7-4
翌朝、顔を洗ったセレスティーヌは鏡を見て愕然とした。
目が充血している上に、隈がひどい。
「自業自得ですわね」
セレスティーヌが自嘲気味に呟いた。
レナルドたちと再会した時は、嬉しくて涙が溢れた。
ビゼー伯爵と作戦を練っている時は、祖国を思う気持ちに心が燃えた。
それから二日。たった二日で、セレスティーヌの心は最悪の状態に落ち込んでいた。
今朝はアルフォンスと顔を合わせていない。出勤時刻が違うので、これはいつものことだ。
次にアルフォンスの顔を見るのは、自分が仕事を終えて帰宅した時。
「気が重いですわ」
セレスティーヌが深いため息をついた。
気を取り直して身支度を済ませ、今日こそは退職の意思を伝えようと決意すると、セレスティーヌは足早に食堂へと向かう。
店にはいつもより早く着いた。
扉の前でセレスティーヌが深呼吸をする。そして、腕に力を込めて扉を開けた。
すると。
「おはようございます!」
いきなりリーアの声がした。
「おはようございます。ずいぶん早いのですね」
驚くセレスティーヌに、リーアが笑顔を見せる。
「早く目が覚めてしまったので、早めに出勤したのです」
すでにリーアは着替えていて、布巾でテーブルを拭いているところだった。
家族が見付かったことが余程嬉しかったのだろう。その動きはとても軽やかだ。
「今日はクッキーを持ってきました。あとで召し上がってくださいますか?」
「え、ええ、もちろん」
「ありがとうございます! 母がよく焼いてくれた木の実のクッキーなのです。ふと思い出して、昨日焼いてみましたの」
家に帰ってから焼いたのであれば、ベッドに入ったのは深夜なのではないだろうか。
それなのに、リーアからは微塵も疲れを感じない。
「いつかアンナを故郷に連れて行きたいですわ」
「それは……楽しみですわね」
セレスティーヌは無難な返事を返すことしかできなかった。
結局、セレスティーヌはこの日もリーアに伝えることができなかった。
せめて女将にだけはと思ったのだが、今日も食堂は大忙しで、閉店までその機会がなかった。
疲れた体と重い気持ちを引きずってセレスティーヌはアパートへ向かう。
その頭の中は、アルフォンスに何と言うかで一杯だ。
間違いなく叱られるだろう。
それは仕方ない。すべて自分が悪いのだから。
叱られても、今日は反論してはいけない。大人しく叱られた上で、素直に謝るべきだ。場合によっては、どうしたらいいか相談してもいいかもしれない。
「そうですわ。最初から相談すれば良かったのです」
口に出した途端、何だか急に心が軽くなった気がした。
これまでも、セレスティーヌはアルフォンスに導かれてきた。騎士団長を説得し、西の反乱を鎮め、シャブラン公国との関係改善を成し遂げることができたのも、アルフォンスが指針を示してくれたからだ。
この町に来てからもそれは同じだった。アルフォンスに様々なことを教わりながら生活してきたのだ。
「今回も、あの男を利用することにしましょう」
何とも傲慢なセリフだが、その顔には笑顔が浮かんでいる。
「リーアにきちんと別れを告げて、王国の秩序を取り戻すために動き出すのです。アルフォンスと一緒なら、わたくしは無敵なのです!」
セレスティーヌが足を速めた。
顔を上げ、真っ直ぐ前を向いて、アルフォンスが待つアパートへと歩いて行った。
ところが。
「灯りが、ない?」
アパートの前でセレスティーヌが立ち止まる。
いつもはアルフォンスが先に帰っているので、リビングの窓には明かりが灯っている。その灯りが、今日に限ってなかった。
不安に駆られて、セレスティーヌは階段を早足で上がっていった。
扉の前で息を整えて、ノブをそっと回してみる。
ノブは回らなかった。
いつもなら開いている鍵がしっかりと掛かったままだった。
心拍数が跳ね上がる。顔から血の気が引いていく。
慌てて自分の鍵を取り出すと、セレスティーヌは扉を開けた。
中は真っ暗だった。
気配を感じないその空間に、鞄の落ちる音が冷たく響いた。
アルフォンスの寝室も、自分の寝室も確認した。
書き置きがないかを探し回った。
一階の台所も、風呂もトイレも見に行った。
だが、アルフォンスの姿はどこにもない。
空っぽの部屋で、セレスティーヌが立ち尽くす。
もしかすると、ビゼー伯爵に会いに行ったのかもしれない。
あるいは残業をしているのかも。
楽観的に考えようとするが、それはすぐに強烈な不安で塗りつぶされてしまう。
事故にでも遭ったのだろうか。
何かの事件に巻き込まれたのだろうか。
それとも、昨日のことが原因で……。
