5-7
干し草が積まれた小屋の中で、セレスティーヌは服を脱いでオレリアに渡した。
替わりに受け取ったのは、農作業用のチュニックワンピースだ。この非常事態であってすら手に取ることを躊躇うほど、それは薄汚れていた。
いつぞやのブーツの時のように、セレスティーヌは息を止めてワンピースを着る。続いてベルト替わりの縄を締め、ごわごわのエプロンもつけた。
身に付けていた唯一のアクセサリ、王家の指輪は、紐を通して首から下げた。これなら外から見えることはない。
最後にスカーフを被れば変装は完成というところで、着替えを手伝っていたオレリアの手が止まる。
「どうしたのですか?」
オレリアが固い声で答えた。
「大変恐縮ですが、御髪を少し切らせていただきます」
「髪を?」
驚くセレスティーヌの前で、オレリアが足元の袋を探り始める。
「殿下の御髪の長さですと、きつくまとめても、スカーフで隠し切れないのです」
説明するオレリアの声は、小さく震えていた。
絹のようと称えられるブロンドの髪。その美しさを保つために、セレスティーヌはとても気を遣っていた。当然それはオレリアも知っている。
「殿下の髪はとても目立ちますので、収まる程度に短く……」
消え入りそうな声を聞いて、セレスティーヌは覚悟を決めた。
「では、あなたと同じように、肩の上で切り揃えてください」
オレリアが激しく顔を上げた。
「それはできません! 殿下の御髪は王国一の美しさ。畏れ多くて私にはとても」
「あなたたちの献身を無駄にしたくないのです。遠慮なくやってください」
オレリアの目が大きく開いた。
揺れる瞳でセレスティーヌを見つめていたオレリアが、やがて静かに頭を垂れる。
「かしこまりました」
ハサミを取り出したオレリアが、立ち上がってセレスティーヌの後ろに回った。
絞ったランプの明かりでも分かる美しい髪。
それが、はらりはらりと床に落ちていった。
小屋を出ると辺りが白んでいた。夜明けが近いらしい。
外には変装を済ませたセドリックがいた。その目がセレスティーヌを見て驚く。
「ちゃんと農民の娘に見えるかしら」
だいぶ間を空けてセドリックが答えた。
「そうですね」
セドリックが無理矢理笑う。
馬に水をやり終えたレナルドが、セレスティーヌから目を背けて言った。
「では、参りましょう」
セレスティーヌが荷馬車に乗り込み、セドリックが御者台に座る。
続いてオレリアが、着ている服を汚さぬようレナルドの手を借りて荷馬車に上がろうとした。
その時。
ドドドドドッ!
朝靄の向こうから地響きのような音が響いた。
直後レナルドが叫ぶ。
「行け、セドリック!」
セドリックが鞭を振るった。
「ご武運を!」
馬車に乗りかけていたオレリアは、セレスティーヌに一瞬笑みを見せた後、レナルドと共に軍馬に乗った。
荷馬車と軍馬が互いに逆方向へと走り出す。
「オレリア! レナルド!」
馬影の消えた白い空間に向かって、セレスティーヌが空しく手を伸ばした。
しばらく走ったところで馬車は速度を落とした。
「馬に負担が掛かりますので、少しゆっくり進みます」
馬は普通の農耕馬だ。荷台を引いたまま長躯ができるはずもない。
「分かりました」
セドリックに答えて、セレスティーヌは辺りを窺う。
ここはまだ反乱地域の内側だ。夜が明けたことで、兄の暴挙の爪痕がはっきり確認できた。
家は破壊され、麦穂はメチャクチャに踏み荒らされている。
草むらにカラスが群がっているのは、そこに”エサ”があるからなのだろう。
改めて怒りが込み上げてくる。
同時に、セレスティーヌは胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。
オレリアとレナルドは無事だろうか。
騎士団の皆はどうなっただろうか。
神様、どうか彼らをお守りください
セレスティーヌが胸のうちで祈った時、急に馬車が止まった。
