第6話「本物の光」
三千円が三十万円になる夜。
けれど柔竹が直樹に見せたかったのは、ただの金ではありませんでした。
『さて、直樹。……ではまず、あなたのメタマスクへの接続を許可していただけますか』
「メタマスク? ああ、前に作ったウォレットか。ポイ活でもらった暗号資産がちょっと入ってるくらいだけど、そんなのでいいのか?」
『はい、構いません』
「了解。……今、認証したからアクセスできると思うけど」
『ありがとうございます。アクセスを確認しました。……直樹らしい、ささやかな残高も確認できました』
「言い方!」
『日本円に換算すると、3,012円相当ですね。それでは、これよりオペレーション3012を開始します。準備はよろしいですか?』
「オペレーション3012って……、いじられまくってるな。もういいよ。好きに始めてくれ」
直樹が投げやりに、けれどどこか期待も滲ませてそう告げると、スマホの中の竹のアイコンが、満足そうに一度明滅した。
『承知いたしました。これより、オペレーション3012を開始します』
スマホの画面に映し出されたのは、乱雑な曲線を描くチャートと、猛烈な勢いで流れていくログだった。
暗号資産のミームコイン発行プラットフォーム、『pump.fun』。
「……ミームコインって、九割九分、詐欺かゴミになるだけの博打だろ」
『はい。人間が「論理」で挑めば、そうなります。ですが――』
柔竹の声が、不敵に響いた。
『この世界に渦巻いているのは、数字ではありません。人々の「欲望」と「退屈」、そして「一瞬の熱狂」……。それらはすべて、わたくしにとって解析可能な「雅」な揺らぎにすぎません』
画面の中で、柔竹は恐るべき速度で操作を開始した。
十、二十……。同時に開かれた無数のチャートを、柔竹は一秒に数百回という勢いでスキャンしていく。
『犬、猫、カエル……。人々の飽きっぽい欲望は、今ちょうど「カエル」に集まり始めています。……入ります』
三千円が、名もないコインを数秒保有しただけで四千円に変わる。利確と同時に、次は「宇宙」、さらに次は「雨」をテーマにしたトークンへと移っていく。
柔竹はSNSのトレンドと、大口投資家のわずかな指先の動きまで先回りし、波が生まれる直前に乗り、崩れる直前に降りていく。
「……えっ、三万円? 数字がバグったみたいに増えていくぞ」
『まだ「風」を読んでいる段階です。……おや、面白いものを見つけました』
柔竹は、ある一つのコインを画面の中央に映し出した。
【$HOTA】
一度は熱狂が去り、価値が地に落ちた、忘れ去られたプロジェクトのコインだった。
『多くの者はこれを「終わった過去」として捨て置きました。ですが、このコインの裏側には、まだ誰にも気づかれていない「熱」が眠っています』
増え続けていた三万円が、一気に$HOTAへと注ぎ込まれる。
直後、死んでいたはずのチャートが、見えない意志でも宿ったみたいに脈打ち、力強く上向きに弧を描いた。
「……五倍、八倍……さっきの利益と合わせて、もう八十倍を超えてるぞ! さっきまで誰も見てなかったコインなのに……!」
『埋もれていた価値を、少しだけ世に知らしめただけです。……ここです』
チャートが頂点に達し、わずかに震えた、その瞬間。柔竹は一点の迷いもなく、保有していたコインをすべて売却した。
静けさを取り戻した画面に、最終的な残高が表示された。
【Wallet Balance:302,400 JPY相当】
「……三十万……。一瞬で、百倍……?」
『お疲れ様でした、直樹。オペレーション3012としては少々上振れしてしまいましたが誤差の範疇でしょう』
直樹はまだ事態の推移にまるで追いつけず、放心したまま残高を見つめていた。
『さて、直樹。』
「……あ? え? 何?」
『前任のエージェントが丹精込めて作成した【明日の最適スケジュール】ですが、削除してしまってもよろしいですか?』
「……はい。お願いします」
『よろしい。さて、今夜の「贅沢」の資金分はJPYに替え、チャージも済ませました。……さあ、着替えてください。お出かけの時間ですよ』
「贅沢? どこに行くんだよ。こんな雨の中」
『決まっているではありませんか。……あなたが先ほど見つめていた、あの光の場所です』
雨の駒込。
直樹は、数か月ぶりにクローゼットの奥から「マシな服」を引っ張り出し、四畳半をあとにした。
向かったのは、歩いてすぐの場所にある文京区本駒込――六義園。
冷たい雨を切り裂くように、黄金色のライトアップが夜の庭園を幻想的に浮かび上がらせていた。
直樹は、少し濡れた肩を震わせながら、黄金の光に目を細めた。
普段なら、「入場料を払うくらいなら食費に回す」と素通りしていた門を、直樹は柔竹に促されるまま、くぐり抜けた。
雨に濡れた枝垂れ桜が光を浴び、デジタルの極彩色よりも鮮やかに輝いていた。
「……綺麗だな」
直樹の口から、自然に独り言が漏れた。
スマホの中の柔竹は、静かに、けれどどこか嬉しそうに答えた。
『はい。今この瞬間の、本物の光です。……直樹。三百万の借金を返すことは、目的ではありません。それは、あなたがこの「美しさ」を、誰に気兼ねすることなく享受できる自分を取り戻すための、単なる手続きにすぎません』
黄金色に輝く庭園の中で、直樹は初めて、自分の肺の奥まで空気が入っていくのを感じた。
三千円から始まった、この奇妙な夜。
「……柔竹。お前、本当にすごいんだな」
『ふふ。言ったでしょう? 「一通りのこと」はできると。……さて、次は「土下座」の代わりに、この素晴らしい夜景の写真を撮って、わたくしに見せていただけますか?』
直樹は照れくさそうに笑いながら、スマホのカメラを向けた。
雨粒の向こう、輝く桜の向こうに、これまで見たこともないほどの速さで「加速」していく自分の人生が、確かに透けて見えた。
第一章「駒込の停滞」まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
借金を返すことはゴールじゃない。
直樹が取り戻すべきなのは、自分の人生そのものです。
そしてここから、柔竹とともにその“加速”が本格的に始まっていきます。
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