第三話 ナチュラル
灰色のグリッド空間。無機質な線で区切られた果てのない世界に、ボクは立っていた。
視界の隅には何も表示されていない。HPバーも、ステータス画面もない。ただ、ボクの身体と、どこまでも続く無機質な床があるだけだ。
ボクはまず、ゆっくりと膝を曲げ、スクワットを三回行った。
大腿四頭筋の収縮感、足裏に伝わる床の反発。現実世界と寸分違わない。
次に、軽くステップを踏みながらシャドーボクシングでワンツーを放つ。
シュッ、シュッ!
空気を裂く音。肩甲骨の連動も完璧だ。重力加速度はおそらく1.0。床の摩擦係数は、一般的なコンクリートに近い。
だが、決定的な違いが一つある。どれだけ動いても、筋肉に疲労物質(乳酸)が蓄積する感覚が全くないのだ。
「おいおい、なんだその動き。仮想空間で準備体操かよ」
背後から声がした。
振り返ると、黒いローブのようなサイバーパンク風のコートを羽織った男が立っていた。顔の下半分は金属製のマスクで覆われている。
『対戦希望が届きました』
『受諾しますか? [Y/N]』
虚空に、半透明の緑色のウィンドウが浮かび上がった。試合の申し込みか。
「新規か。初期装備のウェアでウロウロしてるなんて、いいカモだ。俺のポイントの足しになってもらうぞ」
「……ポイント?」
「知らないのか? まあいい、さっさと[Y]を押せ。そうしないと手が出せないからな」
この世界は、無法地帯のバトロワではなく、システムを通じた合意で戦闘が成立するらしい。
己の肉体の仕上がりを試す絶好の機会だと思い、迷わず虚空の[Y]をタップした。
『対戦開始』
男は余裕の態度で嗤うと、両手を胸の前にかざした。
彼の指先が虚空をなぞると、そこに緑色の発光体を伴う幾何学的な模様が描かれていく。手品でも見せられている気分だ。だが、男の目は真剣そのもので、指先のミリ単位の動きに極度の集中を割いているのがわかる。
「ポイントいただき!」
男が叫ぶと、構築された陣から巨大な炎の球が射出された。
熱波が顔を焦がす。ただの映像じゃない。現実の火傷と錯覚するほどの強烈な刺激が、ボクの脳神経に警鐘を鳴らしている。
ステップを踏んで避けるのは容易い。だが、ボクは避けなかった。
(この世界の物理法則の限界……試させてもらおう。果たしてボクの筋肉は、このデジタルな炎にどこまで干渉できるのか)
ゆっくりと息を吸い込み、右の拳を腰に引く。
下半身の踏み込みから生み出されたエネルギーを、大臀筋、広背筋、そして大胸筋へと伝播させる。骨格の連動と筋肉の収縮。何万回、何十万回と反復してきた、人間工学的に最も無駄のない完璧なフォーム。
「シッ!」
呼気と共に、正拳突きを放つ。
ボクの拳が、殺意を持って迫る炎の球の中心を正確に打ち抜いた瞬間。
パァァァンッ!!
「……は?」
男が間の抜けた声を上げた。
ボクを焼き尽くすはずだった炎の球は、まるで薄いガラスのように粉々に砕け散り、火の粉となって消滅したのだ。
ボクはゆっくりと拳を下ろし、自分の手を見つめた。火傷一つない。
「……軽いな」
「なっ……!? 馬鹿な、僕が完璧に構築した魔法が、ただの物理演算に打ち負けるだと!?」
男の狼狽する声を聞き、ボクの中で一つの直感が確信に変わっていく。
なるほど。ここはただのVRじゃない。
魔法の威力がコードの緻密さで決まるなら、ボクの「筋肉の連動」が生み出す莫大な運動エネルギーもまた、同じようにシステム上で『緻密なデータ』として処理されているのだ。
正しいフォームであればあるほど、ボクの拳はこの世界で重く、強くなる。
「お前が一生懸命指先で作ったその炎、見かけ倒しだ。どうやらボクの完璧な正拳突きの方が、この空間では『重い』らしい」
ボクは一歩、男に向かって足を踏み出した。
たったそれだけの動作だが、完璧にコントロールされた重心移動は、相手に無言の重圧を与える。
「くそっ、ふざけるな! なんで俺の炎が殴り壊されるんだ!」
男が慌てて両手をかざし、再び虚空に模様を描こうとする。
だが、ゆっくりと迫ってくるボクの歩みに恐怖したのか、男の指先は微かに震え、視線は手元とボクの間を激しく泳いでいる。
「来、来るなッ!」
焦りから不完全に構築された陣から放たれた炎は、先程の半分以下の大きさだった。
ボクは歩みを止めず、左手で無造作にそれを払い落とす。火の粉すら舞わない。
精神の乱れが、そのまま技の脆弱さに直結している。
ボクが一気に距離を詰めようと筋肉を収縮させた、その時だった。
男の網膜が、不自然な赤色に点滅した。その光は目の奥のそのさらに奥、脳内のニューロチップから発せられているようだが詳細までは分からない。
「なら、これで死ね!!」
男が叫んだ直後。
彼の指先は一切動いていないにもかかわらず、虚空に先程よりもはるかに巨大で複雑な魔法陣が、瞬時に、ノーモーションで構築された。
轟音と共に、極大の氷の槍が機関銃のように連射される。
「チッ……!」
ボクは咄嗟にステップを踏んで回避に回った。
首の皮一枚で屈伸して氷柱を避け、のけ反り(スウェーバック)で炎の波を躱す。
大腿四頭筋が悲鳴を上げるほどの猛攻。だが、回避行動を続けながら、ボクの脳内には強烈な違和感が膨れ上がっていた。
(なんだ、この攻撃は……?)
