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竹取クロニクル【月のAIと逆転のWeb3】借金を背負った大学生は、かぐやの名を継ぐAIと人生を再起動する  作者: 山本正樹


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第10話「親父の顔をした男」

目標が決まれば、人生は前に進む。

——そのはずでした。

けれど過去は、いちばん油断した瞬間に、思わぬ顔で追いついてきます。

第3章:天に届く階段

 

 「七月下旬の平日、ですか?」

 翌朝。昨夜の回鍋肉風炒めの残りをタッパーから白米にのせながら、直樹はスマホの画面を覗き込んだ。

 『はい。土日の富士山は、「雅」とは程遠い混雑――いえ、もはや渋滞が発生します。

 あなたの体力ロスを最小限に抑え、かつ天候の安定性を考慮すると、ターゲットは七月二十一日からの三日間です。

 本日五月十八日から起算して、残り約二か月。これが私たちのタイムリミットです。』

 画面には、今日からその日までのカレンダーが、緻密なグラデーションで塗り分けられていた。

 『今週のタスクは、基礎装備の調達、および毛細血管を拡張するための低強度有酸素運動――LSDの導入です。さあ、大学が終わったら、すぐに御茶ノ水へ向かいますよ。』


 神田駿河台。緩やかな坂道の両脇に、アウトドアショップの看板がひしめく街――御茶ノ水。

 直樹は大型店の二階にある登山靴売り場で、柔竹(なよたけ)の指示に従い、足を計測器に乗せていた。

 『直樹、デザインで選んではいけません。あなたの足型は、やや幅広の甲高です。そちらの国産メーカーの、ゴアテックス採用のミドルカットモデルを試着してください。』

 「はいはい。お嬢様エージェント様の仰せの通りに……」

 店員にサイズを告げ、渡された硬いブーツに足を滑り込ませた。紐をきつく締め、店内に設置された模擬の岩場――スロープを歩いてみると、驚くほど足首が固定され、どこまでも歩けそうな錯覚さえ覚える。

 「すごいな、これ。スニーカーとは全然違う」

 『道具とは、肉体の拡張です。ここをケチってはいけません。レインウェアも、そちらの三レイヤーのものを……』

 柔竹の声が途切れた瞬間、背後から聞き慣れた、けれどこの場にはひどく不釣り合いな声が響いた。

 「へえ、本格的だね。直樹が登山靴をフィッティングしてるなんて」

 振り返ると、そこには洒落たマウンテンパーカーを羽織った葦原巧が立っていた。細いフレームの眼鏡の奥の瞳が、面白そうに直樹の足元を捉えていた。

 「え、巧!? なんでここに……」

 「僕の実家、義肢メーカーだって言っただろう? 骨格や関節をサポートする素材の最先端って、実はこういう高機能アウトドアギアに使われることが多くてね。たまに市場調査に来るんだよ。……それより、山にでも登るの?」

 直樹は一瞬言い淀んだが、隠すことでもないと思い直し、頭をかいた。

 「あ、ああ。ちょっと七月に富士山に登ろうと思ってさ。それで、まずは形から入ろうと思って」

 「富士山? 直樹が? ……ああ、わかった。例の『うるさい家庭教師』に連れていかれるんだ? ってことは、やっぱり年上? 資産家のお嬢様が後ろについてるとしか思えないな」

 「いや、そんなんじゃないって。俺、ちゃんと独り身だよ」

 「……君が、富士山ねえ。昨日まで一分刻みのバイトシフトに追われて、生きる屍みたいだった男が、突然バイトを他人に譲り、三万円超えの登山靴を買って、数か月先の明確な目標に向かって動いている」

