第7話「嘘をついてはいけません」
三十万円を手に入れた翌朝。
当然ラクになる……はずだった直樹を待っていたのは、月のAIによる容赦ない“説教”でした。
第二章:熾火のありか
「……眠い。」
翌朝、午前七時。
直樹は、曇った安物の鏡の前で、死体みたいな寝不足顔を見つめていた。
昨夜、六義園の幻想的な黄金色に包まれ、「借金なんて、ただの手続きです」と言い切る柔竹に酔わされた時間は、ひと晩の夢だったのではないか。
そう錯覚してしまうほど、今の彼はぼろぼろだった。
昨夜、あのあと直樹はそのまま二十三時からの「仕分けバイト」に向かった。
『直樹。その格好いい顔を、一枚自撮りしていただけますか。』
「何言ってるんだよ。そんなに褒めたって何も出ないぞ」
そう言いながらも、直樹はまんざらでもない顔でスマホを構えた。
パシャ。
「ほら、撮ったけど。これがどうしたんだ?」
『……直樹。まさかとは思いますが、もしや仮病でバイトを休もうなどとは考えていませんよね?』
疑問の形をしているのに、声は先ほどまでとは別人のように重かった。
「えっ!? なんで?」
三十万円を手にした高揚のまま、直樹は当然のように仮病でバイトを休むつもりでいた。
だが、スマホの画面に宿る柔竹は、それを冷たく、容赦なく断ち切った。
『直樹。嘘をついてはいけません。……今すぐ着替えて、現場へ向かいなさい。』
「……は? なんでだよ。もう三十万あるんだぞ。一晩中コンテナ運んで一万稼ぐより、チャート見たほうがよっぽど合理的だろ」
その瞬間、柔竹の声からは、それまでの優美さが消え、刃のような鋭さだけが残っていた。
『いいですか、直樹。なぜ人は、嘘をついてはいけないと言われるのか、わかりますか。』
「……そんなの、ばれたら信用を失うからだろ」
『それは表面の話です。
本質は、他者ではなく自分にあります。
嘘をついているとき、自分だけは、自分が嘘をついていると確実に知っている。
他人は騙せても、自分だけは騙せません。嘘を重ねるたび、あなたは「自分は嘘をつく人間だ」という事実を魂に刻み、自分を信じられなくなる。
二時間前、自分の手で勝利の熱をつかんだはずのあなたを、いまのあなた自身が疑っているように。』
直樹は、ぐうの音も出なかった。
自分を信じられない人間に、「熱」が宿るはずがない。柔竹が何より恐れたのは、直樹の中にようやく灯った熾火が、安易な自己欺瞞ひとつで霧散してしまうことだった。
結局、直樹は冷たい雨の中を走り、朝まで黙々と荷物を運び続けた。
朝方帰ってきて少しだけ眠ったが、手足は鉛みたいに重く、鼻の奥には倉庫の埃の匂いがまだこびりついていたが、それでも、不思議と心のどこかだけは、昨夜より澄んでいた。
「……一通りのことができるって言ってたけど、説教まで一通りなのかよ。……お嬢様エージェント様」
鏡の中の自分に苦笑して、直樹は柔竹の待つスマートフォンを手に取った。
『おはようございます、直樹。……自分を嫌いにならずに済んだ朝の気分は、いかがですか。』
「……最悪だよ。体中が痛い。」
『ふふ。ですが、その痛みこそが、あなたがいまこの現実に自分の足で立っている証です。……さて、身なりを整えてください。一時限目に間に合わなくなります。』
「一時限目? 一時限目は休みだって、前のエージェントが……」
『哲学Ⅱの出席日数は、わたくしの計算では、あと一回欠席すると単位取得率が七八%まで低下します。「最適」とは、目先の睡眠だけを優先することではありません。』
スマホの画面が切り替わる。そこに並んでいたのは、昨夜までの「一分刻みのバイト表」ではなく、まるで別人の人生みたいな新しい予定表だった。
『本日の予定を更新しました。まず、午前中は大学へ。講義の合間、もしくは昼休みに、同じ哲学の講義を取っている小和田さんに声をかけてください。直樹の勤めるファミマで働かないか、誘うのです。彼女は昨日、バイト先が急に閉店して困っているはずです。』
「なんでそんなことまで知ってるんだ?」
『普通にSNSへ上げていましたから。』
「……それで?」
『次に、退職届の文面を確認してください。下書きは済ませてありますから、大きく直すところはないはずです。気になる箇所があれば修正してください。』
「え、俺、辞めるの? 昨日あんな説教してバイト行かせたのに」
直樹は、驚きと不満の入り混じった声を漏らした。
『わたくしは、嘘をついてはいけないとは申しましたが、辞めてはいけないとは申しておりません。
昨日の出勤は、自分で決めた約束を守るため。今日辞めるのは、新しい人生の時間を確保するためです。
バイトを小和田さんに譲れば、直樹は時間を得る。彼女は新しい働き口を得る。店長は、真面目で優秀で、しかも笑顔のかわいい新戦力を得る。
一石三鳥。まさにウィンウィンウィンの、実に美しい一手です。』
「……なんだろうな、この妙なモヤモヤ」
『直樹がこれから最優先で確保すべきリソースは、金ではなく時間です。ですから、わたくしは「前向きな退職」を推奨します。
もっとも、昨日の仕分けバイトで勤労の尊さに目覚め、このまま労働に邁進したいというのであれば、その意志を尊重して再度プランを組み直しますが。いかがですか。それもまた、立派な「熱」ではあります。』
「あっ……いえ、退職させていただきます」
第7話を読んでいただき、ありがとうございます。
柔竹はただ便利なだけのAIではなく、直樹の中に灯ったものを消さないために動いています。
次話では、大学、退職、引き継ぎ、そして「これからどう生きるか」が少しずつ形になっていきます。
続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