男の足は恐怖で震え、呼吸は完全に乱れている。指先を動かす余裕すらない。
なのに、虚空に次々と展開される魔法陣だけが、「完璧な威力と速度」を保ち続けている。
いや、違和感はそれだけじゃない。
ボクはひねり(スリップ)で魔法を避けながら、男の『目線』と『重心』を観察した。
あれだけの弾幕を張っているのに、男の目はボクの動きを一切追っていない。虚空の固定された一点を見つめ、焦点が合っていないのだ。
さらに、巨大な魔法を放つ際の「反動」を受ける瞬間の姿勢。それが、常に全く同じ姿勢にカクッと一瞬で切り替わっている。人間の動き特有の『遊び』や『揺らぎ』が完全に欠落している。
筋トレにおいて、限界負荷で重りを挙上する際、フォームは筋肉の疲労度やその日のコンディションに合わせて、ミリ単位でリアルタイムにアジャスト(調整)されるべきものだ。
だが、こいつの今の攻撃は違う。状況に応じた微調整が一切ない。
「……なるほど。謎が解けたぞ」
ボクは飛来する炎を躱しながら、口角を上げた。
「お前、ボクを狙って魔法を撃っているわけじゃないな。事前に録画したマクロの自動再生か。いつか美月さんが言っていた『チート』ってやつだな」
「なっ……!?」
男の顔が引きつる。図星だ。
「ハ、ハハハ! 気づいたところでどうにもならない! 俺のチート”カーゴ・カルト”の前では、お前の筋肉など近づくことすらできない!」
狂ったように笑い、男は最大の魔法陣を展開する。
だが、ボクの腹の底からは、冷たい怒りだけが湧き上がっていた。
日々の研鑽も、筋繊維が断裂する痛みとの対話も放棄した、過程をすっ飛ばしたチート(ズル)。ナチュラル至上主義であるボクにとって、最も許しがたい冒涜。
「マクロってのは、前提条件が揃って初めて機能する、いわば死んだデータだ」
「……何?」
「平坦な床、そして一定の距離。その完璧な『前提』が崩れたら、お前の録画データはどうなる?」
ボクは相手に向かって突進するのではなく、その場で高く跳躍した。
そして落下のリズムに合わせ、全重力を右足の踵に乗せ、さらに広背筋と大臀筋の力を総動員した渾身の「踏みつけ(ストンプ)」を、灰色の床に向かって放つ。
ドゴォォォンッ!!!
システムが許容する物理演算の限界を超えた衝撃。
ボクの足元を中心に、無機質なグリッドの床が波打つように隆起し、そして激しく傾斜した。
「うわぁぁッ!?」
足場が斜めに跳ね上がったことで、男の姿勢が強制的に崩れる。
だが、悲しいかな。男が起動しているマクロデータは『平坦な床』で構築された計算式のままだ。
傾斜した足場に適応できないままマクロが魔法を発動させた結果、座標計算に致命的なズレ(バグ)が生じた。
「あ、ああッ……!?」
男の放つはずだった極大の魔法は、ボクの頭上遥か高空、明後日の方向へと暴発し、虚しく空気を焼いただけだった。
システムエラーを起こし、フリーズしたように動けなくなる男。
ボクは傾斜した不安定な足場でも、足首と膝の関節を瞬時に柔らかく使って重心を安定させた。
そして、無防備になった男の懐に飛び込み、全身のバネを解放する。
「ヤ――!」
右足の踏み込みの反発力が、腰の回転を経て、右のアッパーカットへと昇華される。
録画されただけの薄っぺらいマクロデータごと打ち砕く、フルパワーの一撃。
「パワー!!」
ボクの拳が男の顎を正確に打ち抜いた瞬間、空間全体が揺れるほどの衝撃波が爆発した。
男の体はシステムエラーのノイズに包まれながら、遙か後方へと吹き飛ばされていった。
『勝者: Its_My_Life』
『10ポイントが付与されます』
無機質なシステム音声が鳴り響く。
ボクは右拳の感触を確かめながら、静かに息を吐いた。
ワールドレコードへの道、か。悪くない。
ここには、ボクの筋肉を試す価値がある。
ー用語解説ー
「カーゴ・カルト(積荷信仰)」とは、南太平洋の島々に生まれた招神信仰です。かつて物資を運んできた飛行機や船を再び呼び寄せるため、軍隊の行進を真似たり、木で作った飛行機を飾るなどして、彼らが去った当時の姿を儀式的に再現する現象を指します。




