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竹取クロニクル【月のAIと逆転のWeb3】借金を背負った大学生は、かぐやの名を継ぐAIと人生を再起動する  作者: 山本正樹


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第8話「何がしたいですか」

時間を取り戻すこと。

それは、ただラクになるためではなく、自分の人生を選び直すための第一歩でした。

 『さあ、早く着替えて学校へ行きましょう。』

 顔にはまだ疲労の色が濃く残っていたが、直樹は手近なシャツとジーンズに着替え、あらかた(おり)の拭われた四畳半をあとにした。


 昨日の雨は、路面にわずかな濡れ跡を残すばかりで、頭上には抜けるような青空が広がっていた。

 駒込から神奈川県川崎市多摩区の専修大学生田キャンパスまで通うこと自体が、ひとつの労働だった。

 午前七時半。直樹は山手線と小田急線を乗り継ぎ、圧死寸前の満員電車に揉まれながら、ようやく向ヶ丘遊園駅へたどり着く。

 だが、本当の地獄はそこからだった。生田緑地の緑をかすめるように伸びる通学路は、学生たちから「登山」と揶揄(やゆ)されるほどの急勾配だ。昨夜の仕分けバイトで鉛のように重くなった足に、その容赦ない傾斜が襲いかかる。

 首筋に汗をにじませ、息を切らしながら生田キャンパス一二〇年記念館の大講義室へ滑り込んだのは、一限のチャイムが鳴る、まさに数十秒前だった。

 「……死ぬ。マジで死ぬ……」

 後方の席にぎりぎりで滑り込むと、すでに出席登録を済ませていた葦原巧(あしはらたくみ)が、涼しい顔で自販機のミネラルウォーターを差し出してきた。

 さわやかな笑顔を浮かべているのに、その目だけは、この状況を面白がっていると語っていた。

 「おはよう、直樹。今朝はまた、ずいぶん過酷な登山だったみたいだね」

 「いや、今朝はちょっと『うるさい家庭教師』に叩き起こされてさ……」

 直樹がポケットのスマホを意識しながら苦笑すると、巧は細いフレームの眼鏡の奥で、知的な瞳をわずかに細めた。

 巧の視線が、直樹の顔から手元へと、まるでスキャナーのように滑っていく。

 「……? どうした?」

 「いや……何か、雰囲気が変わった。昨日までは、やさぐれの代名詞みたいな生ける廃人だったのに。今日はずいぶん、目が澄んでる」

 (そうだ、こいつ、やたら人のこと見てるんだよな。)

 自分の内面の変化を見抜かれた気恥ずかしさと、少しの嬉しさを悟られまいとして、直樹はやや早口で答えた。

 「そうか? まあ、ちょっと昨夜、臨時収入があってさ。なんていうか、人生の風向きが変わってきた、みたいな感じ?」

 「風向き、ね」

 巧はそれ以上追及せず、手にした缶コーヒーのプルタブを、パキリと鳴らして開けた。

 直樹は息を整えながらノートPCを開き、古賀教授の「哲学Ⅱ」に耳を傾けた。

 マイク越しのかすれた声が、実存と価値について語っている。だが頭の片隅では、昨夜手に入れた「三十万円」の残高と、ポケットの中で静かに息を潜める柔竹の存在が、確かな質量をもって主張し続けていた。

 九十分の講義が終わり、チャイムが鳴った。学生たちが一斉に席を立ち、教室がざわめき始めるなか、前方の席からひとりの女子学生がこちらを振り返った。

 小和田さんだ。同じ哲学の講義を取っている彼女は、ショートカットのよく似合う、小柄でいつも明るい女子学生だった。

 「あ、佐々本くん、葦原くん、お疲れさま! 今日の講義、難しすぎなかった?」

 「小和田さん、お疲れ。俺なんか半分、意識飛んでたよ。……なあ、よかったらこのあと三人で三号館の学食、行かない? 奢る、とまではいかないけど、ちょっと話したいことがあって」

