第18話 ドアを開ける役
昼休み――
休めるわけがない。英単語、英単語――
「……宮田くん、輝どうしたの?」
陽和の声が聞こえて、俺は単語帳から顔を上げた。いつの間にか、陽和が目の前に立っている。
陽和に問われた明は、にやにや笑いながら答えた。
「桜井、3時間目の小テストどうだった?」
……くそ、失態だった。
何も知らない陽和が、ちょっと首を傾げながら言う。
「3時間目……英語? まあ、そこそこだったかな。普通くらい」
……。
「陽和……ごめん」
小さい声しか出なかった。
陽和は前かがみになって俺の顔を見つめた。
「どうしたの? 何かあった?」
心配そうな表情に優しさが込められた声が、いくらか心を安らげてくれる。
だが――
これだけは、申し訳が立たない。
「小テスト……落ちた」
明が隣で、くくくと笑っている。くそ、他人事だからって。
陽和は俺の言葉を聞いて、優しい笑顔を見せながら言った。
「あらら、災難だね……でも大丈夫だよ、1回くらい。今度頑張れば取り返せるって。勉強、私も付き合おっか?」
……。
「……そんなに悪いの?」
陽和は急に心配そうな表情をして、声のトーンを下げた。
そうだ、これはまずいんだ……
まだ面白そうに笑っている明が、勝手に説明しだす。
「なあ桜井、その小テストの追試、いつだったかなあ……? 確かあの先生、当日放課後に追試やるんじゃなかったけ?」
ああもう、他人事だからって――
陽和はちょっと首を傾げて考えたが、意味が分かったのか、俺に満面の笑みを見せた。明のにやにや顔の3倍増しくらいの。
「あー! 輝、今日部活遅刻? 追試で? 大失態じゃん。歌の練習どうするの?」
そう、その通り大失態なんだ。小テストに落ちて練習に遅刻するなんて。ただでさえ俺は周りより練習に時間的余裕がない、それなのに……
それなのに陽和は、また優しい笑顔を浮かべて、俺の目をのぞいた。
「でも……いいよ、気にしないで。1日くらい全然取り返しつくから」
その1日で、合わせへの参加が遅れるのに……
俺の目を見る陽和の瞳が、きれいに見える。
「大丈夫だよ。無理しないで、ゆっくりやって」
うう、優しい……
「桜井、いいんだぞ。こいつあんまり甘やかすとなんにもできなくなるから」
絶妙に水を差しにくる明。
「宮田くん!」
陽和が強く言葉を返した。
……でも、明の言う通りなんだよなあ。陽和の言葉に甘えてたら、俺はダメになりそうだ。
「陽和、本当にごめん。追試はなんとかする。出来るだけ早く行くから」
テストに落ちたのはもうどうにもできない。次善の策を――最速で追試に合格して練習に行くことを考えていくしかない。
・・・・・・
放課後――
英単語、英単語――
「輝ー?」
すぐそばからかけられた陽和の声……
もう部活行くんだ。本当は、俺も一緒に行かなきゃいけないのに……
単語帳から顔を上げると、陽和はこちらをのぞき込むように見つめていた。
目が合って、陽和が微笑む。
「先に行ってるよ。急がずに来てね」
うう、優しい……
いやダメだ、甘えちゃ。
「すぐ行く。向こうで待ってて」
「うん」
陽和はそう答えて背を向けた後、また振り返る。
俺にふりふりと手を振って――それから、教室を出て行った。
・・・・・・
英語の先生は厳しく、頻繁に小テストを実施して生徒を悩ませている。
しかも追試は当日放課後で、基本的に合格するまで帰れない。
追試会場は多目的室、試験は一定時間おきに何回もある。生徒はどの回の追試に出てもよく、あえて初めは出ないで教室でテスト対策をする者も多い。だいたい1回目の試験は見送って勉強の時間に充て、2回目以降で1発合格を狙うのが主流だ。
ただテストの内容自体はごく基礎的なもの。しっかりやればわりと簡単に合格できる。普通は1回目を見送って勉強するが――
時間が惜しい。俺は3時間目が終わってからずっと、出題範囲の英単語を頭に叩き込んでいた。1回目から行く――!
・・・・・・
「はあ……」
先生はため息をついた。
「海野さん――」
呆れたようにそう言う。
「……最初からこれくらいやりなさい」
「はい……」
――俺は1回目で満点をとった。
・・・・・・
風のように教室に駆け込んで鞄を背負う俺を、他の追試者たちが驚いたように見ていた。
大丈夫、大して遅れてない。練習時間はそんなに減ったわけじゃない。
更衣室で着替えを済ませ、楽譜を入れたクリアファイルを手に持って、西階段へ超早歩きで向かう。ダッシュして先生に怒られたら逆に遅くなる。
そして西階段を駆け上がる。階段に速度制限はない。
練習室のある4階は目前、あと数段――
「うわ――」
「あっ――」
急に出てきた誰かと、思いっきりぶつかりそうになった。
ジャージ姿の小柄な女子生徒――見るからに中学生だ。
「……すみません」
そう言って俺の横を通ろうとするが――それは見過ごせない。
「待って」
俺がそう言うとその生徒はすぐ横で立ち止まったが、こちらを見はしなかった。
「ねえ――」
言いたいことがある。
「――合唱部、だよね」
土日をまたいだからあまりよく覚えていないが、小柄なその姿は覚えている。
出て行ったふたりのうちの、ひとり。
確か――里奈、といった。
・・・・・・
「行かないの? 部活」
あえて平静に声をかける。
「……いえ、たまたまここに用事があっただけです。行くつもりはありません」
冷たくそう言ってきた。
「ううん、部活に来たんでしょ」
俺は確信を持って言う。
「運動部でもないのに放課後にジャージ着てる人はいないと思うよ、うちの学校は」
いるとすれば、それは体操を行う合唱部員くらいだろう。
「それに――」
見れば、クリアファイルをしっかり手に持っている。
「――その中身、楽譜でしょ」
「……」
このまま練習室に立てば、すぐ練習ができる体勢を整えてある。これで「行くつもりはありません」というのは、あまりにも見え透いた嘘だ。
この部員――里奈は想像以上に真面目らしい。先週あんな事を言って飛び出していったのに、今日こうして準備を整えて、誰の手助けも受けずひとりでここまで来たようだ。
そして、最後の一歩が出なかったのだろう。練習室のドアを、自分の手で開けられなかった。
開かないだろう。いつも軽く開くはずのそのドアも、時には鉄のように重くなる。
どれくらいそこで迷っていたかは知らないが――ついに諦めて、立ち去った。
そして遅刻してきた俺とバッタリ出くわしたんだ。
「……」
部活を出て行って、また勝手に戻ってきて……そのくせひとりでドアを開けられないで、気持ちを曲げて立ち去ろうとする、か。
思い出すな……
練習室のドアの前、高く響く靴音に振り返ったら、廊下の向こうから顧問の先生がまっすぐ歩いて来ていて、気まずくなって何も言えなかった。
その先生は目の前に立って「おかえり、行きましょう」とよく響く声で言った。そして――
――俺の代わりに、前に立ってドアを開けてくれたんだ。
今度は俺が、その役をやる番らしい。




