ……それがここに?
それは輝の楽譜――
どうして今、里奈の手に……?
「ああ、里奈。それは――」
岩村先生の気の抜けた声に、里奈は力なく振り向く。
「はい、輝さんの楽譜です。……返し忘れてました」
そう答えた里奈は、その楽譜をまるで輝の形見のように大事に両手で持っている。
それに対する、岩村先生の言葉はあまり優しくなかった。
「あのね、それ一見すごいように思えるけど、要はちゃんと勉強してないってことだから。いいお手本じゃないよ」
「……」
里奈は黙り込んでしまった。
しかし――
「でもまあ、いいや。みんな、それ今日中に回し読みしといて。まあ、輝くんが今度のかおる祭の舞台に、どんな気持ちで臨もうとしていたかは分かるだろうから」
しばらく楽譜を持って立っていた里奈は、ゆっくりこちらにやって来て、楽譜を机にそっと置いた。
それから、自分が跳ねのけた机と椅子を元の位置に戻し、私の隣に座った。
それを見届けた岩村先生が、口を開いた。
「俺は教員じゃないから部活の指導以外はできないんだけど……今回はちょっとだけ、口を出しておくよ」
急に、室内の空気が張りつめる。
岩村先生が、あえて口出しをする――いつ以来だろうか。
先生ははっきりとよく響く声で、話し始めた。
「合唱は個人プレーじゃない。うちは人数少ないけど、団体によっては100人近いメンバーが、歌というひとつの芸術作品を作るんだ。そうでしょ――?」
各々、バラバラにうなづく。
「そこに『部外者』って、いていいの?」
「……」
氷を押し当てるような、声だった。
「だめだね、それは。輝くんが出て行ったのは、その辺りを分かっていたからだろう」
誰も口を開かない中、いつもの適当さがない先生の声が、部屋に反響する。
「合唱は、何人ものメンバーでたったひとつの歌を作るものだ。だから当然、そのメンバーは全員『仲間』としてひとつの輪を作っていなければならない。ひとりでもそれができなければ、歌が成立しなくなる」
……そうだった。
ここしばらく――私が輝を誘うよりも前、廃部を決めたその頃から、私たちはバラバラの方向を向いていたような気がしていた。
「気がしていた」で済ませていたから、本当にバラバラになってしまったのかもしれない。私たちはだいぶ前から、「ひとつの輪」を作れていなかった。
岩村先生は続けて言う。
「輝くんとは、かおる祭まで一緒に歌うと決めてあったね。なら当然、もうみんなの輪の中に入っていなければおかしい。それに対して『部外者』と言ったのはよくなかった」
……。
「輝くんは多少の合唱経験があるから、そういう言葉はつらかったろう」
「……」
私は、あえて見ないようにしていた琴音のほうを見た。
やっぱり――
琴音は深くうつむいたまま、顔を上げられない。
先生は私の視線に気づいたのか、言葉を足した。
「琴音だけが悪いわけじゃないのは、みんな分かってるね? 今回よくない発言が何度かあったけど、誰も何も言わなかった」
私も、顔を上げられなくなった。
「そうすると――言われている輝くんの側からすると、『部外者』という発言は合唱部の総意であるように聞こえる」
総意……
「……」
もし……あの時、私がなにかひと言でも言っていれば、輝はまだここにいただろうか。
岩村先生は、声のトーンを下げて言った。
「今回はみんな悪い。……珍しい失敗だったね」
そして――
「各自、反省すること」
……。
反省はする。
するけれど――
私がきっちり反省したら、輝はまたここに来てくれるの……?
・・・・・・
今日は練習をせず、そのまま解散となった。
私はすぐに教室に戻った。
何人かの生徒がおしゃべりしていたが、輝はいなかった。
私は自分の席に座って、自分の机をじっと見ていた。
時間が経つにつれ、教室内の生徒はひとり、またひとりといなくなって――
ついに、私はひとりきりになった。
「輝……」
……今日の夜は、ふたりだけで会う約束だった。
机に両肘をついて、下を向いた頭の両側から、髪を手で握りしめる。
痛い――涙が出そうなくらい……
それでも、輝はあの時みたいに現れなかった。




