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セドリックと別れたセレスティーヌとレナルドは、夕闇迫る町の通りを宿に向かって歩いていた。
「宿の名前は、えっと、何だったかしら?」
「偉大なる子羊の毛皮亭です」
レナルドが即答する。
「そ、そうでしたわね。長い名前なので忘れてしまいましたわ」
気まずそうにセレスティーヌが目をそらした。
たしかに長い名前なのだが、そもそもセレスティーヌは、アルフォンスからの伝言を聞いて以降の記憶が曖昧だ。
怒りと不満。
そして大きな不安。
騎士団長を仲間に引き入れろと言われた時以上にどうしていいか分からない。まず何をすればいいのか、明日からどう動けばいいのかまったく分からなかった。
見知らぬ土地に放り出された上、一緒にいるのはレナルド一人。おまけに、ここでは行動に大きな制約が掛かってしまう。
領内において、王族の評判は最悪です
特に、第二王女は亡国の姫であるという認識が完全に定着しています
この町で自分の正体を明かすのは危険だ。セレスティーヌ・ド・ベルクールの名は封印しなければならない。
つまり、何の後ろ盾もないただの市民として行動しなければならないのだ。
考えているような、ぼぉっとしているようなよく分からない状態のまま、気が付くとセレスティーヌは宿屋に到着していた。
「部屋は二つ取ってありました。こちらが鍵になります」
「ありがとう」
レナルドから鍵を受け取って二階に上がる。
「私の部屋は隣になります。何かあれば、廊下には出ずに壁を叩いてください」
「分かりました」
ぼんやり頷いて、セレスティーヌは部屋に入った。
ところが、中が真っ暗でよく見えない。
「レナルド、これは」
戸惑うセレスティーヌにレナルドが言う。
「部屋に入ることをお許しいただければ、私がランプをおつけ致します」
「そ、そうね。お願いできるかしら」
「かしこまりました」
レナルドが部屋に入ってランプをつけた。
明るくなった室内をセレスティーヌが見回す。部屋の作りは、アルフォンスと会っていたあの部屋と似ていた。しかし、ベッドも椅子も、壁も床も、窓に掛かるカーテンも、そのすべてが粗末だった。
「夕食はお部屋で召し上がりますか?」
「……そうします」
「かしこまりました。後ほどお持ちいたしますので、部屋の鍵は必ず掛けておかれますように」
恭しく頭を垂れて、レナルドは部屋を出ていった。
閉じた扉に鍵を掛け、椅子に腰を落とすと、ふいに隣の部屋の扉が開く音が聞こえた。それにセレスティーヌは心底驚く。
レナルドが部屋を歩いているのが分かった。荷物を床に置いたことも分かった。
隣の部屋の物音が気になったことなど、王宮では一度たりともない。
益々憂鬱になったセレスティーヌは、レナルドに聞こえないか心配しながら、深く長く息を吐き出した。
よく眠れないまま朝を迎えたセレスティーヌは、レナルドが持ってきた朝食を見てため息をつく。
黒っぽいパンと、色の薄い豆のスープと、黄身の崩れたハムエッグ。
サラダはなかった。フルーツもなかった。当然デザートもなかった。
「お茶は後ほどお持ちいたします」
そう言って下がろうとするレナルドを、セレスティーヌが引き止める。
「これは、一般的な庶民の朝食と同じものですか?」
少し考えてからレナルドが答えた。
「裕福な家であれば、もっと豪華な朝食が出てくると思います。裕福でなくても、農家であれば野菜は出るでしょうし、牛飼いの家であればチーズが出てくるかもしれません」
「なるほど」
「家と仕事がある者たちは何かしら朝食を取っていると思いますが、スラムに住む者たちは、それも難しいでしょう」
頷いて、セレスティーヌがさらに聞く。
「あなたの家ではどうだったのですか?」
「私の家では、三度の食事が出ないということはありませんでした。朝食は、これにサラダが付きました。食後にフルーツを食べることも多かったと思います」
「そうなのですね」
一口に庶民と言っても、家によって食事の内容は違うらしい。
そんな当たり前のことを、セレスティーヌは初めて知った。
「この町では物が手に入りにくくなっているそうです。こんな食事で申し訳ないと、宿の主が謝っておりました」
それを聞いて、セレスティーヌはアンナに叱られたことを思い出した。
一日三回食事を取ることができる。それがどれほど恵まれていることか、セレスティーヌ様はお分かりでしょうか
セレスティーヌは、覚悟を決めてパンを手に取った。
やたらと堅いそれを左手でしっかりと握り、右手に力を込めて引きちぎる。一口大になったそれをしばらく見つめた後、セレスティーヌは恐る恐る口に入れた。
美味しくなかった。というより不味かった。
続いて豆のスープを口に含むが、こちらも味が薄くて美味しくない。
最後に食べたハムエッグがやけに美味しく感じたのは塩気のおかげだろうか。
パンをスープで流し込み、ハムエッグで口直しをしながら、セレスティーヌはどうにか朝食を終えた。
後ろに控えていたレナルドが、食器を片付け始める。
「ただいまお茶をお持ちします。少しお待ちください」
下がろうとするレナルドを、またもセレスティーヌが引き止めた。
「町の様子を見てみたいと思います。出掛ける準備をしておいてください」
「かしこまりました」