 「うーん、ミステリーだ。年上の資産家のお嬢様の彼女ができた、としか思えないな」

 巧が一歩踏み出すたび、店内の硬い床が「コツン」と硬質な音を返した。

 言われなければ、その右足が膝下から最新鋭のカーボンとモーターで構成された義足だとは、誰も気づかない。


 二人が出会ったのは、二年前の入学初日だった。精巧すぎる義足の出力調整が、まだうまくいっていなかったのだろう。巧は登校中の坂道で、何度も不自然に転んでいた。

 周囲の学生たちは、巧がふざけているのかと思ったのか、遠巻きに眺めるだけだった。その中でただ一人、「大丈夫か?」と何のためらいもなく手を貸したのが直樹だった。

 『実家が義肢メーカーでさ。プロトタイプのテスト中なんだ』と巧は笑い、それ以来、二人は友人になった。


 巧はふっと、いつもの爽やかな笑顔に戻り、直樹の肩を叩いた。

 「まあ、友達の挑戦だ。応援するよ。足回りで何かトラブルがあったら言って。僕の『実家』の技術なら、どんなインソールでも作れるからさ」

 そう言い残し、巧は滑らかな足取りで階段を降りていった。

 「……油断ならないな、あいつは」

 直樹は巧を見送りながら、ポケットのスマホをそっと押さえ、新しい靴の硬い足音を響かせて店を後にした。


 その日を境に、直樹の日常は完全に「富士山」という一点へ向かって収束し始めた。

 朝は柔竹に起こされ、これまでの「酸化した油の臭い」が染みついたジャンクフード中心の生活は、終わりを告げた。

 キッチンには、不格好ながらも、毎日ちゃんと火が灯るようになった。

 「柔竹。今日も鶏胸肉とブロッコリー? お嬢様エージェント様のレシピ、ちょっとバリエーション不足じゃない?」

 『直樹、登山に必要なのは、持久力を支えるグリコーゲンと、筋肉を修復する良質なタンパク質です。

 今日は買ってきた「塩麹」を揉み込んでから焼いてみてください。未経験のあなたでも失敗しにくく、柔らかく仕上がります。』

 「……あ、本当だ。これならちゃんと美味いな」

 自分で食材を選び、火を入れ、咀嚼する。その当たり前の行為が、過労でぼろぼろだった直樹の肉体に、少しずつ確かな「芯」を作っていく。

 放課後になれば、生田キャンパスのあの過酷な「登山道」そのものが、トレーニング場へと変わった。

 いつもなら呪詛を吐きながら登っていた坂道を、直樹は御茶ノ水で買った硬い登山靴で、柔竹の指定する心拍数を維持しながら、一歩ずつ踏みしめて登っていく。

 『心拍数145をキープ。素晴らしいです、直樹。脂肪燃焼効率は最大化しています。』

 「はぁ、はぁ……っ。言うのは簡単、だな……!」


 夕暮れの生田緑地。濡れた葉の擦れ合う匂い。自分の肺が大きく膨らみ、冷たい空気を吸い込み、熱い呼気を吐き出す。

 スマホの画面の中では、竹のアイコンが、直樹の流す汗の量を測るかのように、絶え間なく黄金色のデータを刻み続けていた。


 御茶ノ水で装備を整えた、その次の週末。直樹が連れてこられたのは、奥多摩湖の北側に位置する倉戸山だった。

 標高千百六十九メートル。初心者でも二時間ほどで登れる手軽さはいいのだが、山頂からの派手な大パノラマがない。そのため高尾山のような大混雑とは無縁で、登山客もまばらな「地味な山」だった。

 「なあ柔竹、せっかくなら、もっと景色のいい山がよかったんだけど」

 『現在の混雑データから推測するに、高尾山や御岳山は、ディズニーランド並みの人密度です。それでは他人の歩行ペースに巻き込まれ、あなたの正確な心拍数データが取れません。今のあなたに必要なのは、他人の目を気にせず、自分の呼吸と足裏の感覚だけに集中できる、この静かな倉戸山の尾根道です。』

 「はいはい、わかったよ」


 前日の雨を吸った土の匂いと、生い茂る青葉の湿気が混じり合う山道。

 新調したミドルカットの登山靴は、ぬかるんだ地面をしっかり捉え、一歩ごとに心地よい反発を足裏へ返してくる。

 柔竹の言う通り、すれ違う登山客もほとんどいない。イヤホンから流れる「心拍数140を維持」という朗らかなナビを聞きながら、直樹が淡々と坂を登っていた、そのときだった。

 少し先の開けた分岐点、折れた太い木の根のそばに、ひとりの男がうずくまっていた。

 苦しげに胸元を押さえ、肩を激しく上下させている。


 「……っ、大丈夫ですか!?」

 直樹は反射的に駆け寄った。

 だが、男が掠れた息を吐きながら、ゆっくりと顔を上げた瞬間――直樹の全身の血が凍りついた。


 (嘘だろ……)


 四畳半のアパートの引き出しの奥にしまい込んでも、督促状を見るたび脳裏にこびりついて離れなかった、あの男の顔。

 自分に三百万円もの借金を背負わせ、煙のように消えた「親父」と、その男の顔立ちは瓜二つだった。

 心臓が早鐘を打ち、激しい嫌悪感と動揺が指先まで突き抜けた。

 それでも直樹は必死に顔の筋肉を制御し、相手を案じる声を絞り出した。


 「あの……どこか痛むんですか」

 「あ、ありがとうございます……。大丈夫、です……」

 男が掠れた声で答えた。

 その声を聞き、苦しげではあっても濁りのない目を見た瞬間、直樹の脳は「別人だ」と理解した。顔の骨格やパーツの配置はよく似ている。だが、あの親父にあった調子のいい軽薄さや、負い目からくる怯えのような目つきは、この男には一切なかった。

