第20話 合唱部は君を……
歌が好きではないのに、合唱部に居座っている――
里奈の悩みは、それだった。
それに対する俺の答えは、「いずれ好きになるかも」。
それでいい、と。
・・・・・・
里奈はしばらく黙っていたが、やがて下を向いたまま言った。
「でも……もう1年も経ってます」
涙交じりの痛ましい声だった。
「俺は5年」
だから俺は自慢げに言った。
「――5年、ですか?」
思わず顔を上げた里奈の目には、やっぱり涙が浮かんでいる。
それを流させないように、俺は言葉を探して声に乗せていく。大事な言葉が、里奈の気持ちまで届くよう――
「……俺は合唱曲なんて、わりと嫌いだった。そいつが面白くなってきたのは、5年くらい続けてから。まあ、さすがにちょっと遅いのかもしれないけど……でも、これはちゃんとした実例だよ」
里奈はこれまで1年間、歌が好きでもないのに合唱部に居座っていたらしい。
でも、それなら俺は――
「――俺は合唱曲が好きになるまで、5年かかった。つまり合唱が好きでもないのに、合唱団や合唱部に5年も居座っていた」
そう、俺は君よりも長く居座っていた。
「アホみたいでしょ。ちゃんと勉強もしなかったからいまだに楽譜も読めない。ピアノも何も弾けない。でも大丈夫なんだ――」
「……」
「そんな奴でも、部長をやれたから。……めちゃくちゃ大変だったけど」
ピアノの鍵盤を「押す」しかできない低スぺック部長は、伊達じゃない。
まあ、それ以外をみんなが求めてくれたから、頑張ったんだけどね。
だからこそ、自信を持って里奈に言うことができる。
「いいんだよ、居座っても。ちゃんと真面目に居座ってれば、みんなも信頼してくれる。頼りにしてくれるんだよ」
「頼りに、ですか……?」
里奈がか細い声で言う。
「そう。ただ歌が好きってだけじゃ、部活で頼りにはならないでしょ」
中学の時、この低スペックな俺を、どうしてみんなは部長に推薦したか――
正確なことは分からないが、たぶんその理由は……
俺はクリアファイルを取って、中からひとつ楽譜を出した。
「これ見て。俺の自信作……かどうか、分からないけど」
楽譜を里奈に渡す。音階は全パート書き終えてある。
大量のカタカナが音符の下に並んでいる。
里奈はそっと楽譜を受け取って、1ページめくって……それから言った。
「……これ、何時間かかるんですか」
この質問、もう何回か聞いたな。
「分からん。慣れればちょっと早くなる」
「……」
微妙にかみ合わない会話。
「それは俺がパートリーダーになってから作るようになった。部長になってからはそうやって全パート書いて、合わせに対応できるようにしたんだ。他にピアノ弾ける人がいなかったから。俺だって弾けないんだけど……この楽譜でなんとかしてた」
「……なんとかできるんですか? 今も」
その小さな声に込められているのは、たぶん、わずかな期待。
「うん。やれるよ」
その期待には応えられるし、応えたい。
不愛想な振る舞いを忘れて俺を見ているその表情が、たぶん里奈の素顔なんだろう。
よかった、その顔を見れて。
・・・・・・
さて、後は少し背中を押して、合唱部に戻っていけるようにしよう。
かなり極端な話で、異論もあるんだろうけど……俺が6年かけて行きついたとっておきの持論を教えておくんだ。
「ね、いきなりでかい質問するけどさ――君は自分が合唱部に必要だと思う?」
「え……」
里奈の表情がふっと曇った。
「……いいえ」
「違うな」
里奈が言い終えないうちに、俺はその言葉を打ち消した。
「合唱部に必要な人っていうのは――」
里奈は少し眉を寄せる。緊張している――
「――まず、歌が好きな人は別にどうでもいい。その人の言う『歌』は大抵『合唱』じゃないからね。それだと長続きするか分からない」
「……なら、長続きするのはどんな人ですか?」
里奈は恐る恐る聞いてくる。
でも、里奈はどうして恐る恐る聞いているのか自分で分かってないんだろう。やる気がないなら、そんなに緊張して聞く質問じゃない。
合唱をやって長続きする人、それは――
「それは、みんなと一緒にやるつもりがある人。合唱は個人で歌うんじゃなくて、メンバー全員でひとつの歌を作り上げるんだから」
そう。だから、里奈は――