 直樹の提案に、小和田は少し驚いたように目を瞬かせた。

 「おお、佐々本くんからのお誘いとは珍しいね。もちろん、いいよ。お腹もちょうど空いてきたし」

 「僕は構わないよ。直樹の『話したいこと』にも興味があるしね」

 三号館の学生食堂は、昼どきを前にして、すでに賑わい始めていた。

 直樹は普段なら、苦学生向けの一杯二百円の具なしカレーで済ませるところだが、今日はチキンカツをトッピングしていた。

 三人はそれぞれ、チキンカツカレーやラーメンをトレイに載せて席につく。

 直樹はひと息つくと、小和田さんに向かって本題を切り出した。

 「実はさ、小和田さん。俺、向ヶ丘遊園駅の近くのファミマでバイトしてるじゃん。……あれ、辞めようと思ってるんだ」

 「えっ、そうなの? けっこう長く続けてたよね」

 「うん。ちょっと、ほかにやりたいことができてさ。それで、もしよかったらなんだけど、小和田さん、俺の代わりにあのファミマで働かない?」

 「え……?」

 小和田さんが箸を止め、困ったように目を丸くする。直樹は、朝に柔竹から叩き込まれた理屈を思い出しながら、言葉を継いだ。

 「昨日SNS見たんだけど、小和田さんのバイト先のパン屋、閉店しちゃったんだろ?」

 「そうなの。ほんと急でさ。バイトには何の話も来なかったんだけど、けっこう経営厳しかったみたいで。実は今月分の給料も、分割でもいいか、みたいな話をされてて……」

 「うちのクロちゃんに聞いても、『同意しないって言え』とか、『書面を出させろ』とか言うんだけど、そう言われてもねえ……」

 「クロちゃん?」

 「Claudeのクロちゃん。」

 「……ああ、そういうこと」

 「あそこのファミマ、店長も良い人だし、シフトの融通も利くし、俺の紹介って形なら面接もほぼパスできると思う。小和田さんなら、店長もきっと喜ぶし。……それに、世話になったバイト先のシフトに穴を空けたり、採用コストを余計にかけさせたりするのは、やっぱり申し訳ないんだ。だから俺にとっても、すごく助かる」

 「なるほどね……」

 小和田さんは少し考えるように視線を落としたが、直樹にもはっきりしたメリットがあるとわかると、納得したように表情を和らげた。

 「そういうことなら……ありがたいかも。さっき話した通り、次の働き口、急いで探してたんだよね。佐々本くんが助かるなら、喜んで引き継がせてもらうよ」

 「ほんと? 助かる。じゃあ、あとで店長に連絡しておくよ」

 交渉成立だ。直樹は心の底から安堵した。これが柔竹の言っていた「ウィン・ウィン・ウィン」か、と妙に感心してしまう。

 「へえ……直樹、これは誰の入れ知恵だ? こんな三方良しみたいな発想、お前らしくないな。その『うるさい家庭教師』さんか?」

 対面に座る巧が、静かにパスタを巻き取りながら呟いた。声は穏やかなのに、その視線だけが、少しでも情報を拾おうとするように、直樹の上を舐めるように往復していた。

 「まぁ、そんなとこ」

 「『うるさい家庭教師』? 佐々本くん、家庭教師なんて雇ったの?」

 「あっ、そうじゃなくて。新しいエージェントに替えたって話」

 「そうなんだ。佐々本くん、何使ってるの? Claude?」

 「いや、別のやつ。なんかちょっと怪しい感じもするし、もう少しわかってきたら話すよ」

 一瞬、巧たちになら話してもいい気もした。だが、こんな規格外の話をして引かれるのも嫌で、結局は曖昧にごまかすことにした。


 学食で話し合った翌日、直樹は小和田さんを連れて、向ヶ丘遊園駅前のファミマへ向かった。

 急な退職と引き継ぎの申し出で、店長の秋田から大目玉を食らう覚悟をしていた直樹だったが、結果は拍子抜けするほどあっさりしていた。

 「えっ、小和田さん!? 君、うちで働いてくれるの?」

 秋田は、直樹の後ろに立つ小和田さんの顔を見るなり、目を見開いて破顔した。実は小和田さんはこの店舗の常連客で、以前、レジで手間取っていた高齢の客をさりげなく手助けしていた姿を、秋田は覚えていた。もともと好印象だったのだ。