恭しく頭を下げて、レナルドは部屋を出て行った。
扉の鍵を掛けながら、セレスティーヌが小さく呟く。
「食事ごときで挫けている場合ではないのです」
自分を鼓舞するように、セレスティーヌは無理矢理背筋を伸ばした。
決意とともに宿を出たセレスティーヌは、路地を抜けて大きな通りに出ると、そっと周囲を窺った。
護衛はレナルドただ一人。事前の周知もなく、密かに見守る者もない本物のお忍びである。
ここが王都であれば、解放感に心躍らせていたかもしれない。だが、敵地と言っても過言ではないこの町ではそうはいかなかった。
誰も自分たちを見ていない。
それなのに、誰かに見られている気がして体が強張った。
自然と肩が縮こまる。
視線が下へと落ちていく。
顔を隠すように、セレスティーヌは帽子を深くかぶり直した。
王族であることを知られてはならない。
分かっていたはずなのに、いざとなるとその事実がセレスティーヌを萎縮させた。
町を見て回るどころではなかった。
そこから動くことすらできなかった。
「どうかなさいましたか?」
うつむくセレスティーヌを心配してレナルドが声を掛ける。
「何でもありません」
咄嗟に答えたものの、やはり足は前に出ない。
意地と弱気が交錯する中、セレスティーヌの思考はまたもアルフォンスへの不満へと向かっていった。
安心しろ。お前の護衛は俺がする
自信満々の顔を思い出して、セレスティーヌが唇を噛む。
安心しろと言っておきながら、顔を見せることすらせず、おまけに何の段取りもしていないではないか。
やることが終わったら合流するから、それまで頑張れ
何とふざけた伝言だろう。
行動の糸口さえ示さずにどう頑張れと言うのか。
考えれば考えるほど腹が立つ。
いつも偉そうなことを言うくせに、いざとなったら何も役に立ちはしない。
あの男、絶対に許さない
セレスティーヌが拳を握った。
今度会ったら、その無責任さを徹底的に追求してやるわ
胸の内で強く決意した。
その決意が、セレスティーヌの心に火を灯した。アルフォンス糾弾という目的に向かって、セレスティーヌの頭脳が動き始める。
今回ばかりは絶対的にアルフォンスが悪い。
向こうに言い返す余地などあろうはずがない。
と言うことは。
この状況は、チャンスなのでは?
セレスティーヌの口元にうっすらと笑みが浮かんだ。
これまでは一方的に言われるだけだった。敬意の欠片もない態度と言葉で責め立てられて、何度も悔しい思いをしてきた。
しかし、今はセレスティーヌが圧倒的に優位と言える。
この状況を活かさない手はありませんわね
セレスティーヌの顔にくっきりと笑みが描かれた。
アルフォンスを叩きのめすために、その頭脳がフル回転を始める。
現状は確かに有利だ。それでも油断はできない。
あのアルフォンスのことだ。情報収集はしてやっただろうとか、お前こそ何もしていないだろうなどと平気で反撃してくる可能性はある。
ゆえに、この優位をさらに盤石なものにしておくべきだろう。
その方法とは……。
わたくしが、一人でこの反乱を鎮めてしまえばいいのだわ
そうなのだ。アルフォンス抜きでこの騒動を終わらせてしまえばいいのだ。
反乱を防ぎ、税の不満を解消して役人の不正を糺す。
そのすべてを自分一人でやってしまえばいい。
そして、アルフォンスと会った時にこう言ってやるのだ。
あら、今頃何しにいらしたの?
セレスティーヌの脳内で、アルフォンスが顔を真っ赤にして悔しがった。
それはとても気持ちのいい光景だった。
爽快かつ痛快。この光景は、ぜひとも実現しなければならない。
セレスティーヌの背筋が伸びていく。
ゆっくり帽子をとって、それを優雅にかぶり直す。
「レナルド」
「はっ!」
突然の威厳溢れる声に、レナルドが思わず姿勢を正した。
「セドリックから聞いた、ジルという男の家の場所は覚えていますか?」
「はい。たしか、フォルロン通りの北側にあると……」
「では、まずはそこに向かいます。わたくしの顔は、美しさゆえ印象に残りやすいので、町の者とはあなたが話してください」
目を見開くレナルドにセレスティーヌが平然と言い放つ。
世間知らずの我が儘姫が完全復活した。
「まずは、あそこの露店の店主にフォルロン通りの場所を聞いてきなさい」
「かしこまりました」
レナルドが一礼して露店に向かう。
それをセレスティーヌが止めた。
「待ちなさい」
「はっ!」
慌ててレナルドが振り向く。
「わたくしが王族であることを知られてはなりません。よって、今後わたくしに向かって頭を下げることは禁じます」
「かしこまりました」
「それから、わたくしの名も呼んではなりません。以後わたくしのことは……そう、アンナと呼びなさい」
「アンナ、様」
「様も不要です。わたくしはあなたの妹。あなたのことは、レナルド兄様と呼ぶようにします」
「……」
戸惑うレナルドに、セレスティーヌが強く言った。
「この町にいる間は、わたくしを妹だと思って接するように。よろしいですね?」
「承知いたしました」
「では行きなさい。いえ、違いますね」
セレスティーヌが言い直す。
「レナルド兄様、お願いします」
「かしこ……じゃあ、行ってくる」
顔を引き攣らせながらレナルドが露店へと向かった。
それを見送るセレスティーヌの頭の中では、今後の展開についてのシミュレーションが超高速で行われていた。




