第5話 本物の教育者との再会
私は机に向かい、羽ペンを握りしめた。
手紙の宛先は、かつてのエスメラルダが傲慢な態度で追い出した、厳格な家庭教師クロエ夫人。今は夫が隠居し、息子が伯爵家を継いだことで、前伯爵夫人となった女性だ。まさに、淑女の鏡ともいうべき人物である。
彼女への手紙は、単なる『謝罪文』であってはならない。
四十年の教師人生で、私は数多くの『保護者への詫び状』や『指導記録』を書いてきた。
相手が教育者であればこそ、美辞麗句よりも、理路整然とした反省と、具体的な学習計画――つまり『本気度』を見せる必要がある。
私は一気に筆を走らせた。
最初は異世界の文字に戸惑うかと思ったが、羽ペンを握った瞬間にエスメラルダの身体の記憶が自然と指先を動かした。しかも、四十年もの間、黒板に数式を書き、報告書や指導記録を作成してきた私の『書く』という経験値が、そこに上書きされていく。
文字は、エスメラルダらしい華美な装飾を抑え、読みやすさを重視した端正な書体に改めた。
手紙には、過去の非礼に対する具体的な謝罪と、自分の無知を思い知らされた今、彼女の厳格な指導を受けて一から学び直したいという切実な願いを込める。
それはまさに、一通の『教育再生計画書』だった。
◇
その頃、クロエ前伯爵夫人は、公爵家から届いた一通の手紙を手に、自室で凍りついていた。
「……何の、冗談かしら?」
彼女は、改めて差出人を確認した。かつて教えたエスメラルダは、勉強を『退屈な遊び』と切り捨て、自分を『身分の低い下女』のように扱った少女だ。
だが、今手元にある手紙はどうだ。
淀みのないインクの運び。一分の隙もない起承転結。何より、『自らの無知が周囲を傷つけていたことに、数日間ですが病床で自分を見つめ直すうち、ようやく気づきました』という独白には、偽らざる誠実さが宿っている。
「きっと、誰かに代筆させたのね。文字の品格も内容の理知も、彼女とはあまりに違いすぎるわ……。先日、噂になった『失神騒ぎ』を大げさに書いただけではないかしら」
前伯爵夫人は、冷ややかな視線で紙面を見つめる。
けれど、もしこれが。万が一にも、本人の言葉だとしたら……。教師として、この『向学心』を無下にすることは、誇りが許さない。
「確かめてみましょう。これが巧妙な罠か、あるいは、奇跡の改心か」
三日後、クロエ夫人は、黒いドレスの襟を正し、決然と公爵家へ向かう馬車に乗った。
◇
公爵家の客間の扉が開いた瞬間、私は椅子から立ち上がり、これ以上ないほど完璧なタイミングで頭を下げた。
「クロエ前伯爵夫人。……お忙しい中、このような厚かましい願いを聞き届けてくださり、心より感謝申し上げます」
入ってきた夫人が、一歩、足を踏み出したまま動かなくなった。彼女の目は、鋭く私を射抜いている。
「……エスメラルダ様。一体、何を企んでおいでですか? 前回の授業では、私にインクを投げつけ、『二度とその汚い顔を見せるな』とおっしゃいましたけれど」
その言葉に、私の胃がきりっと痛んだ。
(エスメラルダ、あなた本当に、学校だったら一発停学レベルのことやってるわね……)
六十二年生きてきた私ですら、過去の所業を聞かされるたびに胃が重くなるのだから、当事者である夫人の怒りや失望は計り知れない。それでも、私はゆっくりと背筋を伸ばした。謝罪とは、相手の痛みから目を背けないことだ。
私は夫人の目を真っ直ぐに見つめた。
「仰る通りです。過去の私は、己の特権に胡坐をかき、あなたの真摯なご指導を泥で汚しました。……インクの汚れは落ちても、あなたの心を傷つけた事実は消えません。今日、私がお呼びしたのは、学習のためだけではありません。まず、一人の人間として、あなたに心からの謝罪を受け入れていただきたかったのです」
夫人の眉が、ぴくりと動いた。
怒りか、それとも意外さか。まだ、その表情からは読み取れなかった。
怒りでも呆れでも構わない。無関心でないのなら、まだやり直せる。私は恭しく夫人を椅子へと促し、自らは向かいの席へ腰を下ろした。かつて教師だった私が、今は一人の生徒として。
