第8話 外部有識者による、第三者委員会
朝の公爵邸のエントランスホールには、柔らかな光が差し込んでいた。
そんな中、コソコソと、使用人たちが囁き合う声が聞こえてくる。
「なあ、親方。《《これ》》って、いったい何のためにやってるんですか?」
「ん? これか。なんでも『山のポーズ』っつう、体を『整える』もんらしい。お嬢様が勧めるからやってるんだが……これが不思議と調子がいいんだよ」
「へえ、本当ですか? こんな……クネクネした動きが?」
「ああ。肩の痛みが軽くなって、腕が上がるようになったしな。心なしか腰の鈍痛も減った気がする」
「そんなもんなんですかねぇ……どう見ても、森の精霊に祈ってる奇妙な踊りにしか見えませんけど」
そのときだった。
「こら、そこ! セレス!」
「ひゃっ……はいっ!?」
突然、名前を呼ばれた庭師見習いのセレスが驚きでビクリと跳ねる。
最前列でポーズを決めていたエスメラルダが、じっとこちらを見ていた。
「あなた、体が資本のお仕事でしょう? 今のうちに整えておかないと、歳をとってから後悔しますわよ」
「お、お嬢様がオレの名前を……!?」
「当然でしょう? うちの大切な使用人ですもの」
セレスはなぜか感極まったように固まった。
(あら、名前を呼ばれただけで人生救われた顔してるわね、この子……)
「さあ、次は『三角のポーズ』ですわよ!」
公爵家の朝は、今日も謎の儀式から始まるのだった。
二階の階段踊り場では、公爵夫妻と兄がその光景を見下ろしていた。
「……おい。あれは、いったい何なんだ? 神への祈りか何かか?」
父が低く呟く。
「エスメラルダが始めた、『ヨガ』という『体を整える動き』だそうですわ。以前はエスメラルダ一人で行っていましたが、今では使用人たちも自由に参加しているそうですの」
母が淡々と説明する。
「体を整える……?」
兄のリュカは眉間に皺を寄せたまま、エントランスホールを見下ろした。
そこでは庭師がなぜか片足でふらつき、侍女が必死に両腕を伸ばし、厨房の使用人がまるで悟りを開いたような顔で天を仰ぎながら深呼吸していた。
「……奇妙な動きですね。付き合わされる使用人たちが気の毒です」
その言葉とほぼ同時に、エントランスホールから凛とした声が響いた。
「違いますわよ! 気の毒なのではなく、『整えている』のです!」
「「お嬢様ーーー!!」」
なぜか歓喜に満ちた声が返ってくる。庭師も、侍女も、厨房の使用人も、妙に晴れやかな顔をしていた。
「……余計にわからん」
リュカは静かに額へ手を当てた。
◇
私は今、公爵邸の書斎で山のような書類と格闘している。
かつてのエスメラルダが《《やらかした》》、あまりに重すぎる「負の遺産」。理不尽な解雇を告げられた使用人。嫉妬の標的となり、学園という居場所を奪われた学生たち。目の前のリストは、彼女が己の傲慢さで踏みにじってきた『他人の人生』そのものだった。
「……これ、個人の謝罪で済むレベルじゃないわね。もはや公爵家の組織的な隠蔽と不当解雇のオンパレードじゃない」
(……まったく、これだけの不祥事を一人で積み上げるなんて、ある種の才能だわね)
冗談を言っている場合ではない。
資料を読み進めるほど、被害の深刻さが見えてくる。不当に職を失った者もいれば、学ぶ機会を奪われた者もいる。謝罪の言葉ひとつで済む問題ではなかった。
けれど、これは私一人で調べて、私一人で謝罪して済ませていい問題ではない。
被害の全貌を明らかにし、補償の方法を決めるには、第三者の目が必要だわ。
教師として数々の不祥事対応を見てきた私は、決断した。必要なのは、形式的な謝罪ではない。客観的な調査と、正当な補償。
「お父様。この件を解決するために、各界の専門家を招いた『外部有識者による調査委員会』を設置させてください」
それは、前世で言うところの『第三者委員会』に他ならない。数々の学校不祥事を間近で見てきた私の経験が、これは組織として『公的に』清算すべき事案だと告げているのだ。
私は両親の前に、一枚の企画書を提示した。
「わたくしの犯した罪は、公爵家の権威で揉み消して良いものではありません。法曹界や教育界の重鎮を招き、過去の不当な解雇や退学への追い込みを全て洗い出し、適切な補償を行いたいのです」
父は目を見開いた。
「エスメラルダ……それはつまり、公爵家の不手際を世間に公表するということだぞ。恥をさらすことにもなりかねない」
「隠し通すことこそが、最大の恥辱ですわ。……わたくしが未来の王妃として立つのであれば、まず己の足元にある泥を、自ら掃き清めなければなりません。その結果、王太子殿下の婚約者としての地位を失うことになっても、私は一向に構いませんの」
私の断固とした――元学年主任としての威厳すら漂う言葉に、両親は圧倒されたようだった。やがて、父は深く頷いた。
「わかった。……君の誠意に、賭けてみよう」
許可を得るや否や、私は行動を開始した。
前世の知識と経験、公爵家の威光をフル活用し、法曹界の重鎮や教育界の権威たちへ次々と『招待状』を送る。
届いた相手は皆、驚愕したことだろう。あの『傲慢の象徴』のようなエスメラルダが、恥を忍んで、凛とした筆致で自らの過ちを裁いてほしいと依頼してきたのだから。
「……お忙しい中、お集まりいただき感謝いたします」
数日後、公爵邸の会議室に集まったのは、法曹界の老判事や、労働環境に詳しい学者たちだ。
彼らは最初、エスメラルダを『どうせ反省した振りをしているだけだろう』という冷ややかな目で見ていた。だが、私が提出した精緻な調査報告書と、逃げも隠れもしない補償計画を前に、その空気は一変した。
「エスメラルダ様……これほどまでの調査を、ご自身で?」
「ええ。わたくしの無知が、どれほど多くの方の人生を歪めてしまったのか。その全貌を知る義務が、わたくしにはありますから」
重鎮の一人が、眼鏡の奥の目を細めた。
「……素晴らしい。これほどまでに潔い自己批判は、法曹界でも滅多に見られるものではありません」
(……ふぅ。これでようやく、公爵家のコンプライアンス――法令や社会的な規範を守るための仕組みづくりに着手できるわね)
会議を終えた私は、重厚な革張りの椅子に深く体を預けた。
不当解雇の再調査に、退学に追い込まれた学生への復学支援、あるいは他校での奨学金保証。やるべきことは山積みだけど、不思議と苦ではない。
(不祥事を起こした生徒を更生させる第一歩は、まず『自分が何をしたか』を客観的に認識させること。……今の私は、加害者であり、同時にエスメラルダを指導する教師でもあるんだもの。これくらい徹底的にやらなきゃ、教師の名が廃るわ!)
窓の外では、夏の終わりの風が吹き抜けていく。
新学期まで、あとわずか。
私は、過去の自分に引導を渡すための『公的な審判』を静かに開始した。
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