第四話 リフレクション
あの日から二ヶ月。
灰色のグリッド空間で、ボクは己の肉体の正しさを証明し続けていた。
「ハァァァッ!」
左の三頭筋から繰り出された裏拳が、空間を歪めるほどの衝撃波と共に、対戦相手の顔面にめり込む。
ボクの圧倒的な物理データに恐れをなし、相手が咄嗟に展開した防御プログラムの盾ごと、そのアバターが粉々に砕け散った。
『勝者: Its_My_Life』
『150ポイントが付与されます。現在の累計:8,420ポイント』
無機質なシステム音声が鳴り響く。 負けを知らない。魔法だろうが、銃火器のシミュレートだろうが、どんなチートが来ようと、ボクの「生きた筋肉の連動」が弾き出す莫大な物理演算データの前では、すべてが紙切れのように打ち砕かれた。 あと少し。あと少しで、一万ポイントの壁を超える。ワールドレコードという未知の深淵に手が届く。
現実世界に戻り、瞼を開ける。
ボクのトレーニングとゲームのためだけに美月さんが用意してくれたこの無機質な部屋に、最近は彼女自身の私物が増え始めていた。
同棲しているわけではない。最近の彼女はどこか様子がおかしく、ただふらふらと引き寄せられるようにこの部屋で夜を明かすことが多くなっていた。
「……遅いな」
時計の針は深夜二時を回っている。 かつてはジムにまで顔を出し、自信に満ち溢れていた彼女だったが、ここ数週間は帰宅が深夜に及ぶことが当たり前になっていた。 玄関のドアが開く音がして、ふらつくような足音がリビングへと近づいてくる。
「おかえり。美月さ――」
ボクが声をかけるより早く、彼女はソファに崩れ落ちた。
強烈なアルコールの匂い。そして、彼女の指先は微かに震えていた。
「……うるさい。話しかけないで」
化粧は崩れ、いつも隙のなかったスーツにはシワが寄っている。
「仕事、うまくいってないのか?」
「……あなたには関係ないでしょ! 筋肉しか頭にないニートのくせに!」
ヒステリックな金切り声が、部屋に響いた。
彼女がボクにこんな言葉をぶつけるのは初めてだった。
雑誌の編集長という地位、社会的成功。彼女を形作っていたはずの「武装」が、今、ボクの目の前でボロボロに剥がれ落ちようとしていた。
彼女は顔を両手で覆い、嗚咽を漏らし始めた。
「どうして……どうして私ばっかり……。あんな奴らに、私のキャリアが……」
泣き崩れる美月さんの背中を見て、ボクの心臓が不快なリズムで脈打った。
フラッシュバック。
思い出したくない、幼い頃の記憶が脳裏に蘇る。
『翔二、早く! こっちよ!』
深夜。ボストンバッグ一つだけを抱え、母親と二人で息を殺して玄関のドアを開けた、あの夜逃げの日の記憶。
だが、暗闇の中から、酒に酔った父親の太い腕が伸びてきた。
『どこへ行く気だ、あぁ!?』
『やめて! この子には手を出さないで!』
父親の拳からボクを庇い、泣きながら床に這いつくばっていた母親の背中。
あの時、ボクはどうした?
……逃げたのだ。
暴力の恐怖にすくみ上がり、持っていたバッグを放り出し、母親を置いて、ただ一人で夜の街へ駆け出した。
ボクが筋肉に異常なまでに執着するようになったのは、あの日、圧倒的な暴力の前で何もできなかった「弱さ」を呪ったからだ。
二度と、あんな思いはしない。誰にも怯えない。そのために、この肉体を鋼の鎧に作り変えてきたはずだった。
「……今日はもう、寝た方がいい」
ボクは無意識のうちに、彼女の震える肩に手を置いていた。
それ以上の言葉はかけられず、ボクは何かに誘われるようにPCの前へと向かった。
ワールドレコードを獲り、莫大な金が手に入れば、きっとすべてが解決する。そう自分に言い聞かせながら。
* * *
『対戦開始』
灰色のグリッド空間。
ボクの目の前に立っていたのは、これまでの相手とは明らかに異質の空気を纏うプレイヤーだった。
アバターはシンプルな黒一色のシルエット。無駄な装飾は一切ない。
名前は【Paradox】。
(こいつ……只者じゃない)
背筋が粟立つ。本能が、コイツは今までの雑魚とは違うと警告している。
ボクは一切の油断を捨て、最初からフルスロットルで踏み込んだ。
「シッ!」
大臀筋から生み出された爆発的な推進力。瞬時に距離を詰め、右のストレートを相手の顔面に叩き込む。
完璧なタイミング。完璧な軌道。
だが。
フッ、と。
ボクの拳が衝突する直前、相手はシステムへの最小限の干渉と、紙一重の身体操作だけで『半歩だけ』軸をずらした。
(躱された……!?)