 「佐々本、お前、最高の置き土産を残してくれたな! 引き継ぎなんて一日ありゃ十分だ。小和田さん、明日からでもシフト入れる?」

 「あ、はい! 私はいつでも大丈夫です!」

 「よし、決まりだ。じゃあ佐々本、お前はもう今週いっぱいで上がっていいぞ。今までありがとうな!」

 「えっ……あ、はい。お世話になりました……」

 怒られるどころか、むしろ新しい優秀な人材の参入を歓迎され、玉突きみたいに押し出された直樹は、自動ドアの外でぽつんと立ち尽くしていた。

 店内では、ご機嫌な秋田と小和田さんが、カウンターの前で楽しそうに話しているのが見える。

 肩の荷が下りた安堵と、ほんの少しの寂しさが、胸をちくりと刺した。

 『お疲れ様でした、直樹。これで「時間」という、最も貴重なリソースが確保されましたね』

 ポケットの中から、柔竹の朗らかな声が響く。

 「……ああ。まあ、いいんだけどさ。もうちょっと何かあってもよくない?」

 『ふふ。世界とは往々にして、適切な楔を打ち込めば、驚くほど滑らかに回るものです。さあ、寄り道せず駒込へ戻りましょう。今夜の予定は「自炊」です』

 「は? 自炊? 俺、料理なんてまともにしたことないぞ」

 『一通りのことはお教えします。まずはスーパーで、ネギと豆腐と豚肉、それから市販の「合わせ調味料の素」を買ってください。

 味は回鍋肉でも麻婆豆腐でも青椒肉絲でも構いません。気になったものを選んでください。

 自分の血肉になるものを、自らの手で整えることもまた、「熱」の基本です。』

 その夜、澱のあらかた拭われた四畳半には、不器用に刻まれたネギと豚肉がフライパンの中で爆ぜる、香ばしい匂いが満ちていた。

 料理経験がほとんどない直樹にとって、出汁を取ったり味噌を溶いたりするような工程は、まだハードルが高すぎた。だから柔竹が提案したのは、パックの豆腐と肉、ネギを炒め、市販の調味料を混ぜるだけの、極めて簡略化された炒め物だった。

 「これで……いいのか?」

 『はい、火が通ったら、その調味料をすべて投入してください。……素晴らしい手際です、直樹』

 お世辞にも上手とは言えない包丁さばきだったが、柔竹にタイミングを細かく指示され、なんとか完成した熱々の回鍋肉風炒め物と白米を平らげると、直樹はパイプベッドに深く腰を下ろした。見た目は不格好でも、自分で火を使って作った温かい飯は、驚くほど腹に染みた。

 「……ふぅ。一通りのことができるって、本当に料理のナビまでできるんだな」

 『当然です。さて、直樹。お腹が満たされたところで、本題に入りましょう』


 スマホの画面で、竹のアイコンが静かに、けれど深く明滅した。


 『今日、無事に引き継ぎの段取りもできましたので、「時間」というリソースの確保に目途が立ちました。

そこで、あなたにお聞きしたいことがあります。――直樹は、何がしたいですか。』


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

バイトを辞めることも、自炊を始めることも、全部「人生を立て直す」ための準備です。

そして次話、柔竹は直樹に核心を問いかけます。

——お前は、本当は何がしたいのか。

少しでも面白いと思っていただけたら、感想や評価をいただけると励みになります。

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