「夫人。今の私は、自分がどれほど空っぽな人間か、痛いほど理解しています。……私に、もう一度だけ『学び』の喜びを教えていただけないでしょうか」
夫人は黙って私を見つめていた。その視線は鋭いままだったが、どこか迷うような色が混じっている。まるで目の前の生徒を信じたい自分と、信じて裏切られた過去の自分がせめぎ合っているかのようだった。
やがて夫人は小さく息を吐き、鞄から一冊の教科書を取り出した。何度も開かれたのだろう。革表紙の角は擦り切れている。それをテーブルに置いた瞬間、私は理解した。
この人はまだ、『教師であること』を諦めていない。
「……よろしいでしょう。では、エスメラルダ様。あなたの『本気』、授業で示していただきましょうか」
その瞬間、私は思わず背筋を伸ばした。
気づけば、膝の上で握りしめた両手に力が入っていた。
危ない。今の私は十六歳の令嬢だ。六十二歳の元教師のままなら、『よし来た!』と机を叩いていたかもしれない。
そうして始まった授業は、まさに濃密な時間だった。
クロエ前伯爵夫人の講義は容赦がない。歴史、語学、政治情勢……。だが、私はそれら全てを、乾いた砂が水を吸うように吸収していった。
「エスメラルダ様。この年代の条約が、なぜ後の内乱に繋がったか分かりますか?」
「当時の経済状況が関係しているのではないでしょうか。……申し訳ありません、この国の細かい歴史背景はまだ理解が追いついておらず、これ以上の推察はできかねます」
答えるたびに、夫人の表情が和らいでいく。
「あなたは、知らないことを知らないと、素直に言えるのですね」
彼女が問い、私が答える。あるいは私が疑問を投げ、彼女が深く解説する。それは、かつて私が理想とした、教師と生徒が互いに考えを交わし、理解を深めていく授業そのものだった。
彼女は私が答えを間違えても決して呆れた顔をせず、なぜそう考えたのかを問い、正解へ辿り着く道筋を示してくれた。理解できた瞬間には、ほんのわずかに目元を和らげる。その小さな変化を見逃すほど、私は鈍くない。
(ああ、この人は本物だ。私と同じ、教壇に立つ側の人間だわ!)
六十二歳の私が、十六歳の生徒として、彼女という『師』に出会えた喜び。教師として孤独に戦ってきた前世の記憶が、彼女のプロフェッショナルな姿勢に共鳴し、胸が熱くなるのを抑えきれなかった。
予定の二時間は、瞬く間に過ぎていく。
「……今日は、ここまでにしましょう」
先生が本を閉じ、ふう、と小さく息を吐いた。彼女の頬は、心なしか充実感で赤らんでいる。
「エスメラルダ様。……失礼ながら、あなたは『別人』になられましたね。いえ、ようやく『本当の姿』を現されたと言うべきでしょうか」
「夫人……」
「これほど学ぶ意欲を見せる生徒は、久しく見ておりません」
その言葉は、私にとってどんな勲章よりも重く、嬉しかった。私は立ち上がり、今度は「淑女」としてではなく、一人の「志を同じくする者」として、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……クロエ先生。次回の授業も、楽しみにしておりますわ」
「先生」という響きに、夫人は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに優雅な笑みを浮かべて頷いた。
窓から差し込む夕日は、かつて荒れ果てていたエスメラルダの心を、少しずつ、けれど確実に黄金色に照らし始めていた。
夫人が去った後、私はベッドに倒れ込み、自分の豊満な身体を抱きしめた。
(……ああ。やっぱり、教育って最高だわ!)
知識を得る快感。そして、尊敬できる同業者との出会い。これよ! これこそが、第二の人生に相応しい贅沢だわ。
しかも私は今、十六歳の絶世の美女エスメラルダなのよ! 教育最高! 若さ最高! 人生二周目万歳!
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