2、公爵家の女主人と公爵とその愛人・後
「ごめんなさい、公爵夫人。あたくし、夫を亡くしてからずっと寂しくて。お若い貴女には分からない苦労をしてきたわ。けれどその寂しさのおかげで、公爵と分かりあえてしまったの。あたくしたちはきっと、こうなる運命だったのよ」
「ああ、君。その通りだとも」
公爵に肩を抱かれ、愛人はうっとりと美しく微笑んだ。先程の公爵夫人とはまた別の意味で、この場にそぐわない表情であることは確かだった。公爵よりは十も年上の愛人は、けれど年の差など信じられないくらいには艶っぽい。やはりここだけ切り取るならば、絵画のモチーフにとてもよい。
そして公爵夫人は、また堪えることに失敗してしまった。こんなになってしまうのは、実家でのびのびと暮らしていた頃以来である。
「……ふっ」
「何がおかしいんだ!」
「ふふふっ、逆にどこが笑えないと言うのです? だって、お腹の子は貴方の子どもではないのですから」
「何を根拠に!」
いきり立つ公爵の横で、愛人が僅かに顔を強張らせた。それでもすぐに整えられるあたり、愛人もそこそこにはしたたかである。
「なんて、ひどいことを仰るのかしら……。あたくしたちは愛し合っているの。お可哀想ですけれど貴女とは違うのよ、夫人」
「愛し合って、ね。ふふふ。ねえ、貴女。もう既に、侯爵夫人ですらない貴女。そこそこの男爵家に生まれ、親族の反対を押し切って年老いた侯爵の後妻におさまった貴女。貴女は知らないのでしょうが、わたくしたちにはそれなりの情報収集をする権利が与えられているのよ」
「……情報収集の権利?」
「ええそう。公的に、ね」
公爵夫人の言う情報収集の前に、愛人の素性を明らかにしよう。
愛人は、とある侯爵の後妻であった。愛人の夫だった侯爵はそれこそ十年以上前に亡くなっているが、亡くなる寸前まで自身が権力を持っていないと気がすまない性質の人だった。その侯爵には死に別れた前妻との間に複数の子どもがいて、彼が当主であり続けなければならない理由などなかったのにもかかわらずだ。子どもたちは何度も隠居を勧めたが、侯爵は決して頷かなかった。
そんな侯爵家にやってきたのが、この愛人である。男爵家の中でも凡庸な家に生まれた彼女は侯爵家のメイドとして働き始め、けれどいつの間にか侯爵夫人の座におさまっていた。突然のことに侯爵の前妻の子どもたちは反発したし真っ当な考えを持つ愛人の親族たちも反対したが、年老いた侯爵が実権を握り込んで離していなかったから婚姻を撤回させることはできなかった。
侯爵夫人であった間、彼女はそれなりに夫の相手をしそれなりに夫を楽しませ、それなりに女主人の仕事を楽しんだ。侯爵家の人々にとって不幸中の幸いだったのは、高々男爵家の娘だった彼女にできることなど、いいことも悪いこともたかが知れていたということだった。この程度であるならばと、侯爵の子どもたちは仕方なく彼女を表面上受け入れた。
ただそれは、その侯爵が生きていた時の話である。年老いた侯爵は結婚後そう時間をたたずしてベッドに伏せるようになり、そこから一月もしない内に亡くなった。侯爵家は、これ幸いと愛人を本邸から追い出した。ただ籍を抜くことだけは愛人が抵抗した為、戸籍上の彼女は未だ現侯爵の義母という扱いである。そしてやはり仕方なく、侯爵家はこの愛人を先代の妻として面倒をみていた。侯爵夫人の扱いとは劣るとはいえ、男爵家の娘としては破格の待遇で屋敷も使用人もドレスも宝石も食べ物も、全て侯爵家が用意してやった。
けれど、この愛人はそれでは満足しなかった。だから社交界でいつもいつも愚痴を言い続けて既にもう呆れられていた若き公爵に目をつけたのだ。実はそんな公爵に目をつけていた悪い女はほかにもいたのだが、愛人は前侯爵夫人という肩書でもってそれらを蹴散らし彼の隣におさまった。年上であることは多少ネックではあったものの、公爵は甘えたな気質があったからそれすらも上手く使って彼を篭絡した。
