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悪役令嬢の中身は、定年退職した元教師 〜絶世の美女に転生したので、愛の鞭と美貌で人生を楽しみます〜  作者: 恋せよ恋
生まれ変わった十六歳の悪役令嬢

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第2話 最初の指導対象は、家族です

 部屋へ駆け込んできた三人は、私の無事を確認すると、『まずはゆっくり休みなさい』とだけ言い残し、あっという間に去っていった。


 静まり返った部屋でベッドに横たわった私は、いつもの習慣でベッド脇へと手を伸ばした。


「……あら?」


 いつもの薬がない。


 血圧の薬、中性脂肪の薬、そして胃薬に整腸剤。ついでに腰痛対策の湿布と、長年の立ち仕事で悪化した下肢静脈瘤対策の弾性ストッキング。この時期は、花粉症の薬も欠かせなかった。あとは、ドライアイ対策の目薬。これで私の『六十二歳フル装備』は完成だったはずなのだ。


 前世の六十二歳の朝は、それらを確認するところから始まっていた。


 だが、手に触れたのは、上質な木目のサイドテーブルだけだった。

 


「……そうだったわ」


 私は両手で顔を覆った。


「もう、薬も飲まなくていいのよね!?」


 誰もいない部屋で呟く。


「神様ありがとう!!」



 そこであらためて、私は体を起こした。


 いつものように、起床後のストレッチをしようとして──気づく。

 この体、そもそも関節が痛くない。嫌な強張りも感じないし、足のむくみとも無縁!


「腰の鈍痛もないし、毎朝の面倒なリハビリ運動も、関節痛に怯える日々ももうないのね。辛いスクワットもしなくていいの! ああ、神様、仏様、ご先祖様! 感謝します!」


 もう一度、慌てて鏡を見る。


 寝癖がない! 頬に枕の跡もない! 目ヤニもなければ、肌はカサつきもなく、ぷるんとしている。


「……え?」


 私は頬をつねった。


「寝起きよね?」


 もう一度確認する。


「寝起きよね!?」


 周囲を見回すが、確かに寝起きだった!


 信じられない。


 前世の私は、朝起きた瞬間に鏡を見て、『誰、この腫れぼったいまぶたに、むくんだ顔の疲れたおばあさん……』と現実を突きつけられるところから一日が始まっていたのに。


「顔を洗う前からすでに美少女として完成しているなんて、どういうことなの!? エスメラルダさん、あなたって本当にすごいビジュアルね。すごい! すごすぎるわ! 生徒たちがよく言っていた『びーりある』とかいうやつだって、どんとこい! むしろ、五秒で投稿できるわ。いや、投稿させてちょうだい! 寝起きの抜き打ち撮影、望むところよ! この肌ならフィルターいらないどころか、アプリが嫉妬するレベルじゃない?」


 頬に手を当てる。


「化粧水、乳液、美容液、クリーム……コラーゲンと、グルコサミンのサプリメント」


 言いかけて、止まる。


「……いらない?」


 頬を触る。


 ぷるん。


「いらないわね」


 ぷるん。


「本当にいらないわね」


 ぷるん。


 感動で、笑いがこみ上げた。


「ふうー。……まずは、落ち着きなさい、美佳」


 自分にそう言い聞かせた瞬間、ふと脳内の記憶と共に、現実が戻ってきた。


 先ほど、私の部屋にやってきた三人の家族の顔が脳裏をよぎる。


 筆頭公爵にして宰相、三十九歳の父・ギルバート。

 現役のモデルでも通用しそうな、金髪をなびかせた十八歳の兄・リュカ。

 そして、父と同い年なのに、どう見ても二十代にしか見えない美魔女の母・ベアトリス。

 ……何ということだ。この家は、遺伝子の宝くじでも当てたのか。


 父は、『六十二歳の私』にはずいぶん年下だが、長年独身を貫いてきた私の枯れ果てた乙女心に、強烈な一撃を食らわせるほどの衝撃だった。


(もし今の私が六十二歳のままだったら、父の色気にやられて心臓が止まっていたかもしれないわね。あっぶな!)


 この『顔面偏差値・特級クラス』の破壊力、恐るべし!


 自分に言い聞かせながら、私は胸の前で両手を組み、ゆっくりと深呼吸をした。問題児同士の大喧嘩も、モンスターペアレントの怒鳴り込みも、学年主任として乗り切ってきたのだ。


 深く吸って――吐く。

 もう一度、吸って――吐く。


 ついでに肩を回し、首を左右に倒す。

 教師時代に問題対応の前によくやっていた『冷静になるためのルーティン』を一通りこなす。


 十六歳の美少女になったくらいで動揺していてどうする!


