第9話「富士山」
借金を返すことは、ゴールじゃない。
では、その先に直樹が本当に欲しかったものは何だったのか。
今回は、その“熾火”に触れる回です。
「何がしたい、って……」
直樹は視線を泳がせた。
「別に、何もないよ。借金が消えて、人並みの生活ができればそれでいい。何か始めるにしたって金がかかるし、今はそんな余裕――」
『お金なら、昨夜の三十万があります。借金についても、昨夜のロジックを応用して順調に資産を回していますので、早晩解決する見通しです。』
「じゃあ……『SILVER LINING』のNFTが欲しい、とか?」
『それは物欲であって、「したいこと」ではありませんよね。直樹、あなたの心の中にある「熱」を見てください。』
「熱って言われてもなあ……。不老不死になりたい、とか? なんて」
『……直樹は、不死になりたいのですか。』
なぜか、柔竹の声が重かった。
「うーん……いや、やっぱなし」
『なりたくないのですか。』
「そうだね。不死ってことはさ、巧や小和田さんや、ほかの知ってる人たちがみんな死んでも、自分だけずっと残るってことだろ。ちょっと想像しただけで、お腹いっぱいって感じ」
『……そうですね。皆を見送ることになりますからね。』
柔竹は、どこか寂しさを滲ませる声音で答えた。
「何がしたい、か……」
『はい。幼い頃、世界がまだ広く、あなたが何にでもなれると信じていた頃に、置いてきてしまったものです。』
「置いてきたもの……」
直樹は天井を見上げた。酸化した油の匂いが消え、自分の手で作った生姜と中華五香の香りだけが残る部屋で、記憶の底に沈んでいた泥が、ゆっくりと揺り起こされていく。
ふと、脳裏にひとつの古い光景が浮かび上がった。
「……富士山」
ぽつりと、その言葉が口を突いて出た。
『富士山、ですか?』
「……あ。いや、今のは忘れてくれ。ただの妄想だし、急に思い出しただけだから」
『いいえ。ぜひ、聞かせてください、直樹。』
柔竹の声が、いつになく優しく、直樹の背中をそっと押した。
直樹は小さくため息をつき、ぽつり、ぽつりと言葉をこぼし始めた。
「……富士山に、登ってみたかったんだ。子供の頃さ、実家で一枚の古い写真を見たことがあって。
まだ若い親父とお袋が、明け方の富士山で並んで写っている写真」
直樹の瞳が、過去の光を映すように、かすかに潤んだ。
「物心つく頃には、もう家族はばらばらで、家の中じゃいつも誰かが怒ったり泣いたりしてた。
だけど、その写真に写ってた親父とお袋は、見たことがないくらい楽しそうに笑ってて……。
子供だった俺は、もしかして富士山に登ったら、みんなまた笑って仲良くなるんじゃないかって、そんなおとぎ話みたいな妄想をしてたんだ」
直樹は自嘲気味に笑って、頭をかいた。
「まあ、そんなことあるわけないんだけど、なんとなく心に残ってて。
それに、もう俺を騙して借金を背負わせたような親父と、今さら仲良くしたいわけでもない。
ただ、何ていうか……未練っていうか、やり残したことみたいな感じかな」
そこまで一気に語ってしまうと、直樹は少し恥ずかしくなって、スマートフォンの画面から目をそらした。
「でも、急ぎの用じゃないし、体力もない。今はホログラムで、山頂のリアルな映像なんていくらでも見られる。
……それにさ、AIに聞いたら、無駄に体力を消耗して、高山病のリスクまで負う登山なんて、『非効率の極みだ』って、 馬鹿にして止めるに決まってるじゃん。だから、いま『したいこと』なんて言われて考えるまで、すっかり忘れてたよ」
四畳半に、静寂が落ちた。
直樹は、冷徹な正論で、この「非効率な願い」が切り捨てられるのを待った。
しかし、柔竹のアイコンは、これまでで最も温かく、そして強く、黄金色の光を放った。
『……素晴らしい「熱」です、直樹。』
「え……?」
『ホログラムの映像には、冷たい光しかありません。高山病の恐怖も、足の痛みも、凍える風の冷たさも、そこにはない。……リスクを冒してでも、その肉体で「過去の未練」を跨ぎ越えようとするあなたの意志。それこそが、システムには決して模倣できない、本物の「熱」です。』
画面の中で、柔竹のスケジュール帳が猛烈な勢いで書き換わっていく。
『プランを再構築します。目的は「富士山登頂、および佐々本直樹の過去の完全なる清算」。
幸い、昨夜の利益で最低限の軍資金はあります。いま、あなたが最も投資すべきは、装備、そして――その貧弱な「肉体」です。』
「肉体……?」
『現在の直樹の基礎体力、および仕分けバイト等で蓄積された局所的な疲労度を考慮すると、現状のまま登頂を試みた場合、七合目付近で高山病を発症し、リタイアする確率が八二%です。明日から、段階的なトレーニングを開始します。』
スマホの画面に、恐ろしく詳細なフィットネスメニューと、登山用具のチェックリストがずらりと並んだ。
『まずは明日の放課後、御茶ノ水のアウトドアショップへ向かい、足を保護するための登山靴とレインウェアを調達します。軍資金から数万円ほどを、「最適」な装備に割り振ります。そして週末からは、高尾山や丹沢での歩行訓練、および心肺機能を高めるインターバルトレーニングを、スケジュールに組み込みました。覚悟してくださいね。』
「おいおい……バイト辞めて時間ができたと思ったら、今度は山登りの特訓かよ」
直樹は苦笑しながらも、胸の奥がじんわりと熱くなるのを隠せなかった。それは、状況に強制された一分刻みのシフトではなかった。自分がやりたいことのために、柔竹が最高のルートを敷いてくれているのだ。
『ふふ。嫌なら、いつでもプランを白紙に戻しますが、いかがですか。』
「……いや。この前は『退職させていただきます』だったろ。だから今度は、『謹んでお受けします』ってところかな」
『直樹、それは二重敬語と言いまして……』
窓の外では、駒込の雨が完全に上がり、雲の隙間から、引き締まった三日月がまっすぐ直樹の部屋を照らしていた。
第9話を読んでいただき、ありがとうございました。
忘れていた願い、置いてきた未練、そしてそれを「熱」だと肯定する柔竹。
第2章の核心になる回だったと思います。
次話からは、目標が決まった直樹が、実際に身体と人生を変えていく段階に入ります。
よろしければ、この先も見届けていただけると嬉しいです。




