第五話 日常ノイズの漸近線
昼休み過ぎの午後の授業。
数学教師が綴るチョークの子気味良い音が私の睡魔を刺激する。
いつもなら太ももに冷たいペットボトルを挟んでこの強敵を撃退するのだが、今日はうまくいかない。
食堂で調子に乗ってカレーを大盛りにしたのが良くなかったのだろうか、最近は体重計とも良好な関係を築けていたから油断…というか自分にご褒美をあげたくなってしまったのだ…断じて胸部の面積を増やそうなどという邪な考えはなかった。断じて。
私は、黒板から目を離して目線を下に向ける。
「はぁぁ…」
その溜め息とも欠伸ともとれる吐息によって、ギリギリの均衡を保っていた理性の防波堤は一気に崩れていった。
飽きることのない拳戟、永遠に続いてほしいと願うほどの攻防を私は体験している。今までの相手であれば幾度電脳の世界も力尽きているであろう私の攻撃を彼はその身ひとつで受け止める。
これまで、私を追い詰めた相手は何人か居たが、彼ほど真正面から私の技術と策略のすべてを打ち破った相手は居なかった。
彼ならこれすらも受け止められるかもしれない…ふっ、この思考はこの戦闘でもう何度目だろう。
私が培った経験と勘で打ち込んだ渾身の一撃、それを、彼はまたしてもその鍛え上げられた肉体で打ち落とす。
楽しい、楽しい、楽しい!
もしかしたら。彼なら、私の呪いを―――
「―原、梅原!」
「は、はい!」
私は立ち上がって素早く口元を拭う。
「俺の授業はそんなにつまらないか?」
「すみません…」
「まったく、お前のお兄さんは私の授業で寝たことなんて一度も…ってことはなかったな」
そういって先生が苦笑すると、クラスメイトたちもつられて笑いだす。
「次寝たら指すからな、気を付けるように。わかったら座りなさい」
「…はい」
「いいかー!ここはテストに出るからなー!特にこの計算式は――――」
私には2つ上の兄が居る。兄は小さいころから天才だったらしい、私も物心がついて少しずつ物事を理解するようになる時には既に兄の天才性を教えられずとも理解していた。
そんな兄はこの学校でも有名人だ、文武両道で人当たりも良く、おまけに生徒会長だった。兄と在籍期間の被った生徒で兄を知らない者は居ない。
当然そんな人間を兄に持つ妹の私はいつも兄と比較されてきた。別にそれで兄を恨んだりしてはいない、兄とて努力はしていた、他人よりも答えにたどり着くのが早いというだけで最初からすべてを知っていたわけではない、だから勉学にも部活にもそこまでの熱意を持たない私が兄を嫉妬の対象にすることはない。…いや、なかった。あの時までは
キーンコーン
「はい、じゃあ今日はここまで。次の授業までに教科書の56ページの問題を解いておくように」
ああ…早く戻りたい、私が愛したあの電脳の世界に。もう少し、もう少しで何かを掴めそうなのだ。
「梅原さん!この前はありがとう!ほんと助かったよ!」
物思いにふけっていた私にクラスメイトが話しかけてきた。
彼女は確か
「野木さん、気にしないで。私も一度現物の将棋を打ってみたかったの」
「えっ?!梅原さん将棋初めてだったの?!てっきり経験者かと」
「いえいえ、違うわ。ネットのアプリでやったことがあるの」
「アプリ…それであの相手に勝っちゃうなんて。すごいよ!」
「そんなことないわ、むしろごめんなさい。次鋒で持ち時間をあんなに使ってしまって、負けてしまったのは私のせいよ」
「そんなこと…だって相手は――」
「よー!梅原!この前はサンキューな!おかげでいい練習試合になったぜ」
野木さんの会話に割り込むようにして同級生にしては上背がある女の子が話しかけてきた。彼女は女子バスケ部部長の佐口さん、近隣校との練習試合で急遽病欠が出てその時ちょうど学校に来ていた私が代理で参加したのだ。彼女はそのお礼を言っているのだろう。
「あなたが助かったのならよかったわ」
クラスメイト達は時々私を自身の部活の欠員の補充要員にしようと声を掛けてくる。
彼女たちの考えは分かる、どこの部活にも所属しておらず、前生徒会長の妹という立場が誘うのに都合がいいのだろう。
凡才の私は彼女たちの邪魔をしないようにするのに苦労している。けれど、クラスでも深い関わりを持たない私をどうにかクラスに馴染ませようとしてくれている彼女たちの思いやりを無為にはできない。
いっそ完全に拒絶してしまえればいつボロを出してしまうかヒヤヒヤする現状を抜け出して、穏やかな学生生活が手に入るのだろうけど、それを言う度胸がないのは私の弱さだろう。これがあの世界ならもっと素直になれるのだろうか…
「私もこの前はありがとうね」
「私も!私も!」
だいぶ人が集まってきた、全方位を囲まれるとどこにボロが出てしまうかわからない。
「ごめんなさい、この後用事があるからここで失礼するわ」
私は卓上の学用品と結露でぬれたペットボトルをカバンに仕舞って立ち上がった。
内股から冷たい水滴がツーっと流れるのを感じた、ああ…スカートで拭いておけばよかった。
「(どうか、バレませんように)」
皆の視線をそらすために、大げさに髪を払って私は教室を後にした。
―用語解説―
漸近線・曲線がどこまでも続いていくが、決して交わることのない直線