「どうしよう」
漏れ出た声は、怯えるように震えている。
過去のどんな場面よりも動揺した。
もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。
そう考えただけで息が出来なくなった。
涙がじわりと滲み出る。
瞳から溢れたそれが、セレスティーヌの頬を伝って落ちた。
そこで初めて、セレスティーヌは自分が泣いていることに気が付いた。
慌ててハンカチで涙を拭い、何度か深呼吸をすると、セレスティーヌは少し冷静さを取り戻す。
「とにかく確認しなければ」
まずはレナルドたちの宿に行こう。レナルドはすでに出発しているはずだが、オレリアとセドリックはいるはずだ。
そこにいなければ、次はビゼー伯爵の宿だ。
そこにもいなければ、働いている製材所に行ってみよう。
床から鞄を拾って肩に掛け、セレスティーヌは玄関扉のノブを握った。
その時。
トントントン
瞬間、セレスティーヌはもの凄い勢いで扉を開けた。
「アルフォンス!」
喜びに満ちた顔は、しかし、すぐに恥ずかしさで赤く染まる。
「夜分遅くに申し訳ございません。部屋に入ってもよろしいでしょうか」
そこにいたのは、肩を小さくすぼめたオレリアだった。
向かい合って座ると、オレリアが恐縮しながら頭を下げる。
「突然お訪ねして本当に申し訳ございませんでした」
「いえ、いいのです」
恥ずかしくて、セレスティーヌはオレリアを見ることができない。
「それで、夜分にどうしたのですか?」
「じつは、アルフォンス様に頼まれまして」
驚いてセレスティーヌが顔を上げた。
「夕方ふいに宿にやってきて、殿下の悩みを聞いてやってほしいとおっしゃったのです」
「悩みを?」
「はい。もしかしたら男には言いにくいことなのかもしれない。自分では役に立たないから、私にアパートに行ってほしいと」
セレスティーヌが目を見開いた。
「アルフォンス様は、これまでとは別人のように沈んだお顔をされておりました」
「そうなのですか?」
「はい。あまりに苦しそうでしたので、殿下に何かあったのかと心配になって、急いで伺った次第です」
「そうでしたか」
返事はしたものの、この辺りからセレスティーヌは上の空になっていた。
「お体のどこかがおつらいのですか? それとも、何か悩みがあおりなのでしょうか」
オレリアが心配するが、セレスティーヌは答えない。
「私に出来ることでしたら何でも致しますので、遠慮なくおっしゃってください」
憂いで顔を曇らせながら、オレリアがセレスティーヌの手にそっと触れた。
その途端、オレリアが声を上げる。
「殿下、お熱が!」
その声でセレスティーヌは我に返った。
「大事を前に無理はいけません。どうか今すぐベッドへ」
「いえ、わたくしは大丈夫です」
「ですが」
「心配掛けてごめんなさい。本当に大丈夫なのです」
オレリアに向けるその顔は、相変わらず赤いままだ。
しかし、その様子は先ほどまでと少し違う。
「あなたが来てくれたことで、すべてが解決しました」
「そうなのですか?」
不思議がるオレリアに、セレスティーヌが尋ねる。
「アルフォンスは、今どうしているのですか?」
「はい。私たちの宿にいらっしゃいます。今夜は泊まって、明日はそこから仕事に行くとおっしゃっておりました」
「そうですか」
「こちらにお戻りになるのは明日の夜になると思います。今夜は私が殿下のお側におりますので、何なりとお申し付けください」
献身的な言葉に、だがセレスティーヌは残念そうな顔をする。
それを見たオレリアが、焦ったように言った。
「私では及ばぬところもあるかもしれませんが、精一杯務めますので」
これにはセレスティーヌが慌てた。
「ごめんなさい。あなたに不満があるわけではないのです。あなたが来てくれたことを、わたくしは本当に嬉しく思っているのですよ」
「本当でございますか? それなら良いのですが」
オレリアがホッと息をつく。
セレスティーヌもそっと息を吐き出した。
「安心したら、急にお腹がすいてきました。オレリア、何か食べる物はありませんか」
「すぐにご用意いたします」
にこりと笑って、オレリアが持参したバスケットを膝の上に載せる。
「殿下がお腹を空かせた時にと、アルフォンス様が持たせてくださいました」
「アルフォンスが?」
「はい。近くのパン屋で売っているサンドイッチだそうです。殿下がお好きだとおっしゃっておりました」
オレリアがサンドイッチをテーブルに並べ始めた。
「お台所は一階ですよね? お湯を沸かしてまいりますので、少々お待ちください」
