第一話 ウォームアップ
台パン――一撃。
机、破壊。
ボクは1秒前まで机だった無残な物を見て驚いた...と同時に関心していた。先ほどの激しい上下運動のおかげで血流が加速し、全体がいつもの1.5倍程にまで増加したボクの逞しい部位。
そう、三角筋から上腕二頭筋を通り、前腕屈筋に至るまでが今まさに自分史上最高を更新したのだ。
であるなら、この記録の貢献者に例を言わないといけない。ボクは真ん中でぱっくり割れた机の上からキーボードを拾い上げて、斜めになったモニターに合わせて首をかしげながら、馴れない片手でキーを叩く。最近は思考感応型キーボードに頼りすぎたせいで指の動きがぎこちない...さらなるトレーニングが必要だな。
チャット:全体
自分:GG
GG、オンラインゲームにおける最大限の敬意と賛辞を秘めた言葉だ。
チャット:全体
自分:GG
相手:死ね!チーター!!
チーター?チートとは不愉快な。ボクのハムストリングに誓って決して不正なツールは使用していない。ナチュラル絶対主義のボクにこんなことを言うとは...命知らずもいいところだ。パンプアップした右腕がピクピクと動き始める。
相手:死ね!チーター!!
相手:”DMO”でもやってろ
ボクは興奮した右腕をなだめながらチャットに流れた見慣れない単語に思考を巡らせていた。
DMOとは何だろうか?
文脈からして何かしらのゲームタイトルの略称なのかもしれないが、ボクが知っている限りでは該当するゲームは無い。
気になる...このチャットの流れから出たDMOというゲーム(多分)、一体どんなゲームなんだろうか?
ピピピピ
腕時計に設定していたアラームが鳴った。
そうだ、ジムに行く時間だ。
最近また窮屈に感じ始めたTシャツに袖を通してズボンを履く。
玄関に付いたら、ランニングシューズに履き替えて外に出て走り出す。
有酸素運動を嫌う同業者は多いがボクは筋肉は機能性を備えてこそ完全だと思っている。
日々の繰り返しのトレーニングで筋肥大は望めるが、それだけでは逞しい肉体が出来上がるかもしれないが、”使える”筋肉は育たない。
現代のアインシュタインと呼ばれた脳神経科学者のジョセフ・H・アノマリッチも言っていたように、人間は体を動かすことで能力を拡張していく。つまりは、どれだけ強力な武器を持っていてもその扱い方を知らなければ宝の持ち腐れだということだ。
ボク自身、この言葉に影響されて始めたのが先ほどまで行っていたゲームだ。様々な種類のゲームを練習しているが特にFPSや格闘ゲームといった種類のゲームはボクの求めていた負荷を日々与えてくれている。鍛えた筋肉をミリ単位で正確に素早く操作するという行為の反復は筋繊維一本一本と神経をつないでいく理想的なトレーニングといえるだろう。
「あらホントだわ、あのトレーニング狂いが遅れてくるなんてね。人って変わるものなのね」
ジムの扉に手をかけたタイミングで横から見慣れた女性が話しかけてきた。仕事に行く前なのか、少し濃い化粧をしてしわのないパンツスーツを身にまとっている。
だけれど、1つ分からないことがある、『遅れてくる』とはどういう意味だろうか?時計を確認しても今日のボクのルーティーンに狂いはない。
「おはよう、美月さん。ぶつかってしまうから扉の近くには立たない方がいいと思うよ」
それじゃ、と言ってジムに入る。
「ちょっ?!ちょっと待ちなさいよ!」
彼女も続いてジムに入ってくる。「くさっ」などと言っているが、トレーニーたちの血と涙と汗の蒸発した空気を吸ってそんな感想が出るとは、彼女はもう少し常識的な感性を学んだ方がいいだろう。
ボクはそんな彼女の話を聞き流しながらベンチプレスの準備をする。今日は月に1度の記録更新目標日、ついに今日ボクは大台100キロに挑戦する。
コンディションは最高に調整した、新しく始めた習慣のおかげで筋繊維一つ一つを別々に動かせるのではないかと錯覚するほどに肉体すべてがボクの思いのままだ。
「話を聞きなさいって!ちょっとそれ一回置きなさい」
おもりをポールに差そうとする手を彼女が遮った。が、あまりにも”か弱い負荷”だったので勢いのままに彼女の指がおもりの間に挟まってしまった。
「痛ったいわね!もうホント何なの!!だからこんなところ来たくなかったのよ!」
嫌なら来なければいいのに。
「美月さん、嫌なら来ないでください、他の人たちの迷惑です。それに...ストーカーみたいなこともやめてください。気が散ります」
「ストっ?!翔二君あなた、今の生活が送れているのは私のお陰なのよ?そのことをもう少し理解してちょうだい!」
そうだった、今ボクがトレーニングに専念できているのは彼女が毎月生活費をくれているおかげなのだった。
まぁ、それを思い出したところで何も変わらないのだが、彼女自身にも最初にきちんとことわっておいたはずだが、忘れてしまったのだろうか?
「最初に言いましたよね、ボクはこの体を完成させることだけを考えているんです。なのでそれ以外のすべてはする気はありません、たとえお金がなくて餓死をすることがあったとしても、その瞬間まで筋肉のことだけを考えているつもりです」
「そんなことできるわけないでしょう!現代社会で生きていくにはお金が必要なのよ、今はたまたま私が気まぐれで面倒を見てあげているけど、これだっていつまで続くかわからないのよ!?」
「今の生活があなたのお陰で成り立っているのは理解しています。あなたの気まぐれがボクに向いてくれたのは奇跡的な幸運でした。でも、だからといってその奇跡に感謝をして手を合わせている暇はボクにはないんです。この奇跡が続く最後の1秒まで筋トレを続けます」
(彼は今のを本気で言っている、仮に私が今仕送りを辞めると言っても彼は何も言わずにトレーニングを続けるだろう。彼と知り合ってから3年ほどになるが、その経験がこれは紛れもない事実だと私に告げている。だけど、その確信が逆に彼を守らねばという感情を唆してくる。私が居なければ生きていくことのできない大きくてか弱い存在。なら...私が守らないといけないじゃない。私にとって得も…ないわけじゃないしね)
「まったく…少しは変わったと思ったけど、結局何も変わってないわね。まぁいいわ、あなたの人生観については時間のある時にまたゆっくり話しましょう。私はそろそろ仕事に行かないと。今日うちの雑誌で新しいモデルを起用するためのオーディションがあるのよ、そこでいい子を見つけたらあなたからその子に乗り換えるのもアリかもしれないわね」
「ゆっくり話す時間はボクにはありません。要件ならボクの死後、墓石に言ってください。それと、今月も生活費お願いします」
「はぁ、ほんとにブレないわね...」
「美月さん、いつもお世話になります」
私はそれを聞いて目を丸くした。まさかあの筋肉のことしか考えられない彼から感謝の言葉が出るなんて。
もしかして、オーディションの話を真に受けてヤキモチを焼いたのだろうか?いやいや、考えすぎか。きっと気まぐれででた社交辞令のようなものだろう。
ただ、もう少し生活費を多くあげてもいいかもしれない。
そんなことを考えながら私は彼のもとを後にする、その時1つ伝え忘れていたことを思い出した。彼は定期的に忘れるからあった時には必ず言わなければならないのだ。
「そうだ、翔二君。トレーニングの進捗状況がわかるように毎晩、全身写真を送るのを忘れないようにね。最近、外腹斜筋のハリがいいからそこがよく見えるようにしてちょうだい」
彼は頷きもしなかったが、きっと聞いているだろう。




