第32話 特待生の働く場所
厨房を出る前に、私は振り返り、ハンツにもう一つ頼み事をした。
「ハンツ料理長。一つ言い忘れていたわ。明日の仕込みから、特待生の子たちにも手伝わせてもらえるかしら。彼らは料理の見習いではないけれど、働きたいという意欲は本物よ。厳しく、でも愛情を持って指導してあげてちょうだい」
私の言葉に、ハンツは胸をドンと叩いて力強く応えた。
「合点承知だ、大将! 根性のある奴なら、俺が一人前に育ててみせますよ!」
「ええ。彼らは《《生活のために》》ここへ来るわ。働いて賃金を得て、賄いでお腹を満たし、食費を節約する。それが彼らにとって切実な目的なのよ。……残念ながら、学園内での身分差別に心を痛めている子も多いでしょう。あなたたちと一緒に働く時間が、彼らにとって心安らぐひとときになればいいと思っているわ。どうか、彼らを支えてあげて。もし不都合や問題が起きたら、すぐにミッテラン公爵家へ報告してちょうだい。わたくしが責任を持って対処するわ」
エスメラルダが厨房を後にした瞬間。
背後で、先ほどよりもさらに大きく、地響きのような歓声が上がった。
「なんだあれは……女神様か? あれはもう慈愛の女神だろ……」
「すげえな。下々の事情まで汲んで、あそこまで心を砕く貴族なんざ聞いたことねえぜ」
「特待生は賢い奴らなんだろう? だったら俺たちが大事にしてやろうじゃねえか!」
荒くれ者の料理人たちの熱い誓いが、学園の調理場を揺らしていた。
◇
数日後。
学食の本格稼働を前に、メニューや調理手順、提供方法などを最終確認する会議が開かれた。
出席者は、学園長と、学園側の実務責任者である事務局長ボールドウィン。ミッテラン家御用達で、新たな食材の仕入れを担当する『ガルシア商会』の会頭カイン。そして、今回の改革を取り仕切る公爵令嬢エスメラルダと、厨房の責任者であるハンツ料理長だ。
ハンツ料理長は、どこか緊張した面持ちで席に着いていた。エスメラルダが計画を提示すると、再び度肝を抜かれることになる。
「……《《姫大将》》、こりゃ一体なんです?」
ハンツが指差したのは、エスメラルダが用意した二つの資料だった。
「こちらは、一週間分の献立と栄養バランスをまとめた表よ。同じ食材でも、曜日によって使い方を変えるの。たとえば、月曜日は根菜を主菜の付け合わせに使い、残った皮や端材は出汁を取るのに利用する。こうすれば、食材を無駄なく使い切れるでしょう? 仕入れにかかる費用を三割抑えながら、料理の味に深みを出すこともできるわ。前世……いえ、わたくしが学んだ『仕出しの極意』ですわね」
ハンツは、緻密に計算された数字の羅列に目を剥いた。
彼はプロの料理人だが、あくまで感覚の世界で生きてきた。しかし、目の前の公爵令嬢が提示しているのは、『いかに安く、いかに大量に、かつ栄養価を損なわず提供するか』という、徹底的に合理化された経営戦略だった。
「ただの贅沢な飯じゃねえ……。安価な食材を、手間と知識で『宝』に変えようとしてるのか!?」
「そうよ。それからこれを見て。特待生たちの勤務表よ。授業の空き時間を効率的に組み込んでいるわ。彼らが学業を疎かにせず、かつ厨房が最も忙しい時間に人手を確保できるようになっているの」
ハンツは震える手で資料をめくった。
そこには、調理の手順だけでなく、大鍋を洗う時間や、配膳の動線までが図解されていた。それは、かつて彼が夢見た『理想の厨房』の完成形だった。
「……恐れ入りました。《《あなた様》》は、ただの料理の達人じゃねえ。……軍師だ。戦場を支配する軍師だぜ、姫大将!」
「ふふ、買い被りすぎよ。わたくしはただ、誰もが身分に関係なく、お腹いっぱい食べて笑顔になれる場所を作りたいだけ」
エスメラルダは優雅に微笑んだ。しかし、その視線はすでに、この改革をさらに広げていくための次の課題を見据えていた。
力強く拳を胸に当てるハンツに見送られ、エスメラルダは会議室を後にした。
廊下を歩きながら、前世の実家の匂いを思い出していた。揚げ油と出汁の香りが染み付いた、あの仕出し弁当屋のことを。
『美佳。美味い飯はな、どんな人でも笑顔にするんだぞ』。
父が口癖のように言っていたその言葉は、異世界においても、そして公爵令嬢という立場にあっても、不変の真理なのだ。
視線の先には午後の柔らかな光が差し込む廊下が続いていた。
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