第4話 再教育の幕開け
「……さて。まずは、自分の足元から固めましょうか」
私は自室の鏡に向かって、そう呟いた。
十六歳の瑞々しい肉体、宝石のような青の瞳。この『最高の容姿』を、中身である六十二歳の私が使いこなせていないのは、あまりに宝の持ち腐れだ。教師というものは、常に学び続ける者でなければならない。
「まずは素材研究からね」
私は鏡の前に立つと、軽く顎を引いた。
右を向く。
「綺麗」
左を向く。
「すごく綺麗」
正面を向く。
「やっぱり綺麗」
どこから見ても綺麗だった。しかも、絶世の美女だ。
せっかくなので、右手を腰に当てる。
「こうかしら」
次に左手を頭の後ろに当て、右足を少し前に出してクロスしてみる。
「こう?」
さらに唇を少し尖らせ、ぱちりと片目を閉じた。
「――どう?」
鏡の中では、絶世の美少女が雑誌の表紙みたいな決め顔をしていた。
(尊い! 圧倒的な美しさだわ……!)
前世の私なら同じポーズを取った瞬間に生徒から即通報されかねない。
「なるほど……。美人はポーズ一つで芸術になるのね」
感心しながら角度を変えていると、鏡の端にマリアの姿が映った。
目が合う。
「……」
「……」
マリアは顔を引きつらせると、何も見なかったことにするように、すっと視線を逸らした。
(うん。客観的に見ると、今の私はだいぶ怪しいわね)
私は軽く咳払いをした。美貌の研究は後回し。まずは、自分自身を鍛え直すことが先だ。
そう決意した私は、その足で両親のもとへと向かった。
◇
公爵家の執務室では、奥の執務机で父・ギルバートが書類に目を通していた。手前の応接スペースでは、母・ベアトリスがソファに腰掛け、優雅に紅茶を楽しんでいる。
「失礼いたします、お父様、お母様」
私が入室すると、父は反射的に机の上のインク壺から少し距離を取った。母はソーサーへカップを戻しかけて、危うく音を立てそうになり、慌てて持ち直す。二人とも、明らかに警戒していた。
「どうしたんだい、エスメラルダ」
「どうしたのかしら?」
私は二人の前まで進み、背筋を伸ばして一礼する。
「わたくし、自分のこれまでの行いを深く反省いたしました。つきましては、もう一度、一から学習し直したく存じます。お父様、わたくしに相応しい家庭教師を選んでいただけますか」
その瞬間、優雅にティーカップを傾けていた父ギルバートと母ベアトリスが、彫像のように固まった。
父のカップが受け皿に触れ、かすかな音を立てる。公爵家当主としては、あるまじき動揺だった。
「……え、エスメラルダ? 今、なんと言ったかな。一から、学習……? 学んで、習う、あの方程式とかの、学習?」
「はい。礼儀作法から教養まで、一から鍛え直していただきたいのです」
私が迷いのない瞳で告げると、父は信じられないものを見る目で私を凝視し、動揺を隠せないまま頷いた。
「わ、わかった。……気の変わらないうちに! 最後の担当である、ダイアナ子爵夫人に予定を確認しておこう」
一週間後。私は公爵家の客間で、家庭教師のダイアナ子爵夫人と向かい合っていた。
現れたのは、派手なドレスに身を包み、どこか卑屈な笑みを浮かべたアラサーの女性だった。
「ダイアナ子爵夫人、改めてよろしくお願いいたしますわ」
「……あら。エスメラルダ様、一体どういう風の吹き回しでしょうか。そんなにかしこまらなくても、これまで通り、お好きなことをして過ごしていただいて構いませんわよ」
夫人は手元の扇をパタパタとせわしなく仰ぎ、小馬鹿にしたような笑みを唇に浮かべた。
私は、彼女の言葉に違和感を覚える。……好きなことをして過ごす?
「それはどういうことでしょうか? 学習の予定は……?」
「まあ。何をおっしゃいますのやら。エスメラルダ様は、『自由に過ごすから邪魔をするな』とおっしゃっていたではありませんか。私はこうして座ってお給料をいただき、あなたは自由に過ごす。それが私とお嬢様の『契約』でしょう?」
(……は?)