「少しお待ちください。すぐ戻りますので」
セドリックが御者台から飛び降りて走り出す。
向かったのは小道の奥にある教会。その建物には襲撃の跡が見られない。さすがの親衛隊も教会には手を出さなかったようだ。
遠目にセドリックが扉を叩いているのが見える。
しばらくすると、年老いた神父が出てきた。突然やってきたセドリックに驚いた様子だったが、セドリックの言葉を聞いてさらに驚いた顔をした。
その神父は、セドリックから何かを手渡されると、ゆっくり頷き、両手を胸の前で合わせた。
戻ってきたセドリックにセレスティーヌが聞く。
「何を話していたのですか?」
「道を聞いておりました」
どう見てもそういう雰囲気ではなかったが、セドリックがそれ以上の説明をする様子はない。
馬に鞭を入れながらセドリックが言った。
「ここから西に進んで海を目指します。そこで商船に便乗してシャブラン公国に入り、最後はモーリス殿下と合流できたらと思っております」
「なぜ王都に向かわないのですか?」
「ユベール殿下は、何としてもセレスティーヌ殿下を亡き者にしようとするはずです。僕一人では、殿下をお守りしながら王都に辿り着くことができません」
説明を聞いてもセレスティーヌは素直に頷けなかった。
その経路では、たとえ王都に辿り着いたとしても相当な日数が掛かってしまう。その間も兄の暴挙は続くだろう。
自分の身の安全を図るより、一日も早く兄を止めることを優先すべきではないだろうか。
だが、セレスティーヌにはそれをセドリックに伝える時間はなかった。
「荷台の袋の中にパンが入っています。恐縮ですが、移動しながら」
そう言って振り向いたセドリックが、鋭い声を上げた。
「掴まってください!」
「え?」
パーン!
大きな鞭の音が響き、狂ったように馬が走り出した。
必死に荷台を掴むセレスティーヌが、後方を見て目を見開く。
赤い布を首に巻いた騎兵がこちらに向かってきていた。
オレリアとレナルドは捕まってしまったのだろうか。
いや、そもそも親衛隊は五百人いるのだ。複数の部隊が展開していてもおかしくない。
親衛隊に見つかれば変装など意味がなかった。捕まったら終わりだ。
しかし、こちらは荷馬車、向こうは軍馬。速力の差は明白だった。
距離がみるみる縮まっていく。もう兵士たちの顔がはっきり見えていた。
ここでわたくしは……
セレスティーヌが諦め掛けた時、セドリックが叫んだ。
「荷台の薪を後ろに投げてください!」
「薪?」
見れば、たしかに薪が何束か転がっている。
迷っている時間はなかった。掴まっていた手を放し、激しく揺れる荷台を這って移動すると、セレスティーヌは薪を拾い上げる。
そして。
「食らいなさい!」
目前に迫っていた兵士に向かって、渾身の力でセレスティーヌが薪を投げ付けた。
意表を突かれた兵士が慌てて馬首を横に向ける。だが、突然の進路変更に馬が対応できるはずがない。
バランスを崩して馬が倒れ込んだ。それに後続が次々と巻き込まれていく。
「天罰ですわ!」
荷台の上でセレスティーヌが大きな声を上げた。
追っ手が小さくなっていく。
これで助かったとセレスティーヌは一息ついたが、事態はそう甘くなかった。
道が大きく右にそれ、両側が雑木林になった場所でセドリックが馬車を止めた。
「今度は何事ですか!?」
周囲を見回すセレスティーヌに、セドリックが思い掛けないことを言う。
「殿下はここで降りてください」
「ここで!?」
驚くセレスティーヌを見向きもせず、道端の木の小枝を折りながらセドリックが早口で説明する。
「このままでは追い付かれます。僕が兵士を引き付けますので、殿下はこの林で夜を待ってください」
「わたくし一人でですか?」
「そうです。夜になったら、ここから南西にあるエリスという町の教会を目指してください。そこにいれば、迎えが来る可能性があります」