「よし」


 そして鏡の前に立ち、両頬を軽くぺちんと叩いた。


「浮かれるな。これは『少女の顔』よ。ただの顔。たまたま神様が《《本気を出した》》だけの顔よ」


 そう言い聞かせる。


 だが、鏡の中では絶世の美少女が真顔で頬を叩いていた。


「……説得力がないわね」


 思わず視線を逸らしてベッドに腰掛けた。



 ――コンコンコンコン。


「……失礼致します、……エスメラルダお嬢様。お着替えの準備が整いました」


 部屋に入ってきたのは、先ほど脱兎のごとく逃げ出していった侍女だった。

 彼女は私の機嫌を損ねまいと必死に顔色をうかがい、震える手でドレスを広げている。


 その怯えきった様子に、私は改めてエスメラルダの『やらかし』の重さを痛感する。


 私はふと、鏡に映る自分を見つめた。

 十六歳の、瑞々しいまでの美貌。けれど、中身は六十二歳の『定年退職した元教師』だ。


 ……よし。まずは、この冷え切った家族関係の立て直しから始めましょうか!


 生徒指導の基本は、まず信頼関係の構築から。

 教師が最初に行うのは、威圧することではなく、生徒の話を聴き、誠実さを示すことだ。



「そんなに震えなくて大丈夫よ。……そのドレス、とても素敵ね。選んでくれて、ありがとう」


 私が微笑んでそう言うと、小刻みに震え出した侍女は、持っていたドレスを床に落とした。


「ひっ……! 申し訳ございません! すぐに、すぐに拾います! お許しください!」


 床に膝をつき、震える侍女を見つめて、私は小さく息を吐いた。


(これは……重症ね。感謝を伝えただけで処罰を覚悟されるなんて、前代未聞のブラックな職場だわ。これ、労働基準法以前に人道的な指導が必要ね)


 私はベッドから立ち上がり、自らも床に膝をついた。


 驚愕で目を見開く侍女の手を優しく取り、その手の埃を払ってあげる。まあ、公爵家ともなれば塵一つ落ちてはいないのだけれど。


「謝る必要はないわ。人間だもの、手を滑らせることくらいあるでしょう? ほら、続きをお願いしてもいいかしら」


 侍女は、まるで奇跡を目の当たりにした信者のような顔で、呆然と私を見上げていた。


 ◇


 震える侍女の介助で身支度を整え、朝食の時間になった。


 着替えの最中も、怯える侍女を宥め、できるだけ会話をした。

 どうやら彼女の名はマリア、エスメラルダさんの専属侍女になって、まだ三日目なのだそうだ。エスメラルダさんの記憶を振り返っても、侍女の名前は思い出せなかった。


 マリアの案内で食堂へと向かう。

 おそらく、家族との会話もマリアとのやり取り同様、前途多難だろう。


 だが、真の問題は言葉遣いなどではない。

 食堂で待っている家族たちが私に向けてくる、あの『腫れ物に触るような視線』だ。


 扉が開かれると、すでに席についていた父のギルバートと母のベアトリスが、申し合わせ

たようにぴたりと手を止め、こちらへ視線を向けた。その空気は重く、冷ややかだった。


「おはようございます。お父様、お母様」


「……」


 その直後、私に続いて兄のリュカが入室した。


「おはようございます。……お兄……様?」


「……」


 兄の眉間には深い皺が刻まれていた。私も兄も、まだ席に着いていない。

 家族で食事をするというより、まるで敵と対峙しているかのようだ。さらに、私が何気なく身を動かすと、兄はさりげなく距離を取った。


(……完全に警戒されてるわね)


 兄の目には、明らかな疑いの色が浮かんでいた。


 まるで、私が何かを企んでいるのではないか、食事に毒でも盛ったのではないかと疑っているような、政敵を見定めるかのごとき鋭い目だった。


 私はそんな兄の視線をあえて無視し、席に着く前に、まず両親へ声をかけた。


「お父様、お母様。今回は、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」


 私が静かに頭を下げた瞬間、父は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった。


 兄にいたっては、「……毒でも盛られたのか? それとも、新しい嫌がらせか?」と、露骨に警戒心を剥き出しにしていた。


 母は、ティーカップを持ち上げたまま固まっている。

 私と兄を交互に見つめ、何か言おうとしては口を閉じる。やがてレースのハンカチをぎゅっと握りしめ、困ったように眉を下げた。


「……ええと……これは、いったいどういう……?」


 その声も最後まで形にならず、再びハンカチをぎゅっと握るだけで止まった。


 ……これは、相当だわ。


 教師生活四十年。反抗する生徒も、モンスターペアレンツも経験してきたけれど。まさか『自分の家族』から、これほどまでに怯えられ、信頼されていないとは。


(エスメラルダさん。あなた、一体どれだけこの家で『暴君』として君臨していたのよ……)


 けれど、嘆いていても始まらない。


 信頼は、一日で取り戻せるものではない。ならば、まずは目の前の人間に誠実に接するところからだ。


 私は、家族の顔を一人ずつ見つめた。


(まずはこの人たちに、今度こそ安心して笑ってもらえるようにならなくちゃ)


 元教師の意地にかけて、この家の人間関係を立て直してみせるわ!

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