食器棚からケトルを取り出すと、オレリアは部屋を出て行った。
静かになったリビングで、セレスティーヌが小さく呟く。
「アルフォンス」
その名を口にした途端、セレスティーヌの胸が熱くなる。
今すぐ礼を言いたかった。
今すぐ謝りたかった。
今すぐアルフォンスに……
両手で自分の肩を抱いて、セレスティーヌがうつむいた。
オレリアが戻るまで、何かに耐えるように、セレスティーヌはぐっと口を結んでいた。
この夜セレスティーヌは、オレリアに嘘をついて、自分のベッドではなくアルフォンスのベッドで眠った。
毛布を丸めてそれを抱き、枕に顔を押し当てたたまま、長い長い夜を過ごしたのだった。
翌日、セレスティーヌは心から礼を言ってオレリアを送り出すと、少し早めに職場へと向かった。
更衣室に入ると、ちょうど着替えを済ませたリーアがいた。
「おはようございます。リーア、あなたにお話があるのです」
挨拶もそこそこにセレスティーヌが切り出す。
「じつは、わたくし故郷に帰ることになりました」
「そうなのですか?」
リーアが驚き、そして悲しそうに目を伏せる。
痛む心を奮い立たせてセレスティーヌが続けた。
「出発は二週間後くらいになると思います。急な話で本当にごめんなさい」
どうにか言い切ったセレスティーヌの耳が、消え入りそうな声を捉えた。
「お手紙を書いたら、アンナに届きますか?」
「それは」
セレスティーヌが答えに窮する。
いっそすべてを話してしまおうか。
そんな考えが頭をよぎったが、首を振ってそれを追い払う。
「落ち着いたら、わたくしから手紙を送ります。宛先はお店でいいですか? それとも」
「アンナがいなくなるのなら、私も故郷に戻るかもしれません」
「そうですか」
セレスティーヌがうつむいた。
それを見たリーアが顔を上げる。
「申し訳ありません。喜ぶべきことなのに、しんみりさせてしまいました」
リーアが無理矢理笑った。
「お手紙はお店宛てにしてください。私が故郷に帰っていたら、転送してもらうよう頼んでおきますので」
「分かりました」
「さあ、今日も一日頑張りましょう!」
ロッカーをパタンと閉じて、リーアが更衣室を出て行く。
「本当にごめんなさい」
小さく呟いて、セレスティーヌがロッカーを開けた。
着替えを済ませたセレスティーヌは、そのまま厨房に行って、女将に退職したい旨を伝えた。
女将も残念そうにしていたが、最後は笑って了承してくれた。
その日も忙しかったが、大きな失敗をすることなくセレスティーヌは仕事を終えた。
食堂を出たセレスティーヌは、疲れた足を引きずってアパートへと向かう。
その足がアパートの前で止まった。
上を見上げ、”それ”を確認して、ホッと息を吐き出す。
そしてセレスティーヌは拳を握った。
会話の予行練習は済ませてある。
ちゃんと謝って、ちゃんとお礼を言って、それから……。
二階に上がって玄関扉のノブを握ると、それは簡単に回った。いつも通り、セレスティーヌの帰宅に合わせてアルフォンスが鍵を開けてくれていた。
大きく息を吸い込んで、それをゆっくり吐き出すと、セレスティーヌは勢いよく扉を開ける。
「ただいま戻りましたわ!」
大きな声がアパートに響き渡った。明るく言おうと意識し過ぎて、驚くほど大きな声が出てしまった。
いきなりの失敗にセレスティーヌが顔を引き攣らせるが、意地で立て直して、セレスティーヌは笑顔を浮かべる。
リビングには、いつも通りアルフォンスがいた。
しかし、返ってきた言葉は、いつもの”おかえり”ではなかった。
「お前、俺のベッドを使ったのか?」
「な、な、なっ!?」
とんでもない一言がセレスティーヌの頭を沸騰させる。
「な、何を言っているのですか!?」
「枕からお前の匂いがした。だから使ったのかなって」
「そんなはずないではありませんか!」
叫ぶようにセレスティーヌが否定する。
「そうか? でも」
「わたくしがあなたのベッドを使うなど、天地がひっくり返ってもあり得ません!」
あまりの勢いにアルフォンスが怯んだ。
「そうか、悪かった。俺の勘違いだった」
「そうです! あなたの勘違いです!」
全力で主張して、セレスティーヌは自分の寝室へと向かう。
「夕飯は」
「いりません!」
空腹など吹き飛んでいた。
極度の動揺で全身が燃えるようだ。
その耳に、アルフォンスの小さな声が届くはずもない。
「俺は、別にお前なら」
バタンと激しく扉を閉じて、セレスティーヌが両手で顔を覆う。
この夜セレスティーヌは、一晩中ベッドの中で身悶えることになったのだった。




