第10話 失われた時間と、名誉の再生
「……おい、聞いたか? お嬢様が『女神様』になったって噂」
「冗談だろ。マリアたちが毒でも盛られて、頭がおかしくなったんじゃないか?」
復職した侍従や料理人たちは、厨房の隅でひそひそと囁き合っていた。
現役の侍女たちが『エスメラルダお嬢様、マジで神だから!』と熱弁を振るうのを聞いても、彼らは鼻で笑うだけだった。
「どうせ新学期前の気まぐれさ。すぐにまた、皿を投げつけてくるに決まっている」
◇
だが。数日が過ぎ、一週間が過ぎる頃、彼らの表情に戸惑いが混じり始めた。
「ザック。今日のスープ、以前より塩気が控えめになりましたね。わたくしの健康を気遣ってくださったのかしら? とても美味しいわ」
復職した料理人は、文字通り固まった。
「……お嬢様。お気づきになったのですか?」
「ええ。以前よりも優しい味になっていますもの。こういう工夫は嬉しいわ」
ザックは俯き、ぎゅっと拳を握った。
これまで、どれほど手間をかけて料理を作っても、エスメラルダから返ってくるのは不満ばかりだった。味を褒められたことなど、一度もない。
「……ありがとうございます、お嬢様」
その声は、わずかに震えていた。
◇
「ベゼット。今日は疲れたでしょう? 戻ったらマリアに声をかけてちょうだい。筋肉をほぐすための特別なオイルを用意させてあります。後で使ってくださいね」
老練な御者は、手綱を握ったまま目を見開いた。
「……お嬢様。私は馬車を走らせるのが仕事でございます。疲れるのは当然のことで……」
「そうね。でも、疲れるのが当然だからといって、労わらなくていい理由にはならないでしょう?」
ベゼットは、何かを言いかけて口を閉じた。
長年、公爵家に仕えてきた。主人のために働くことは当然だと思っていたし、疲労を気遣われるなど期待したこともなかった。
「……ありがたく、頂戴いたします」
彼は深く頭を下げた。
◇
私は前世の『学年主任』時代に培った、現場スタッフへの気配りをそのまま実行しているだけだった。労をねぎらい、働きを正しく認め、無理をさせない。それがどれほど人の心を動かすかを知っていたからだ。
馬車を降りると、復職した者たちがこちらを遠巻きに見ているのが分かった。以前のような怯えは薄れつつあるが、まだ完全には抜けていないらしい。
試しに私が『お疲れ様』の気持ちを込めて笑顔で手を振ってみると、その場にいた全員の動きがピキリと止まった。
「え……?」
「いま、お嬢様、手を……?」
あからさまに動揺し、お互いに『俺か?』『お前か?』と目線で押し付け合っている。
やがて、頬を赤くした若い侍従が慌てて直立不動になり、ベテランの庭師までが耳を赤くして、全員が小さく頭を下げてから、まるで眩しいものでも見たかのようにすっと目を逸らした。驚きと、これまでにない照れくささと、どう反応していいか分からない戸惑いが、彼らの間に波紋のように広がっていく。
それでも構わない。恐怖ではなく、信頼へと変えていく。それが今の私の役目だ。
「……なあ。エスメラルダお嬢様、本当に中身が入れ替わったんじゃないか? もしくは、演技か……?」
「いや、あれは『演技』でできるレベルじゃない。……あんなに慈愛に満ちた目で、使用人の名前を一人一人呼ぶ方じゃなかった」
復職した者たちの心の中にあった「恐怖」という名の氷が、少しずつ、けれど確実に溶け始めていく。
掃除が行き届いていれば『いつもありがとう』と声をかけ、体調が悪そうな者には『無理をせず休みを』と指示を出す。そんな当たり前の『心遣い』が、この世界の公爵邸では奇跡のような慈悲として受け取られていた。
庭では、復職した庭師が花壇の手入れをしていた。
かつてエスメラルダに踏み荒らされた花壇だ。
「ピーター。ここの花壇、ずいぶん綺麗になったわね」
声をかけると、彼はびくりと肩を震わせた。
「おっ、私の名前を!? あっ、も、申し訳ございません! まだ以前のようには……」
「どうして謝るの?」
私は首を傾げた。
「花壇を元に戻すには時間がかかるでしょう? 焦らず、あなたの思うように手入れをしてちょうだい。どんな庭になるのか、楽しみにしているわ」
庭師は、目の前の花壇を見つめた。
かつて、自分が丹精込めて育てた花々は、エスメラルダによって無残に踏みにじられた。
あのときは、自分の仕事も、花々に注いできた愛情も、すべて無意味だと言われたような気がした。もう二度と、この庭で花を育てる喜びを感じることなどできないと思っていた。
けれど今、再びこの花壇を任されている。
自分の仕事を奪ったお嬢様が、もう一度、花を育てる機会を与えてくれたのだ。
「……ありがとうございます、お嬢様」
彼は深く頭を下げると、愛おしむように花壇へ目を向けた。
◇
「……さあ、これで使用人たちとの関係修復も、ひとまず一段落かしら」
その夜、私は鏡の前で、完璧な淑女の微笑みを練習した。
鏡の中に映るのは、非の打ち所がない黄金比の美女。
(美人最高……! しかも、ミスワールド級の美女!)
