第二話 パンプアップ
「ああ、そういえば渡し忘れるところだったわ」
そういって美月さんはポーチから一枚のMDを取り出した。
えーっと、と少し悩んだ後、僕のプロテイン入りの水筒の横にそれを置いた。その間に数回ほどちらちらと横目でボクの体を観察していた。
だが、そんなことをしても無駄だ。ボクの体は14歳のあの日から常に最高を更新し続けているのだから。
我が肉体に隙なし。
そんなことを思いながら、胸元まで下げたバーベルの負荷を意識しながら上へと持ち上げる。
「これが何なのか気になる......訳ないわよね」
美月は、まったくと言いながら説明を始める。
「この前あなたの”要望”でデスクトップを1組送ったでしょう?それを使って手伝ってほしいことがあるのよ。今渡したMDなのだけれど、不思議なプログラムが入っていて特定のシリアルナンバーの端末でしか実行できないようになっているのよ。ダメもとで実行できるか試してみてちょうだい」
話を聞き流しながらボクはまたバーベルを持ち上げる。
「断るのは無しよ、これに私はパソコンの件での私の”要望”の権利を消費するわ。...はぁ。役員のクソガキのせいでこんなことに”要望”を使わされるなんて、不本意だわ。ほんとは翔二君の部屋のライブ映像を...ごにょごにょ…うぇっへん!とにかく、”要望”だから頼んだわよ」
ガチャン、と重い金属音を響かせてバーベルをラックに戻す。大台の100キロ。パンプアップした大胸筋から三角筋にかけて、焼け付くような熱と心地よい疲労感が広がっている。悪くない。
「じゃあ……夜の写真、待ってるからね。忘れないでね?」
美月さんは腕時計を見ると、慌ただしくヒールを鳴らしてジムを出て行った。その騒がしい足音を背中で聞き流しながら、ボクは持参したシェイカーを取り出し、プロテインを一気に流し込む。冷たい液体が胃に落ちる。アミノ酸が、破壊された筋繊維へ運ばれていく感覚だけに意識を向ける。
ふと、鏡に映った自分の姿が目に入った。
日々のトレーニングの成果は、確実に出ている。
それでも……あの日の影。圧倒的な暴力の前に無力だった忘れられない過去の記憶が、ふいに脳裏をよぎる。
まだ足りない。もっと大きく、もっと機能的にしなければ。あんな思いは二度と……。
首を振って、暗い思考を振り払う。
無駄なノイズだ。今はただ、今日のトレーニングの修復に集中するべきだ。
着替えを済ませて帰宅する。美月さんが用意した無駄に広い都心の高級マンションの一室は、大理石調の床に洒落た間接照明と、彼女の見栄が押し付けられている。だがボクにとっては、パワーラックを設置するためのただのスペースだ。
その無骨な鉄の塊の傍ら、ブランド物らしきガラスのテーブルの上に、デスクトップPCが存在感を放っていた。
普段なら筋肉の微細なコントロール練習にしか使わない機材だが、今日は少し勝手が違う。
ボクはプロテインの空ボトルをシンクに置き、トレーニングバッグのポケットから、美月さんが置いていったプラスチックのケースを取り出した。
MD。特定のシリアルナンバーの端末でしか実行できないという、得体の知れないプログラム。
ため息が出る。彼女からの「要望」だ。
生活費を負担してもらっている以上、無碍にはできない。
ボクはPCを起動し、光学ドライブにディスクを滑り込ませた。
ウィィィンという回転音の後、モニターの画面が一度真っ暗になり、黒い背景に緑色のテキストが高速で流れ始めた。
『Hardware ID Match...』
『Connecting to Deep Web Routing Protocol...』
『Welcome to the threshold.』
何かのハッキングプログラムか?
警戒したものの、やがて画面の中央にシンプルな入力ボックスが現れた。
【Enter your Identity】
存在証明、か。ボクにとってゲームはただの神経系トレーニングツールであり、愛着のある固定ネームなど持っていない。
だが、ここに己の存在を刻むというのなら、相応しい言葉がある。
ボクはキーボードに手を置き、尊敬する偉大な先駆者が、極限まで鍛え抜かれた肉体を披露する際に流していた名曲のタイトルを打ち込んだ。
【Its_My_Life】
エンターキーを叩く。
その瞬間。
『Identity accepted.』
『Initializing Neural Sync...』
モニターから、尋常ではない光量のストロボが放たれた。
「...なっ!?」
目を閉じる暇すらなかった。幾何学的なパターンを伴うその光は網膜を突き抜け、激しいショックを引き起こす。
全身の筋肉が強制的に収縮し、激しい痙攣を起こした。
(なんだ、これ……!)
眼球が裏返るような感覚。思考が焼き切れる。
何が起きているのかを理解する間もなく、ボクの意識は底なしの情報の濁流へと飲み込まれていった。
* * *
『Welcome to O.M.D』
無機質なシステム音声が脳内に直接響き、ボクはハッと目を開けた。
「ここは...」
視界に広がるのは、見渡す限りの灰色のグリッド空間だった。
空も地面も、無機質な線で区切られている。
ボクは咄嗟に自分の体を見下ろした。お気に入りのウェアを着た、ボクの肉体がそこにあった。
手を握り、開く。前腕の筋肉の動き、皮膚のつっぱり感。現実世界の五感のフィードバックと比べて、ミリ秒の遅延すら感じない。
これは……VR空間か?
だが、ボクは専用のヘッドギアはおろか、何の機器も装着していなかった。
だとしたら、考えられる可能性は一つしかない。
あの異常な光のストロボ。あれは視覚情報に偽装した信号パターンだ。この時代の人間なら誰もが生まれつき延髄に埋め込まれている神経デバイス(ニューロチップ)。あの光は、ボクの脳内のチップに直接アクセスし、強制的にフルダイブを引き起こしたのだ。
通常、VR空間へのダイブには専用のインターフェースを介した安全な手順が必要なはずだ。市販のデバイスに設定されている安全限界を完全に無視した、暴力的なまでのハッキング技術。
ジョセフ・H・アノマリッチの論文にあった、脳神経へのダイレクトな介入プロトコル……まさか、それがこんなディスク一枚で。
今朝の対戦相手が最後に吐き捨てた言葉が脳裏をよぎる。
――『”DMO”でもやってろ』
なるほど。DMO、あるいはOMD。
ボクは自身の腕をさすりながら、誰もいない灰色の空間を見回した。
どうやらここは、ボクの筋肉を試すための新しいステージらしい。




