第2話 最初の指導対象は、家族です
部屋へ駆け込んできた三人は、私の無事を確認すると、『まずはゆっくり休みなさい』とだけ言い残し、あっという間に去っていった。
静まり返った部屋でベッドに横たわった私は、いつもの習慣でベッド脇へと手を伸ばした。
「……あら?」
いつもの薬がない。
血圧の薬、中性脂肪の薬、そして胃薬に整腸剤。ついでに腰痛対策の湿布と、長年の立ち仕事で悪化した下肢静脈瘤対策の弾性ストッキング。この時期は、花粉症の薬も欠かせなかった。あとは、ドライアイ対策の目薬。これで私の『六十二歳フル装備』は完成だったはずなのだ。
前世の六十二歳の朝は、それらを確認するところから始まっていた。
だが、手に触れたのは、上質な木目のサイドテーブルだけだった。
「……そうだったわ」
私は両手で顔を覆った。
「もう、薬も飲まなくていいのよね!?」
誰もいない部屋で呟く。
「神様ありがとう!!」
そこであらためて、私は体を起こした。
いつものように、起床後のストレッチをしようとして──気づく。
この体、そもそも関節が痛くない。嫌な強張りも感じないし、足のむくみとも無縁!
「腰の鈍痛もないし、毎朝の面倒なリハビリ運動も、関節痛に怯える日々ももうないのね。辛いスクワットもしなくていいの! ああ、神様、仏様、ご先祖様! 感謝します!」
もう一度、慌てて鏡を見る。
寝癖がない! 頬に枕の跡もない! 目ヤニもなければ、肌はカサつきもなく、ぷるんとしている。
「……え?」
私は頬をつねった。
「寝起きよね?」
もう一度確認する。
「寝起きよね!?」
周囲を見回すが、確かに寝起きだった!
信じられない。
前世の私は、朝起きた瞬間に鏡を見て、『誰、この腫れぼったいまぶたに、むくんだ顔の疲れたおばあさん……』と現実を突きつけられるところから一日が始まっていたのに。
「顔を洗う前からすでに美少女として完成しているなんて、どういうことなの!? エスメラルダさん、あなたって本当にすごいビジュアルね。すごい! すごすぎるわ! 生徒たちがよく言っていた『びーりある』とかいうやつだって、どんとこい! むしろ、五秒で投稿できるわ。いや、投稿させてちょうだい! 寝起きの抜き打ち撮影、望むところよ! この肌ならフィルターいらないどころか、アプリが嫉妬するレベルじゃない?」
頬に手を当てる。
「化粧水、乳液、美容液、クリーム……コラーゲンと、グルコサミンのサプリメント」
言いかけて、止まる。
「……いらない?」
頬を触る。
ぷるん。
「いらないわね」
ぷるん。
「本当にいらないわね」
ぷるん。
感動で、笑いがこみ上げた。
「ふうー。……まずは、落ち着きなさい、美佳」
自分にそう言い聞かせた瞬間、ふと脳内の記憶と共に、現実が戻ってきた。
先ほど、私の部屋にやってきた三人の家族の顔が脳裏をよぎる。
筆頭公爵にして宰相、三十九歳の父・ギルバート。
現役のモデルでも通用しそうな、金髪をなびかせた十八歳の兄・リュカ。
そして、父と同い年なのに、どう見ても二十代にしか見えない美魔女の母・ベアトリス。
……何ということだ。この家は、遺伝子の宝くじでも当てたのか。
父は、『六十二歳の私』にはずいぶん年下だが、長年独身を貫いてきた私の枯れ果てた乙女心に、強烈な一撃を食らわせるほどの衝撃だった。
(もし今の私が六十二歳のままだったら、父の色気にやられて心臓が止まっていたかもしれないわね。あっぶな!)
この『顔面偏差値・特級クラス』の破壊力、恐るべし!
自分に言い聞かせながら、私は胸の前で両手を組み、ゆっくりと深呼吸をした。問題児同士の大喧嘩も、モンスターペアレントの怒鳴り込みも、学年主任として乗り切ってきたのだ。
深く吸って――吐く。
もう一度、吸って――吐く。
ついでに肩を回し、首を左右に倒す。
教師時代に問題対応の前によくやっていた『冷静になるためのルーティン』を一通りこなす。
十六歳の美少女になったくらいで動揺していてどうする!