ボクの筋肉はすぐさま軌道を修正し、左のフックを放つ。
しかし、Paradoxは無駄のない、研ぎ澄まされた動きでその一撃を潜り抜け、距離を取った。
「……やはり。いままでの相手とは違うな」
ボクはステップを踏みながら、次々と打撃を繰り出した。
ジャブ、ストレート、ローキック。そのどれもが致命傷になり得る威力だが、Paradoxは氷の上を滑るように、あるいは葉っぱが風に舞うように、紙一重でボクの攻撃を捌き続ける。
(……当たらない)
ただの魔法頼みでも、チート頼みでもない。純粋なプレイヤースキルが桁違いに高い。
何度拳を振るっても、空を切るばかりだ。
圧倒的な技術の前に、ボクの「力」が届かない。
その「届かない無力感」が、ボクの脳裏に最悪の記憶を引きずり出した。
『やめて! この子には手を出さないで!』
『どうして私ばっかり……』
圧倒的な暴力の前で震えていた、あの夜。
現実で苦しむ美月さんに言葉一つかけられず、逃げるようにPCに向かったさっきの自分。
またボクは、このまま何もできずに終わるのか? 届かない相手から、逃げるのか?
(……違う!)
這い上がってくる過去の恐怖を、ボクは奥歯を噛み砕くほどの力でねじ伏せた。
言い訳も理屈もいらない。ボクのこの肉体は、もう誰にも怯えないために、大切なものを守り抜くために鍛え上げてきたはずだ。
もう二度と、背を向けない。今度こそ、ボクが守る。
迷いを振り切るように、ボクはゆっくりと深く息を吸い込み、全身の筋肉の緊張を極限まで高めた。
筋繊維の一本一本が悲鳴を上げる。脳のニューロチップが「これ以上の出力は危険だ」と警告のノイズを発している。
構わない。システムの限界も、肉体の限界も超える。
「オオオォォォォッ!!」
空間全体が、ボクの放つエネルギーの圧でビリビリと震え始めた。
Paradoxのシルエットが、初めてわずかに揺らいだように見えた。慌てた様子で両手を前に出し、幾重もの防御コードを展開し始める。
「ヤァァァァァァァッ!!」
ボクは跳んだ。
空間そのものを蹴り破るほどの爆発力で、一直線にParadoxの懐へと突っ込む。
すべてを乗せた右の正拳突き。
ボクの拳が、Paradoxの展開した防御の壁に激突する。
その瞬間。
『警告:致命的負荷を検出 』
システムが、ボクの物理演算データと相手のプログラムの衝突を処理しきれず、凄まじいエラー音を鳴り響かせた。
多重に展開された防御壁をボクの拳は薄氷を割るように砕いていく。
(いける……! )
「パワーーーーーッ!!!」
限界を突破した、正真正銘のフルパワー。
その圧倒的な力を前にして。初めてParadoxのアバターが、まるで恐怖にすくみ上がったように、一瞬だけ不自然に硬直したのが見えた。
次の瞬間だった。
カキンッ。
相手が指先を動かしたわけでもないのに。システムが彼女の意思を無視して強制的に割り込んできたように、小さな、ガラスが割れるような音が鳴り響いた。
その瞬間、ボクの『限界突破したフルパワー』が、完全に逆ベクトルとなってボクの右腕に還ってきた。
「あ…………?」
衝撃。
ボクの右腕が、肩の付け根から弾け飛び、ポリゴンの破片となって虚空に散っていった。
肉体的な痛みは、ない。
だが、破損したアバターから逆流する致命的なエラーデータが、脳のニューロチップの同期を激しく乱す。自分が自分でなくなっていくような、生きながらにして死に向かっていくような底知れぬ喪失感と恐怖。
「ガ、アアアアアアアアァァァァッ!?」
ボクは理解不能な感覚に叫び声を上げながら、床に転がった。
視界が赤く染まり、意識が急速に遠のいていく。
『勝者: Paradox』
薄れゆく意識の中、ボクは見上げた。
黒いシルエットの奥底にある感情は、深い悲哀と悔恨のように見えた。
彼女はただ静かに、床に倒れ伏すボクに向かって、呟いた。
「……すみません。こんな勝ち方……」
悲痛に震えるその声を最後に、ボクの意識は完全な暗闇へと落ちていった。