そして、現在である。愛人は、まだ未亡人で終わりたくはなかった。公爵夫人として、社交界に返り咲いてやるつもりだった。だから、ここにきた。愛人は自身の運のよさを信じていた。死んだ前侯爵の時だって上手くやれた。そういう、妄執をしていた。
「公爵家や侯爵家となりますと、王家とも近い尊い血を持っています。そんな人たちの愛人が、何も調べられないと思っていて?」
「……王家に何か言ったのか」
公爵夫人は愛人に向かってそう問いかけたが、それに応えたのは公爵だった。公爵の隣で愛人の肩がまた僅かに揺れたが、それを見ていたのは夫人だけだった。
「陛下からの問いにお答えしただけですわ」
「何を? そもそも何故、陛下が貴女に?」
「夫を挿げ替えてもよいか、と問われましたので、はい、と。この問いは、わたくしにしか答えられないでしょうから、わたくしにお聞きくださったのだと思いますわ」
公爵夫人はやはりにこりと微笑んだ。そこでやっと、公爵も愛人も、様子がおかしいのだと気がついた。あまりに遅い気づきだったが、しないよりはましだろうと夫人は鷹揚に頷いた。
「さっきから、貴女は何を言っているんだ。彼女の腹の子が私の子でないと言ってみたり、情報だの何だと言ってみたり、挙句、陛下の名を出して夫の挿げ替えなど。所詮、伯爵家の娘である貴女が、何を――」
「まず」
「っ」
「わたくしは、公爵夫人でございます。そして、公爵家の女主人でございます。伯爵家の娘であった事実は消えませんが、既に、そうではありません」
公爵は目を丸くして、拳を握った。こうまであからさまに、彼の話を遮る者などこれまで一人としていなかったからだ。こんなこと、許されるべきではなかった。けれど、この場の誰もがそれを指摘しない。使用人は勿論、家令ですら公爵夫人を嗜めなかった。それどころか、夫人の後ろに控えている者たちの視線はあり得てはならない程度には冷たかった。抗議など、できなかった。それは公爵の周りにいる者がすることで、彼はそんなことを自身でしたことがなかった。やり方すら、分からなかった。
「国王陛下並びに王妃殿下は、我が公爵家の現状をひどく憂いておられます。わたくしたちの子どもに、悪影響ではないか、と」
「そ、それは……」
異様な空気の中、公爵はそっと目を逸らした。公爵と公爵夫人の間の一粒種。あの子はまさに、公爵の生き写しのような容姿をしていた。さすがの公爵も愛人と出会う前は、あの子の血を疑ったことはなかった。それくらいにそっくりなのだ。けれど、あまりにも性格と出来が違うのだ。
公爵が礼儀作法を完璧に覚えたのは十歳の頃だったが、あの子は六歳頃には家庭教師から合格を貰っていた。子どもの頃の公爵は暇さえあれば父母にべったりと甘えていたが、あの子は父である公爵にあまり寄りつかなかった。ほかにも挙げだせばきりがない程、公爵と子は正反対であった。
そしてそんなあの子は、国王夫妻の覚えが目出度い。複数いる王女の内の誰かを降嫁させるつもりではないか、という噂もある。けれど噂の段階だ。そう、噂、で……。
公爵はそこでやっと、勢いよく顔を上げた。まだ正式な声掛けはないものの、もしその噂が本当なら、自身は王女の婚約者候補になり得る子どもを夫人共々放り出そうとしていたのだとやっと理解した。そもそも愛人が「あの子は本当に貴方の子なのでしょうか」などと悲しげに言うものだから疑ってしまったものの、あの子が公爵以外の種である筈がない。それが断言できるくらいには、彼らは外見が似通りすぎていた。
「いや、貴女と離婚したからといって、あの子を虐げるようなことは、決して……」