耳を疑った。
これは教育ではない。生徒の未来を奪う、立派な『給料泥棒』だわ。『教育の放棄』という名の立派な背任行為だ。
私は冷ややかな視線を彼女に送った。
「わかりましたわ。では、ダイアナ子爵夫人。わたくしがお手本にしたいので、淑女の礼を一度見せていただけますか?」
夫人は面倒臭そうに立ち上がると、渋々といった様子で膝を折った。
……酷い。
背筋は丸まり、重心はぶれ、指先の動きには品性の欠片もない。六十二年の人生で、これほど『美しくない礼』を見ることになるとは思わなかった。
私は静かに立ち上がった。
「ダイアナ子爵夫人」
「なんでしょう?」
「もう一度お願いいたします」
「は?」
「今のは参考になりませんでしたので」
夫人の眉がぴくりと動く。
「参考にならない……とは?」
「そのままの意味ですわ」
私はにこやかに微笑んだ。
「わたくしがお手本を求めたのは、公爵令嬢が学ぶに相応しい淑女の礼です。今の手本では残念ながら、お手本として参考にできる水準ではございませんわ」
部屋の空気が凍った。使用人たちが息を呑む気配が伝わってくる。
ダイアナ夫人の顔がみるみる赤くなった。
「エスメラルダ様! そのような言い方――」
「失礼?」
私は首を傾げる。
「いいえ。これも『教育』ですわ」
その一言で夫人の言葉が止まった。私は教師時代さながらの口調で続けた。
「教育者は常に見られる側です。姿勢、目線、重心移動、指先の処理。どれも公爵家の家庭教師としては不十分です。わたくしは学びたいのです。ですが、夫人から学べるものが見当たりません」
私は淡々と指摘した。
怒鳴りもしない。嘲笑もしない。ただ事実だけを並べる。だからこそ逃げ場がない。
「わたくしが昔のままなら誤魔化せたのでしょうね」
にっこりと微笑む。
「ですが残念ながら、今のわたくしは授業参観に来る保護者より少しだけ厳しいのですわ」
ダイアナ夫人は顔を青くしながら辞去していった。残された私は深いため息をつく。
(……駄目だわ。これは教育ではない)
そう結論づけた私は、その足で再び父の執務室へと向かった。
◇
「お父様、ダイアナ子爵夫人が家庭教師に選ばれた理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
父は困惑したように、デスクの上の書類から顔を上げた。
「……ああ。それは……他に誰もいなかったからだな。君が次々に家庭教師をクビにするから、受けてくれる先生が見つからなくてね。彼女になってからは、君が何も言わなかったから、うまくいっていると思っていたんだよ」
父の言葉に、私は深く納得した。
前世のエスメラルダは、自分を叱らない、甘やかしてくれるだけの「偽物」をそばに置くことで、自らを甘やかしていたのだ。
「……そうですか。……お父様、はっきり申し上げます。彼女は教育者として失格です。彼女に我が家の資産を支払うのは、ドブに金を捨てるのと同じですわ」
私は毅然と言い放った。
「わたくしが問題だったのは百も承知です。ですが、どうか、一番最初に私の担当だった先生を、もう一度お願いできないでしょうか」
父は目を見開いた。
「最初の先生? ……クロエ伯爵夫人のことかい? 彼女は非常に厳格で、君が最も嫌っていたはずだが。……いや、そもそも彼女がもう一度受けてくれるかどうか……」
クロエ前伯爵夫人。
礼儀作法に一切の妥協を許さず、少しでも姿勢が崩れれば即座にやり直しを命じる、恐ろしく厳格な女性だった。当時のエスメラルダが泣きながら追い出したのも、今ならよくわかる。
「わたくし、自らお手紙を書かせていただきます。誠心誠意、謝罪と再教育のお願いを綴りますわ」
私は父の返事を待たず、丁寧に一礼して部屋を去った。
後に残された父・ギルバートは、娘が去ったドアを呆然と見つめていた。
これまでのエスメラルダなら、思い通りにならないことがあれば喚き散らし、物を投げ、自分を正当化していたはずだった。
「……うちの娘が、急に優等生になったんだが?」
今、目の前にいたのは誰だ。
理路整然と問題を指摘し、自らの過ちを認め、再起を誓う――その姿は、かつて自分が夢見た「誇り高い娘」そのものではないか。
「……アレは、誰だ?」
父は独り言を呟き、目元を覆った。
「本当に、エスメラルダなのか。……信じられん。もしこれが夢なら、どうか《《覚めないでくれ》》……」
自室に戻った私は、すぐさまレターセットを取り出した。
家庭教師をクビにし続けたエスメラルダの『過去の不始末』を清算するのは、並大抵のことではないだろう。
けれど、私には『四十年間の謝罪経験』がある。
不祥事を起こした教え子のために、怒り狂う保護者の前で何度頭を下げてきたと思っているの?
私は羽ペンを握りしめた。
「見てなさいよ。最高に礼を尽くした手紙で、その頑なな心を溶かしてあげるから」
中身は六十二歳、器は十六歳の絶世の美女。
私の『更生指導』は、まだ始まったばかりだ。
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