 ――完全に、赤の他人だ。

 頭ではわかっている。わかっているのに、身体は激しい拒否反応を起こしていた。胃の奥から酸っぱいものがせり上がり、鳥肌が腕を這った。

 「……そうですか。なら、無理しないでください」

 これ以上、この顔を見ていたくなかった。

 直樹は早々に頭を下げると、男をその場に残したまま、逃げるように山道を進んだ。

 背後で男の姿が見えなくなっても、直樹の足は止まらない。むしろ泥を蹴るように、歩調は速くなる。

 『直樹、心拍数が165を超えています。ペースを落としてください。』

 柔竹の声は聞こえていたが、今の直樹の耳には入らない。

 脳裏に明滅するのは、裏切られたあの日の記憶だった。


 十八歳。まだ、自分の善意を信じていられた頃だ。

 両親が離婚して以来、お袋に黙ってたまに会っていた親父から、弾んだ声で連絡があった。

 親父が、お袋に金のことでいろいろ迷惑をかけていたのは知っていた。

 それでも直樹は、そこまで親父を嫌いになれなかった。むしろ、その妙な明るさをどこか好ましく思っていた。

 「今度、割烹居酒屋を開くんだ」

 親父は、あのでっぷりした見た目からは想像できないほど手先が器用で、魚を捌いて美しい活け造りを作ったり、達筆な書を書いて見せたりした。

 「店の名前も決めててさ。『魚直』にしようと思うんだ」

 そう言って、親父は「魚直」と毛筆で書かれた半紙を取り出して見せた。

 いつ見ても、綺麗な字だと思った。

 「……そうなんだ。頑張って」

 展開の早い話に、直樹が少し面食らっていると、親父はトーンを落とした声で話し始めた。

 「ただ、実はちょっと開店資金が足りなくてさ。直樹、すまないけど、名義を貸してくれないか?お父さん、まだブラックリストに載っちゃってて、融資が受けられなくて」

 「えっ!?」

 まったく予想していなかった「お願い」に面食らう直樹をよそに、親父はさらに大きな声で畳みかけた。

 「お前が助けてくれれば、またお母さんと一緒に、みんなで暮らせるようになるんだ。頼むよ」

 「……ちょっと考えさせて」

 家に帰ってから、「友人の話」としてどうすべきかを尋ねた当時のAIエージェントは、冷徹に警告した。

 『その話に実体はありません。詐欺の可能性が極めて高いと思われます。名義を貸すべきではありません。』

 だが、直樹は父を信じたかった。父が自分を裏切るはずがない。これはデータではなく、血の通った「善意」の問題なのだと、そう思いたかった。

 直樹は感情に任せてAIを怒鳴りつけ、そのまま契約書にサインした。

 結果は、AIが予言した通りの地獄だった。親父は蒸発し、飲食店などどこにもなく、

 手元に残ったのは、父親への拒絶感と、二十歳を前にして背負わされた「三百万円」という名の巨大な枷、そして「魚直」と書かれた半紙だけだった。

 すべては、あの顔をした男のせいだった。


 「なんで、あいつのせいで、俺がこんな目に遭わなきゃいけない」

 頭ではわかっている。目の前の男は、親父じゃない。

 苦しい。


 「なんで騙した。どうして俺を苦しめる?」

 頭ではわかっている。あれは親父じゃない。

 呼吸ができない。


 「嘘だろ。嘘だって言えよ」

 頭ではわかっている。あの男は、親父じゃない。

 輪郭が周囲と溶け合い、現実感が失われていく。


 「……なんで? なんでだよ?」

 頭ではわかっている。彼には、何の関係もない。

 真っ白な空疎のなかに、たったひとつ「なぜ」だけが残る。


 直樹の足は、次第に鈍り、ついに止まった。

 ぬかるんだ土に、硬いブーツが深く沈み込んだ。

 直樹は泣きながら、ぽつりと呟いた。

 「……なんでだよ?」

第10話を読んでいただき、ありがとうございます。

装備を整え、身体を鍛え、前へ進み始めた直樹に突きつけられたのは、あまりにも生々しい“過去の再来”でした。

次話では、その場から逃げるのか、向き合うのか。直樹の選択が描かれます。

続きが気になりましたら、ぜひブックマークして追っていただけると嬉しいです。

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