第25話 退屈な教壇と、波乱の昼休み
間もなくして、教師が教室に現れ、二学期最初の授業が始まった。
エスメラルダとしての私は、異世界の教育現場に興味津々……だったのだが、その期待は授業開始からわずか十分で脆くも崩れ去った。
(……なんとも、情熱の欠片も感じられない淡々とした授業ね)
そもそも、この学園に通う高位貴族たちは、幼少期から厳選された家庭教師によって英才教育を受けている。ここでの学びは、彼らにとっては、すでに習った内容のおさらいに過ぎない。平民や低位貴族の特待生たちは新しい知識に目を輝かせているが、それは教室のごく一部だ。
では、なぜ彼らは学園で学ぶのか。答えは明白、『人脈作り』だ。
貴族にとって社交は命。家同士の繋がりを強固にし、将来の領地運営に繋げるための政治の場。結果として授業はただの『卒業資格を得るための試験対策』に成り下がっていた。
(質問もなければ、生徒とのやり取りもない。ただ教科書の内容をなぞるだけなんて、元教師として黙って見ていられないわ……。何か、生徒たちが興味を持てる工夫はできないかしら)
私は職業病を疼かせながら、真っ直ぐに教師を見つめて黒板を追う。
しかし、見つめられる側の教師は、私の視線に気づくと、顔を青ざめさせた。何か不手際があったのではないかと気にしているのか、落ち着かない様子で視線をさまよわせている。
『触らぬ神に祟りなし、触らぬ公爵令嬢に祟りなし』――それがこの学園の教員たちの共通認識なのだ。
午前の授業が終わり、昼休み。
私はヤスミン、マイク、ビビアンと共に学食へ向かおうと席を立った。その時、背後から鋭い女性の声が響いた。
「エスメラルダ様。一体どういうおつもりですの? わざと無視して殿下の気を引こうだなんて、あまりに稚拙な発想ですわね」
声の主が誰なのか思い当たらず、私はヤスミンに小声で尋ねた。
「ねえ、ヤスミン。このヒステリックな方、どなたかしら?」
「えっ、あの。……キャサリン・フォード公爵令嬢様ですよ、エスメラルダ」
ヤスミンの答えを聞いて、ようやく納得した。なるほど、彼女が『裏の顔を持つ悪女』キャサリンなのね。
キャサリン公爵令嬢は、微笑みを浮かべたまま一歩前に出た。
「エスメラルダ様。少々よろしいですか?」
その声は、誰が聞いても非の打ち所のない淑女の響きだった。
だが――その笑顔の裏で。
◇
(何よ、その余裕顔。どうせまた殿下にまとわりついて、すぐに騒ぎを起こすに決まっているわ)
彼女の目だけが、冷たく細められていた。
「先ほどのご発言、少々誤解を招くものではなくて? 殿下に対してそのような態度を取られるのは、学園の秩序にも関わりますわ」
優雅な敬語。柔らかな声音。その裏側で、彼女の悪意は静かに牙を研いでいた。
キャサリンは、確信していた。
エスメラルダはどうせ――また殿下に執着し、惨めに取り乱す。それこそが『狙い』なのだから。
(……なのに、視線が一度も揺れない。まるで、最初から『取るに足らないもの』として扱っているみたいに)
エスメラルダは小さく息を吐き、静かに微笑んだ。
「キャサリン様。……少し、お声が大きいのではなくて? 静粛な学舎では、耳に障りますわ」
その一言で、空気がわずかに凍る。
キャサリンの笑みは崩れない。だが、指先だけが一瞬、わずかに強張った。
(……なに、この違和感)
今までの彼女なら、この程度の挑発で必ず『感情』を見せた。怒るか、焦るか、あるいは殿下を見て取り繕うか。
だが目の前のエスメラルダは――ただ静かだった。水面のように、揺れない。
「それと、『殿下の気を引く』でしたかしら?」
エスメラルダは柔らかく首を傾げた。
「困ったわ。わたくし、そのようなことにこれっぽっちも興味はございませんの。どうぞ今後も、安心してお過ごしになってくださいませね」
完璧で余裕のある美しい微笑み。
「それでは、失礼いたしますわ。ごきげんよう」
キャサリンは微笑んだまま、その背中を見送る。
(……何? 今のは、なに?)
胸の奥に、説明のつかない苛立ちだけが残る。
残されたキャサリンは、表面上は淑女らしい微笑を浮かべていたが、内心は荒れに荒れていた。
(何よあの態度! 余裕ぶって! 本当は殿下に付き纏いたいくせに。いつも通りうざったがられて、惨めに嫌われなさいよ!)
◇
エスメラルダたちが消えた教室では、エドワードと側近たちが不思議そうな表情を浮かべていた。
「おい、あれ。エスメラルダ嬢はどうしてしまったんだ?」
「さあな。いつもの気まぐれだろう。その内、またなりふり構わずエドを追いかけ回すさ」
「ああ、きっとそうだな。あの執着心が消えるはずがない」
側近たちの軽口に、エドワードだけは黙り込んでいた。
いつもならエドワードの視界に入るために手段を選ばなかったエスメラルダが、今日は彼に一度も目を向けなかった。
わざと気を引こうとしているのか?
彼も最初はそう疑った。
しかし、朝に交わした挨拶。あの時、至近距離で見た彼女の瞳。そこには、かつての濁った執着など微塵もなかった。彼女の瞳は、まるで道端の石を見るかのように、純粋に『無関心』だったのだ。
鬱陶しいと思っていた相手が、自分の前からいなくなった。
ようやく身軽になったと、清々するはずだった。だが、エドワードの胸の奥では、言葉にできない妙な胸騒ぎが支配し始めていた。
「……本当か? 本当に、気まぐれなのか?」
彼は独りごちて、彼女が去った扉の向こうを、いつまでも眺めていた。
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