もう、言っていることがおかしくなっていると、公爵も自身で気づいていた。元々、公爵夫人の不貞を疑い、命の危機に晒されていると訴えて、離婚を持ちかけていたのだ。あの子だって、夫人に押し付けるつもりでいた。そういう方向で話をしていたのだから、この言い分はあまりにも道理が通らない。けれど、言葉が上手く出てこないのだ。昔に諳んじた古典も建物を建てる際に必要な複雑な計算も難しいと評判の他国語も、何の役にも立たなかった。隣に座っている愛人が信じられないと言わんばかりに自身を見ていることにも、気がつかなった。
「ふふふ」
「……何が、おかしいんだ?」
「わたくしは既にいくつかヒントを出しましたのに、何も気づいておられないのだと思うとおかしくて」
「ヒント……?」
「ええ」
公爵夫人は柔らかく微笑んだまま、容赦なく命を下した。
「捕らえなさい」
扉が開かれ、公爵家の応接室に騎士たちがなだれ込んできた。あまりにもあまりにも、現実離れした状況だった。あっという間のことに、公爵は制圧されたあとも何が起こったのか理解していなかった。いや、したくなかったのだろう。公爵は、そこまで馬鹿ではなかったから。
ただ呆然とするだけの公爵とは違い、ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる愛人は煩いからと猿ぐつわを噛まされた。そうしてやっと、静寂が訪れた。
「ふふ、貴方、ここまできて分からないなどとは言わないでしょう?」
「あ、あぁ……。わ、私を、殺すというのか……!」
「さあ、それはわたくしの管轄外ですので何とも。陛下の御心はわたくし如きには分かりかねますので。ただ、貴方は既に用済みですよ、ということなのです。ご理解いただけて?」
「どういうことだ、どういう……っ」
抵抗することもできずに、公爵はほろほろと涙を流した。まるで、自身が不当な扱いを受けているとでも言いたげに。そこでやっと公爵夫人は一瞬だけ笑みを引っ込めたが、すぐにまた何でもなかったかのように口角を上げた。
「最後ですから、これだけは教えてさしあげますね。貴方は陛下に『挿げ替えたい』と思われる程には疎まれていて、だというのに改める気配がないからこうなったのですわ」
「……嘘だ」
「いいえ、嘘ではありません。その証拠に、貴方の腕を掴んでいる騎士は王家に忠誠を誓っている者たちですもの」
公爵はのろのろと横を向いた。そして自身の腕を掴んでいる騎士の肩に王家に直接仕える者だけが許された紋章を見つけて、がくりと体の力を抜いた。いや、抜いたというより抜けただろうが。
「さようなら、貴方。もう二度と会うことはございません」
公爵夫人が優雅に手を振ると、騎士たちは公爵とその愛人を引きずっていった。公爵はか細く「嘘だ。やめてくれ、嘘なんだ」と繰り返していたし、愛人は猿ぐつわを噛まされていても泣き喚いて暴れていたが、選び抜かれた騎士たちには意味のないことだった。
騎士たちが二人を連れ公爵邸から出ていったのを窓から見送って、公爵夫人は深く息を吐いた。
「はあ……」
「お見事でございました、奥様」
「まあ、ふふ、ありがとう。……でも、ここからだわ。またわたくしは、新しい公爵と結婚して始めなければならないのね」
「……あの方は、かの者のようなことは決してなさいません」
「あら、そう? 貴方がそう言うのなら、信じてもいいかもしれませんね」
「あの方が、かの者と同じ轍を踏むのなら、この爺めが拳骨を落としますとも」
「……拳骨?」
「はい」
「あらまあ、ふふふ、拳骨。のんびりとした伯爵家でもそんなことはなかったわ」
公爵夫人は、久しぶりに笑った。少女の頃のように少しばかりはしたなく。けれど、ここは彼女の屋敷で、周りには使用人しかいない。だからほんの僅かであるが、その無作法は許された。