「迎え? 可能性?」
何が何だか分からないが、セドリックの切羽詰まった顔を見て、セレスティーヌは詳しく聞くことを諦めた。
荷台から降りるセレスティーヌを手伝いながら、セドリックが悔しそうに顔を歪める。
「僕の読みが甘すぎました。申し訳ありません」
それを見て、セレスティーヌはまたも強烈な自己嫌悪に陥った。
アルフォンスと別れて以来、セレスティーヌはセドリックに冷たく接してきた。それなのに、セドリックは万が一の事態を想定し、それに備え、今も命を懸けて自分を逃がそうとしている。
情けなくてうつむきそうになる心に鞭を打つと、セレスティーヌはセドリックに声を掛けた。
「セドリック、わたくしを見なさい」
セドリックがゆっくり顔を上げる。
その頬を、セレスティーヌが両手で包んだ。
「わたくしは、あなたと出会えたことを誇りに思っています」
驚くセドリックに向かって、セレスティーヌが微笑んだ。
「あなたには、これからもずっとわたくしの側で働いてもらわなければ困ります。ですから、どうか命は大切にしてください」
「殿下」
セドリックの目に涙が浮かぶ。
「殿下、僕は」
言い掛けたセドリックが、突然セレスティーヌの手を振り払った。
「お急ぎください!」
荷台に飛び乗って袋を取り出すと、それをセレスティーヌに押し付けた。
セレスティーヌにも聞こえていた。馬群が近付いてくる音だ。
御者台に移ったセドリックが、振り向くことなく鞭を振り上げる。
「殿下に神のご加護のあらんことを!」
馬車が走り出した。
それを見送る余裕はセレスティーヌになかった。
袋を抱えて林に飛び込むと、木の陰に隠れて身を伏せる。
蹄の音が近付いてきた。
蹄の音が真横を通り過ぎた。
蹄の音が、聞こえなくなった。
続く者がいないことを確かめると、セレスティーヌは、セドリックの無事を祈りながら林の奥へと歩いていった。
草を踏み分け、木の根に躓きそうになりながらセレスティーヌは進んでいく。
道からじゅうぶん離れると、枯れた倒木に腰掛けて、セレスティーヌは袋の中からパンを取り出した。
「わたくしは、生きなければならないのです」
パンをちぎって口に入れる。
「生きて王都に戻らなければならないのです」
飲み込んで呟いて、また口に入れる。
二つあったパンを食べ終わると、水筒から水を飲んで、セレスティーヌは木の根元に腰を下ろした。
先ほどまでの喧噪が嘘のように林の中は静かだった。時折鳥のさえずりが聞こえるくらいで、風の音さえしない。
中天に向かい始めた太陽の日差しが木々の隙間から差し込んできた。草木を照らすその光は、現実を忘れてしまいそうなほどきれいだ。
それをしばらく見つめたセレスティーヌは、膝を抱え、顔を埋めて目を閉じる。
瞼の裏にたくさんの人の顔が浮かんできた。
レナルド、オレリア、セドリック。
騎士団の兵士と副団長。
王都に残してきたアンナとメイド長。
騎士団長とモーリス。
最後に、セレスティーヌはその顔を思い浮かべた。
「あなたは、どこで何をしているのですか」
膝に顔を押し付けたまま、泣きそうな声でセレスティーヌが文句を言った。
ふと。
ざわざわ、ざわざわ……
風が草木を揺らし始める。
静かだった林がざわめき始めた。
セレスティーヌが顔を上げる。
その顔が、緊張で一気に強張った。
ガサ、ガサ
危険な音が聞こえてきた。
逃げなければ!
そう思うのだが、恐怖で体が動かない。
セレスティーヌは強く目を閉じた。
お願い、どこかに行って!
心の中で必死に祈る。
神様、お助けください!
膝を抱えて神に縋る。
だが、現実は甘くなかった。
「見付けたぞ」
低い声に驚いてセレスティーヌが顔を上げた。
一メートルも離れていないまさに目の前。そこに一人の兵士が立っていた。
その首に巻かれていたのは、身の毛もよだつ赤い布。
間違いなくユベールの親衛隊だった。