思わず心の中でガッツポーズを決める。
六十二年の人生で得られなかった、この無敵の素材。磨き甲斐がありすぎて、笑いが込み上げるわね。
(これだけの美貌なら、前世なら絶対に写真を撮りまくっていたわね……)
ふと、そんな考えがよぎる。
(この世界だと写真はないから肖像画かしら。でも普通の肖像画じゃもったいないわね。歴史に残る名画レベルよ)
そこで、別の興味が頭をもたげた。
(そういえば、この世界に裸婦像ってあるのかしら?)
私は控えていた侍女へ声をかけた。
「ねえ。裸婦像ってあるのかしら?」
「「…………はい??」」
侍女二人が同時に固まる。
「芸術作品としての裸婦像よ。女性でも男性でもいいのだけれど」
みるみるうちに、二人の顔が赤くなっていく。
「あ、あのっ! そのようなものは……!」
「わ、私も存じません!」
(あら?)
どうやら、この世界では芸術の範疇でも扱いが違うらしい。
「別に芸術の話でしょう?」
「げ、芸術でも恥ずかしいものは恥ずかしいのでございます!」
「お嬢様、そのようなお話を真顔でなさらないでくださいませ!」
(価値観の違いね……)
私は小さく肩をすくめた。そして再び鏡に向き直る。
(それにしても、本当に美人ね……)
感嘆がこぼれる。前世の自分が見たら、間違いなく卒倒しているだろう。
陶器のような肌に、絹糸のような金髪。化粧を施せば劇的に映え、何を着ても様になる。
『化粧映え』などという概念は、そもそも化粧をしても顔色が少しマシになる程度の変化しかなかった前世の美佳にとって、初めて実感するものだった。
かつては、マスカラをすれば下瞼に黒い点が付き、ピンク系のアイシャドウを塗れば腫れまぶたが殴られたように見えた。真っ赤な口紅など、周囲の目が気になってとても使えなかった。エスメラルダに転生できたことを、あらためて神に感謝したいわ。
「……おーっほっほっほっほ!!」
高笑いが部屋に響く。
扉の外では、使用人たちがまた一つ確信を深めていた。
「……お嬢様は、やはり我々とは違う次元の方だ」
「もはや神話の領域だな……」
そんなことには気づかず、私はただ新たなヘアスタイルのことを考えていた。
使用人たちとの関係修復は、少しずつ進んでいた。
だが、私が償わなければならない罪は、これだけではない。
次に向き合うべきは、私の嫉妬によって学園を去ることになった令嬢たちだった。
◇
対象は五名。三名は家族のもとで暮らしており、二名は修道院に入っていた。
(全員、今は身を寄せる場所があるのね。でも、それで私の罪が軽くなるわけではない)
胸をなでおろし、家庭訪問の準備を進める。
しかし、今回の『外部有識者による調査委員会』は、情に流されるような甘い組織ではなかった。元学年主任の私が見守る中、報告書には極めて厳格な判断が下された。
「エスメラルダ様の嫉妬が引き金であったことは事実ですが、この二名の男爵令嬢に関しては、本人たちの素行にも重大な問題があったと判断します」
修道院に入った二名。確かに、彼女たちにも問題行動はあった。
しかし、それを理由に、エスメラルダが彼女たちを排斥し、退学に追い込んだことが正当化されるわけではない――それが調査委員会の結論だった。




