第16話 晩餐の沈黙、仮面の下の知性と、爆弾発言
ミッテラン公爵邸の晩餐は、いつも静かで厳かな雰囲気に包まれている。だが、今日の食卓には、いつもとは違う戸惑いの空気が漂っていた。
私は銀のナイフで鴨のローストを切り分けながら、ふと疑問に思ったことを父ギルバートに尋ねた。
「お父様。わたくしが王太子殿下の婚約者におさまった経緯は、一体何だったのでしょうか?」
父の動きが止まった。ワイングラスを口に運ぼうとしていた兄リュカも、眉をひそめて私を見る。
「……それは、君が望んだことだよ。あれほど強く頼んでいたのに、忘れてしまったのかい?」
父が困惑したように答えると、母がため息をつきながら口を開いた。
「そうよ、エスメラルダ。あなたが、『王太子殿下の婚約者になれなければ修道院へ行くわ!』と騒ぎ立てたからでしょう。まさか、忘れてしまったの?」
(……なんてこったい! エスメラルダったら、脅迫に近い形で婚約をもぎ取っていたわけね)
前世の教え子にもいた。泣いたり喚いたりして、自分の思い通りにしようとする生徒。まさか、自分自身がそんな『問題児』だったとは。
そんなことを考えていると、兄が冷ややかな目で私を見つめていた。
「お前、本当に大丈夫か? そう言えば、夏休みに入ってから一度も王城へ通っていないのではないか?」
「ええ、登城しておりませんわね。何か問題でも?」
「……殿下に会いたいのではないのか?」
「いいえ、まったく。これっぽっちも。全然」
家族三人の動きが、今度こそ完全に凍りついた。
以前のエスメラルダは、少しでも早く殿下に会いたい一心で、殿下の公務を邪魔してまで城に押しかけていたはずだ。
そんな彼女の執着を知っている家族にとって、今の私が殿下にまったく関心を示さないことは、信じられないほど異常なことなのだ。
「エスメラルダ。……まさか、王太子妃教育にも通っていないのかい?」
父の問いに、私は「ええ」と頷く。
「特に先方からの要請もございませんでしたし、今は自分の時間を大切にしたいのです」
「……それは、お前が怠惰で学力が低いからだろう。向こうも匙を投げたに違いない」
吐き捨てるように言ったのは兄だ。
「こら、リュカ。妹に対して冷たすぎるだろう」
「しかし父上。これは事実です。エスメラルダを無理に『Sクラス』に入れたせいで、彼女はますます授業についていけなくなっているのですよ。本来ならSクラスに入れる実力もないのに、本人の希望を聞き入れた結果がこれです」
「ああ、まあ、それは……。しかし、エスメラルダがどうしても王太子殿下と同じSクラスに入りたいと、泣いて頼むものだからね……」
家族は私をそっちのけで、『エスメラルダは勉強ができない』という前提で話を進めている。
まるで、自分が問題児扱いされている三者面談に、本人として出席しているような気分だ。
(失礼しちゃうわね。これでも前世では、数多くの教え子を難関校に合格させてきたベテラン教師なのよ!)
私はカトラリーを静かに置き、背筋を伸ばした。
「あの、お父様、お兄様。わたくし、勉強は得意ですわよ。先日、クロエ先生からもお墨付きをいただいたはずですわ」
「……ん? ああ、そういえば、そんな報告も受けていたね」
「フン。どうせ、公爵家の権力を使ってクロエ夫人を脅し、お前に都合のいい報告をさせたのだろう。お前の成績で、まともな評価がもらえるはずがない」
兄の言葉に、私は心の中で大きなため息をついた。
(エスメラルダさん。あなた、いったいどれだけ周囲の信用を失ってきたのよ!)
私の信用は、まさにゼロどころかマイナスからのスタートだ。けれど、教師だった私にとって、こういう状況こそ腕の見せどころである。
「お言葉ですが、わたくし、どうやら本当に優秀らしいですわよ。……信じられないのでしたら、今ここで口頭試験をしてみてはいかがかしら?」
挑発的な私の言葉に、兄が鼻で笑う。
「いいだろう。では、帝国の建国史と、大陸の関税同盟をめぐる経済的摩擦について答えてみろ。……まあ、お前には単語の意味すら分かるまい」
私は迷うことなく答え始めた。
帝国の建国史から隣国との力関係、通商条約の問題点まで。歴史と経済の両面から分析し、それがミッテラン公爵領に与える影響を筋道立てて説明した。
「な……ッ!?」
驚愕に目を見開く兄に、今度は父が身を乗り出した。
父は領地経営に関する難しい質問をいくつか投げかけた。私も、保養地モン・ルージュの再編で得た知識と、前世で教師をしていた経験を活かし、余裕で答えていく。
最後に、母が外交の社交場で交わされる会話について尋ねてきた。表向きは礼儀正しい言葉でも、その裏に政治的な駆け引きや隠された意図が込められていることがある。母は、そうした貴族社会特有の言葉の裏側を、私がどこまで理解しているか試そうとしていた。
「……北方のフォード公爵家が、王家に提案している『新しい穀物法』。表向きは平民を救済するための政策だけれど、その裏にはどんな狙いがあると思う?」
これは、キャサリン・フォードの実家であるフォード公爵家の動向に関する質問だ。
フォード公爵家は、北方の穀物流通を事実上掌握している。その影響力を王家の直轄領にまで広げようとしているのだろう。
「北方で築いた穀物流通の支配を、王家の直轄領にまで広げるつもりでしょう。新しい穀物法によって流通への介入を正当化できれば、王都の食料供給にも影響力を持てます。それに、王妃の座を巡って、自分たちの権力を誇示する狙いもあるはずです。まったく、浅はか……失礼、短絡的な策ですわね」
家族三人は、またしても驚きのあまり言葉を失った。
目の前にいるのは、かつてのわがままで勉強嫌いだった少女とは、まるで別人だった。
物事を冷静に分析し、的確に答える。その姿には気品があり、確かな知性が感じられた。
沈黙が広がる中、私は口元をナプキンで拭い、本日の『本題』を告げる。
「ところで、お父様。……王家との婚約は、どうしたら解消できますか?」
ガチャン、と音を立てて、兄の手からフォークが滑り落ちた。
父はナイフを持ったまま口を半開きにし、母は扇を握りしめたまま、目を見開いて固まっている。
家族三人とも、目の前の出来事が信じられないといった様子だった。
「婚約の……解消……と言ったのかい?」
「ええ。わたくし、あのような『お子様』のそばにいるのは、時間の無駄だと判断いたしましたの。それよりも、領地の開発や学問の探求に時間を割きたいのですわ」
家族三人は、時が止まったかのように固まっていた。
その沈黙は、いつまでも続くかと思えるほど長く感じられた。
エスメラルダは、その沈黙を心地よく感じながら、優雅に食後の紅茶に手を伸ばした。
王太子エドワードが『無能のエスメラルダ』と高を括っている間に、私は着々と反撃の準備を進めていたのだ。
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