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とある公爵夫人とその周りの人々の一生  作者: と。/橘叶和


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1、公爵家の女主人と公爵とその愛人・前

 結婚式の興奮のまま、花婿は花嫁を抱きしめた。



「ああ、貴女と結婚できて幸せだ。絶対に私が、貴女を世界で一番に幸福な花嫁にしてみせるよ」

「……ええ、ありがとうございます」



 それを遠巻きで見ていた人々の反応は様々だった。二人に向かって「お幸せに」と祝福を贈る人、花婿に対して「恥知らずな」と小さく呟く人、花嫁へ「お可哀想に」と同情する人。本当に様々だったけれど、これは由緒ある公爵家の跡取り息子の結婚式だ。誰も彼も、顔には笑顔を貼り付けていた。


 花婿は、公爵家の跡取り息子だった。生まれた時から最上級のものに囲まれて、それに相応しく優秀に育った。公爵夫妻は年を取ってからやっと生まれた一人息子を深く愛し、彼に相応しい妻を探す為に長く婚約者を決めなかった。


 花嫁は、伯爵家の次女だった。歴史ある伯爵家に恥じぬ程度の教育を受け、けれど次女であったからかそこそこ自由に朗らかに育った。そんな次女が苦労することのないように、伯爵夫妻は彼女を裕福な遠戚の子爵家に嫁がせることにした。


 そうつまり、花嫁は花婿と結婚する予定などなかった。長閑な田舎で、三つ年上の優しい子爵家の息子と人生を共にする筈だった。では何故、そんな二人が今日、結婚にいたったのか。それは、花婿が望んだからだ。


 花婿は、ある夜会で婚約者と踊る花嫁を知った。そしてすぐに彼女が伯爵家の娘で、婚約者がいることも調べた。普通であれば、ここで終わる話だ。けれど、そうしなかったからこそ、花婿は花婿としてこの結婚式に参加できたのだ。


 花婿は、花嫁と当時の婚約者の家に彼女を自身の妻として差し出すよう要求した。既に整っている縁談に割って入るなど、本来あり得ないことだ。けれど彼を溺愛していた公爵夫妻がそれを認め王家にも根回しをし、二人の縁談が調った。誰も、口を挟める状態ではなかった。花嫁の実家である伯爵家も花嫁の元婚約者が継ぐ予定の子爵家も、何もできなかった。


 そして今日、二人の結婚は神の名の下に成立した。


―――


 あの華やかな結婚式から十年、花婿だった男は公爵となっていた。結婚式から五年後、男の両親が相次いで儚くなったからだ。元々二人は高齢で息子を授かっており、少し早いが寿命と呼ばれるような年齢で亡くなった。急ではあったが覚悟していことでもあったから、男は懸命に公爵としての仕事に励んだ。少なくとも本人はそのつもりでいた。評判は、まあ、悪くはなかった。


 そして花嫁だった女は、当然、公爵夫人となっていた。ひたむきに働く夫を、こちらも懸命に支えた。しかし、姑から公爵夫人としての心得の全てを教わる前であったから、随分と苦労をした。けれど子どもが一人いたからか、やはり母強し、と呼ばれるくらいまでにはなった。子どもは幸いなことに男児であったので、尚更だったのかもしれない。


 一見、全てが上手くいっているように見えた。始まりこそああであったものの、公爵夫人も結果的に高い地位を手に入れた。公爵は思う通りの相手と結婚し、子宝にも恵まれた。十分に順調だと言えよう。けれど、公爵家には明らかに暗雲が立ち込めていた。かつて花婿だった公爵が、外に愛人を持つようになったのだ。それはかの侯爵家の未亡人で、公爵よりは十も年上の女だった。あれだけの情熱を持って花嫁を求め愛した男は、もう見る影もなかった。


 まあ、それだけならよくある話なのかもしれない。男とはそんなもの、と訳知り顔で物事を語る者も多い。しかしここから、少しずつ変わった話になってくる。



「私は世界で一番に不幸なんだ。妻はきっと今でも以前の婚約者を愛していて、私のことを憎んでいる。いつ食べ物に毒を入れられるのか、不安でたまらない」



 公爵は、こそこそとそう触れ回った。初めは紳士のサロンで、よく知る人だけに。次は王宮の事務官に、そして夜会でダンスを頼まれた淑女たちに。その話は徐々に広がり始め、公爵はその度にさめざめといかにも憐れっぽく嘆いた。


 その姿にある者は憤慨し同情し、慰めた。またある者は茶化し笑い話に変えようとして、それができないと分かるとすぐに興味を失くし、別の話題を持ちかけた。そしてそのほかの者は呆れ失望し、公爵の前から姿を消した。


 それでも不幸を嘆く若き公爵は、社交界の目を引いた。よくも悪くもである。けれど公爵夫人は表向き、何もしなかった。ある日、茶会で年若い令嬢が夫人に向かってからかいの言葉と視線を投げかけたとて、何も。