「君は合唱に向いている。自分が好き勝手に歌いたいからじゃなくて、合唱部のみんなのために入部して、1年もやってきた。合唱部は文化部だけど、わりと体力を使うきつめの部活だ。生半可な気持ちじゃ、1年はもたない」
「……」
「合唱部は、君を必要としているんだ」
・・・・・・
そうやってはっきりと言ってあげたが、里奈は逆に下を向いてしまった。
「でも……私は部活から出て行ってしまいました。1年しか、もちませんでした」
また涙まじりの声を出す。
「あれは違うよ。合唱に嫌気がさしたわけじゃないだろう。ただ、君はあまりにも真面目だから、多少のすれ違いを起こしただけ。むしろ、まだ持ちこたえているじゃないか。やる気がはっきりと見てとれる」
「どうして、そう見えるんですか」
いよいよ、里奈の声が聞こえなくなってきた。
でも本当に、里奈は自分の事を分かっていない。指摘したら、すぐ気付くのに。
「ジャージに着替えて、楽譜持って練習室の前まで来てたから。すぐにでも練習ができる体勢じゃん」
里奈は自分のジャージの袖を見る。
今その姿でここまで来ているのは、やる気があるからこそ。里奈は自分で自分のやる気を証明している。それは誰の言葉よりも、説得力を持つだろう。
しばらく自分を見ていた里奈は、やがて少し横を向いた。
「私は……私が戻っていい場所って、あるでしょうか。ひとりで勝手に出て行って、またひとりで勝手に戻ろうとしている私を、先輩方は許してくれるでしょうか……」
小さくなった最後の言葉は、ほとんど聞こえなかった。
どう声をかけたものか少し悩んだが、いい話を思いついた。
その「先輩方」が里奈をどう思っているか――
「大丈夫、もうひとり出てったから」
「え?」
意外に大きかった里奈の声に驚きつつ、その「もうひとり」の言葉を伝える。
「言っていたよ、確か――君だけを放り出してかおる祭の舞台には立てない、とか」
里奈が一歩下がって、ぶつかった椅子がガタンと音を立てた。
「だ、誰ですか?」
「ごめん、名前は分からない。でも――」
里奈はひとりで勝手に出て行ったんじゃない、なぜなら――
「その人は、君をひとりにしないために出て行ったんだ。だから君はひとりじゃない。少なくともその人は、君を守ろうとして動いたんだ」
「……」
「先輩たちは、君が思ってるよりずっと、君の事が好きだと思うよ」
「…………」
里奈は手を固く握り、歯を噛みしめながら目をぎゅっと閉じて、浮かんだ涙を流すまいとしていた。
・・・・・・
それから流れた時間は、どれくらいだっただろうか……
「分かりました」
小さな声で、里奈がそう言った。
「……行ってみます、私」
里奈の顔を見上げる。
まだちょっと涙が浮いているが……たぶん、これ以上は出ないだろう。
「よし、行こう」
俺は語尾を強く、力を込めて言う。
そして――
……そして。
「……あ」
「なんですか?」
きょとんとする里奈。
話ばかりしてて忘れていたけれど、俺は――
「俺、英語の追試で遅刻することになってたんだ」
忘れてた。
「陽和に怒られる、急ぐぞ!」
椅子をガタガタ言わせて立ち上がる。
しかし、俺が部ドアの所まで歩いていっても、里奈はその場に立ったままだった。
「どうした?」
里奈は少し顔をそらしてから、小さい声で言った。
「小泉里奈、です。中2、パートはソプラノです」
……?
「名前……さっきから『君』としか呼ばれてないので。うちの合唱部は名前で呼び合いますから、里奈と呼んでください。輝さん」
輝さん――
里奈はようやく俺を「先輩」ではなく「輝さん」と呼んでくれた。
ちょっと嬉しい、かな。
「分かった、里奈。善処するよ」
それを聞いた里奈は指で目頭を押さえながら、ちょっとだけ笑った。
「善処って、なんですか」
「あー……俺、人の名前覚えるの苦手だから」
涙を拭き終えた里奈が、こちらを向いて、少しむっとする。
「なら、明日私の名前を忘れてたら、陽和さんに言いつけます」
「げ……」
小泉里奈、小泉里奈――
明日、陽和に怒られないように……
「輝さん、考えてるの丸分かりです」
「……ごめんなさい」
ぷっ、と里奈が吹き出した。
「先輩が後輩にそれ言いますか」
「……はい」
俺は素直に答えた。
そしてしばらく会話はなく、ふたりでひたすら笑い声を押さえていた。
それでも漏れる互いの声が、小さな部屋の空気を幸せな色に染めていった。




