第24話 朝の挨拶と、王太子の沈黙
わたくしは、座っていた椅子から流れるような動作でゆっくりと立ち上がった。
ちょうど窓際から差し込む朝の日差しが教室の空気を透かして、エスメラルダを照らし出す。まるで舞台のスポットライトを浴びているようなその光景に、周囲の生徒たちはもちろん、傲慢な自信をまとっていた王太子の側近たちやその婚約者たちまでが一瞬、息を呑んだのが分かった。
(あら、なんだか妙な雰囲気ね。でも、まあ、いいわ。教師の基本はまず、礼節から。挨拶だけはしっかりしておきましょうか)
わたくしは、エスメラルダという『素材』を最大限に活かし、完璧な角度で計算された、優美な淑女の礼をとった。
その神々しいまでの美しさに、静まり返った教室内から『ほぉ……』という感嘆の溜息が漏れる。
「王国の太陽、エドワード王太子殿下にご挨拶を申し上げます。ご無沙汰しておりますわ」
私は、礼の姿勢を保ったまま、顔を伏せて言葉を紡いだ。
……だが、いつまで経っても相手からの返答がない。
(え? どういうこと? 普通、ここで『顔を上げなさい』とか何とか言うものじゃないの? この場合、勝手に上げていいのかしら……。まあ、いいわよね。別に公式な謁見の場でもないしね)
わたくしがしびれを切らして顔を上げると、そこには目を見開いたまま、彫像のように美しい顔のまま固まっている王太子エドワードの姿があった。
(ん? 何その反応。口も利きたくないほど険悪な関係っていうことかしら。……面倒ね、やっぱり)
いつまでも反応のない相手に構っている暇はない。挨拶は済ませたのだから、これで十分。社会人としての礼儀は果たしたわ。
わたくしはエドワードに背を向け、困惑した顔でこちらを見ているマイクのもとへ歩み寄った。
「ねえ、マイク。ビビアンがあなたの隣の席だったのね。近くて助かるわ」
話しかけられたマイクは、一瞬で顔を青くし、泡を食って慌てふためいた。
「エ、エスメラルダ……! 今は僕に話しかける場面ではない……いや、その、違う! そうではなくて……っ、頼むからあちらを見てくれ! あちらだ!」
マイクが必死の形相で、小声で背後の王太子を視線で指し示す。周囲の生徒たちも『あの男爵令息、殺されるぞ』と言わんばかりの戦慄を浮かべていた。だが、私は肩をすくめて笑った。
「えええー、挨拶はもう済ませたわよ。それに、何も言葉を返さない失礼な方に、これ以上何を言えというの? 時間の無駄でしょう」
(公式の場でもないし、返答義務はないわね)
「ム、ムダ……!?」
私の台詞に、教室内が再び凍りついた。
あの、王太子に執着し、一挙手一投足に一喜一憂していたはずのエスメラルダ公爵令嬢が、今、彼を『失礼な方』と断じ、あまつさえ『時間の無駄』だと切り捨てたのだ。
公爵令嬢と男爵令息の、あまりに自然で親しげなやり取りに、エドワードはさらに目を見開いた。
(……なんだ、この女は。本当に、あのエスメラルダなのか? いや、それ以前に……こいつ、こんなにも美しかったか?)
当の王太子に凄まじい動揺と屈辱、そして得体の知れない焦燥感を植え付けて、こうして、私の新しい学園生活が幕を開けたのだった。
授業が始まるまでの間、私はぐるりと教室を見回した。
正面の教壇は一段高くなっており、教机と黒板が据えられている。チョークと黒板消しを使って授業を進めるのだろう。
Sクラスの生徒数は二十名。一列四席の机が五列に並び、机は一つずつ独立していた。教科書とノート、筆記具も各自で用意するらしい。
その光景は、不思議なほど懐かしかった。
四十年に及ぶ教師人生の記憶が、静かに胸の奥から蘇る。
教壇に立った懐かしい日々。
黒板に文字を書き、生徒たちの声に耳を傾け、叱り、褒め、共に笑った数え切れない時間。
失敗もあった。苦労もあった。
それでも、あの教室で過ごした日々は、間違いなく私の人生そのものだった。
気づけば鼻の奥がつんと痛み、熱いものが喉元までせり上がってくる。
私は気持ちを落ち着けるように、そっと窓の外へ視線を向けた。
潤みかけた瞳を、誰にも見られないように。
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