「公爵夫人? 公爵はずっと死への恐怖を語っていらっしゃいますけれど、夫人はそれを訂正なさいませんの?」

「あの方のあれは、今に始まったことではありませんもの」

「まあ、沈黙は肯定と取られますわよ」

「ふふ、若い貴女にはまだ分からないことでしょうが、夫婦というものはいろいろとありますわ」



 そうやって鷹揚に構える公爵夫人は、あまりに完璧だった。窘められることすらしなかった令嬢が羞恥で頬を染め、慌てて謝罪をして逃げ帰るくらいには。けれど夫人は、その令嬢にも何もしなかった。隣に座っていた作法に厳しいと有名な伯爵夫人にも「子どものすることだわ」と微笑んだくらいだ。


 公爵夫人と公爵の人望の差は開いたが、それは必然だっただろう。


 片や、自身が横槍を入れてまで手に入れた夫人に殺されると妄想し、外に愛人まで作った若き公爵。片や、恨んでもいい筈の夫に尽くし決して悪く言わず、懸命に子どもを育てている慈悲深い公爵夫人。社交界は静かではあったが、彼らの動向に夢中だった。主に、公爵が次は何をやらかすのだろう、という部分を。


 そして、その時は来た。残念ながらそれは公爵邸の中の出来事であったから、見物人は少なかったけれど。



「もう、もう、耐えられないんだ。貴女を彼から奪ってから、ずっと、ずっと、貴女のことが信じられなかった」

「はい」

「あの子のことだってそうだ。私と同じ目と髪の色をしているが、どうしても、私の子どもだとは思えない。苦しいんだ」

「あら、そうですか」

「私が悪いんだ。始めてしまったのは私だ。けれど、だからこそもう、終わらせたい。貴女に殺される恐怖から、どうか、解放してくれ……っ!」



 公爵家の応接室にて、公爵夫人は楽しげに微笑みながら夫である公爵とその愛人の話を聞いていた。公爵はずっと夫人がいかに恐ろしかったかと語り、その隣で愛人は時折頷きながら彼の手を擦ってやっている。


 応接室には彼らのほかにも家令と数人の使用人がいるが、それらは皆、夫人の後ろと扉付近に控えていた。けれど、公爵はそれに対して何の不信も抱かなかった。この若き公爵は生まれてから常に両親や地位に守られていた人であったので、仕方のないことだった。



「それで、そちらの女性はどうなさるおつもりで?」

「……彼女は、私の子を身籠っている。未亡人である彼女が妊娠すれば、もう、あの家では生きていけない。私は彼女と共に、新しくやり直すんだ」



 愛人が腹を撫で、それを公爵が嬉しそうに見つめる。ここだけを切り取れば絵画のようでもあり、だからこそ公爵夫人は耐えられなかった。



「ふ、ふふふっ」

「何がおかしいんだ……?」

「ほほ、申し訳ございません。作法のなっていない笑い方をしてしまって。でももう、貴方の妻でなくなるのならどうでもいいかしらって」

「……貴女への慰謝料は言い値を支払おう。若気の至りとはいえ、私の行動のせいで貴女の人生が変わってしまったのは事実だ。公爵家が傾かない程度であれば、何でも差し出そう」



 傲慢に、公爵はそう言い切った。それで全てが丸く収まるのだと本気で信じていた。むしろ、多少の不満さえあった。何故恐怖に晒されている自分が、その元凶を追い出すために金を積まねばならないのか、と思っていた。けれど地位ある者として、その程度の慈悲を持つべきだと仕方なく譲歩しているつもりであった。施しは義務であると、自身は未だ施す側であるのだと信じていた。


 そんな公爵を見て、公爵夫人はまた笑った。心を通わせた十年ではなかったが、この十年、隣にいなければならない場面は多かった。だから腹の中を簡単に見せる公爵が何を考えているのか、夫人には手に取るように分かった。その程度には、十年傍にいなければならなかったから。



「貴方は昔からそう。人の話を聞かない。でも駄目ですよ、貴方。今日はわたくしが笑った理由をきちんとお聞きになって。そうでなければ貴方は訳も分からずただ繰り返すだけですから」

「どういう意味だ」

「貴方にあれだけ似ているあの子のことを疑える貴方だもの。きっとすぐにそちらの女性のことも信じられなくなるのです」

「そんなことはない!」

「いいえ、あります。貴方はそういう人です。そして、自身の言葉すら昔のこと、と反故にすることをためらわない人です。ねえ、貴女? 貴女はそういう人を選んだのよ? この人が、もう一度同じことをしないって、どうして信じてしまったの?」



 公爵夫人はひどく優しげに微笑みながら愛人に水を向けた。あまりにも場にそぐわない、本当に柔らかな笑みだった。愛人は一瞬だけ怯んだように肩を震わせたが、その肩を公爵が支えたから、そっと目を伏せてみせた。



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