「よし」
そして鏡の前に立ち、両頬を軽くぺちんと叩いた。
「浮かれるな。これは『少女の顔』よ。ただの顔。たまたま神様が《《本気を出した》》だけの顔よ」
そう言い聞かせる。
だが、鏡の中では絶世の美少女が真顔で頬を叩いていた。
「……説得力がないわね」
思わず視線を逸らしてベッドに腰掛けた。
――コンコンコンコン。
「……失礼致します、……エスメラルダお嬢様。お着替えの準備が整いました」
部屋に入ってきたのは、先ほど脱兎のごとく逃げ出していった侍女だった。
彼女は私の機嫌を損ねまいと必死に顔色をうかがい、震える手でドレスを広げている。
その怯えきった様子に、私は改めてエスメラルダの『やらかし』の重さを痛感する。
私はふと、鏡に映る自分を見つめた。
十六歳の、瑞々しいまでの美貌。けれど、中身は六十二歳の『定年退職した元教師』だ。
……よし。まずは、この冷え切った家族関係の立て直しから始めましょうか!
生徒指導の基本は、まず信頼関係の構築から。
教師が最初に行うのは、威圧することではなく、生徒の話を聴き、誠実さを示すことだ。
「そんなに震えなくて大丈夫よ。……そのドレス、とても素敵ね。選んでくれて、ありがとう」
私が微笑んでそう言うと、小刻みに震え出した侍女は、持っていたドレスを床に落とした。
「ひっ……! 申し訳ございません! すぐに、すぐに拾います! お許しください!」
床に膝をつき、震える侍女を見つめて、私は小さく息を吐いた。
(これは……重症ね。感謝を伝えただけで処罰を覚悟されるなんて、前代未聞のブラックな職場だわ。これ、労働基準法以前に人道的な指導が必要ね)
私はベッドから立ち上がり、自らも床に膝をついた。
驚愕で目を見開く侍女の手を優しく取り、その手の埃を払ってあげる。まあ、公爵家ともなれば塵一つ落ちてはいないのだけれど。
「謝る必要はないわ。人間だもの、手を滑らせることくらいあるでしょう? ほら、続きをお願いしてもいいかしら」
侍女は、まるで奇跡を目の当たりにした信者のような顔で、呆然と私を見上げていた。
◇
震える侍女の介助で身支度を整え、朝食の時間になった。
着替えの最中も、怯える侍女を宥め、できるだけ会話をした。
どうやら彼女の名はマリア、エスメラルダさんの専属侍女になって、まだ三日目なのだそうだ。エスメラルダさんの記憶を振り返っても、侍女の名前は思い出せなかった。
マリアの案内で食堂へと向かう。
おそらく、家族との会話もマリアとのやり取り同様、前途多難だろう。
だが、真の問題は言葉遣いなどではない。
食堂で待っている家族たちが私に向けてくる、あの『腫れ物に触るような視線』だ。
扉が開かれると、すでに席についていた父のギルバートと母のベアトリスが、申し合わせ
たようにぴたりと手を止め、こちらへ視線を向けた。その空気は重く、冷ややかだった。
「おはようございます。お父様、お母様」
「……」
その直後、私に続いて兄のリュカが入室した。
「おはようございます。……お兄……様?」
「……」
兄の眉間には深い皺が刻まれていた。私も兄も、まだ席に着いていない。
家族で食事をするというより、まるで敵と対峙しているかのようだ。さらに、私が何気なく身を動かすと、兄はさりげなく距離を取った。
(……完全に警戒されてるわね)
兄の目には、明らかな疑いの色が浮かんでいた。
まるで、私が何かを企んでいるのではないか、食事に毒でも盛ったのではないかと疑っているような、政敵を見定めるかのごとき鋭い目だった。
私はそんな兄の視線をあえて無視し、席に着く前に、まず両親へ声をかけた。
「お父様、お母様。今回は、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
私が静かに頭を下げた瞬間、父は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった。
兄にいたっては、「……毒でも盛られたのか? それとも、新しい嫌がらせか?」と、露骨に警戒心を剥き出しにしていた。
母は、ティーカップを持ち上げたまま固まっている。
私と兄を交互に見つめ、何か言おうとしては口を閉じる。やがてレースのハンカチをぎゅっと握りしめ、困ったように眉を下げた。
「……ええと……これは、いったいどういう……?」
その声も最後まで形にならず、再びハンカチをぎゅっと握るだけで止まった。
……これは、相当だわ。
教師生活四十年。反抗する生徒も、モンスターペアレンツも経験してきたけれど。まさか『自分の家族』から、これほどまでに怯えられ、信頼されていないとは。
(エスメラルダさん。あなた、一体どれだけこの家で『暴君』として君臨していたのよ……)
けれど、嘆いていても始まらない。
信頼は、一日で取り戻せるものではない。ならば、まずは目の前の人間に誠実に接するところからだ。
私は、家族の顔を一人ずつ見つめた。
(まずはこの人たちに、今度こそ安心して笑ってもらえるようにならなくちゃ)
元教師の意地にかけて、この家の人間関係を立て直してみせるわ!
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