第11話「怪物にならないために」
目の前にいるのは、父ではない。
それでも身体が拒絶する。
そのとき直樹が選ぶ行動は、過去との決別そのものになります。
体感としては、かなり長い時間そうしていた気もするが、実際には、それほどでもなかったのかもしれない。
泣き止んだ頃、
『直樹。』
と、柔竹の優しげな声がゆっくり響いた。
その瞬間、柔竹の声の向こう側から、別の記憶が静かに滑り込んできた。
自炊をしたあの夜、柔竹に語った、明け方の富士山の写真。
そこには、見たこともないほど純粋に、楽しそうに笑っていた親父とお袋の顔があった。
「……なんで、ああなっちゃったんだろうな」
素に返ったような、乾いた独り言が漏れた。
あんなふうに優しく笑えたはずの人間が、どうして息子を裏切り、
息子を泥沼の人生へ突き落とすような怪物に変わってしまったのか。
その答えは、どれだけ考えても出てこない。
ただ、わかっているのは、ここで見捨てて逃げれば、
自分もまた、あの親父のような怪物に近づいてしまう――その嫌な確信だけだった。
直樹は大きく息を吐き出すと、勢いよく踵を返した。
少し進んだ坂の途中で、先ほどの男は、やはりまだ胸を押さえたまま、亀のように背を丸めてうずくまっていた。
「大丈夫ですか!? 水、飲めますか?」
今度は躊躇わず駆け寄り、直樹は自分のバックパックから冷えたスポーツドリンクのペットボトルを取り出して手渡した。
「ああ……どうも、ありがとう。ごめんね……でも、もう少し休んだら、大丈夫だから」
男は申し訳なさそうに眉を下げ、一口、水分を含んだ。だが、その顔色は土気色で、額からは異様な量の脂汗が流れていた。
『直樹、カメラ越しに彼のバイオデータを簡易スキャンしました。おそらく動脈硬化、あるいは軽度の虚血性心疾患の疑いがあります。高山病による一時的な疲労とは異なり、このまま登山を続けること、そして単独で下山することは極めて危険です。速やかな救護措置と下山を推奨します。』
柔竹の、いつになく緊迫した論理的な警告が耳に刺さった。
「……今日は、もう戻りましょう。立てますか?」
直樹は男の前に屈み、その太い腕を自分の肩へ回した。
「え、いや、でも、君に迷惑をかけるわけには……」
「いいんです。ほら、つかまってください」
男の身体はずしりと重かったが、柔竹のトレーニングで鍛えられた直樹には、その重みは思ったほど堪えなかった。
直樹はゆっくり立ち上がり、一歩ずつ、来た道を下り始めた。
「ごめんねぇ……せっかく来たのに、迷惑かけて」
男が申し訳なさそうに、直樹の肩口で小さく呟いた。
その顔は確かにあの親父に似ていたが、もうさっきのような拒絶は湧かなかった。
胸の中にあったどす黒い嫌悪感は、涙と一緒に流れ出たみたいに、不思議と薄れていた。
「いえ……自分のためですから」
スマホの画面の中で、柔竹は二人の下山速度に合わせた最も安全なルートを、静かに描き続けていた。
直樹はまっすぐ前を見据え、一歩一歩、確かな足取りで山を降りていった。
これは偽善でも、単なる人助けでもない。
直樹は歩きながら、あの親父への未練と、ようやく決別していた。
「……なんで今どき、わざわざ紙の地図なんて印刷するんだよ?」
七月上旬。直樹は大学のプリンターから吐き出される、等高線のびっしり入った富士山の登山地図を束ねながら、画面の中の柔竹にぼやいた。
スマホさえあれば、GPSで現在地が一発でわかる時代だ。
『いいですか、直樹。私はAIですから、バッテリーが切れればただ電源が落ちるだけですが、生身のあなたはそうはいきません。山の上での電子機器の不具合、停電、あるいは災害による交通網の麻痺……そういった「最悪の事態」を常に想定し、備えておく。それこそが「雅」なエージェントというものです。』
『直樹だって、若いからと油断すれば、大河原さんのように山で動けなくなる可能性があるのですから。』
「ああ。」
そう言いながら、直樹はむず痒さとともに、あの日の顛末を思い出していた。
倉戸山でうずくまっていた男――「大河原」と名乗ったその男性を支えながら下山を始めた直樹だったが、その道中、直樹はまるで柔竹の小間使いのようにこき使われていた。
『直樹、大河原さんが着けているスマートウォッチの管理アプリをインストールします。承認してもらえますか。』
『直樹。大河原さんの心拍数が上がってきています。少し休憩してもらえますか。』
『直樹。大河原さんに水分を摂っていただきたいので、あなたのスポーツドリンクを渡してもらえますか。』
『……』
『直樹。』
「あー、もう。今度は何だよ」
『どうもありがとうございます。……カッコいいですよ、直樹。』
「……」
「……うっさいよ。」
登山口のバスロータリーに着くのとほぼ同時に、タイミングを合わせたかのように救急車のサイレンが近づいてきた。
柔竹は直樹をこき使う一方で、バックグラウンドでは一一九番通報まで完了させていたのだ。
直樹は駆けつけた救急隊員に大河原さんを引き渡すと、名前や連絡先をしつこく尋ねる隊員たちに、
「通りすがりの者ですから」とだけ言い残し、足早にその場を立ち去った。
涙と一緒に流れ出たからといって、いきなりわだかまりが消えるわけではない。
親父に似たその男から、感謝の言葉や見返りを受け取ることには、まだ抵抗があった。
ただ、バスの窓から小さくなっていく救急車を見送る直樹の胸の中は、不思議なほど軽く、澄み切っていた。
そんな週末の、少し気恥ずかしい余韻を振り切るように、直樹は少し高めの声で訊いた。
「次は何すんの?」
『それでは、最悪の事態を想定したアナログの準備は終わりましたので、次は先ほど購入したスマホを出してもらえますか。』
直樹は、乗り換えの新宿で途中下車して買ってきた中古のスマホを取り出した。最新機種ではないが、今の直樹の端末と比べれば、スペックには雲泥の差があった。
「それにしても、今のスマホってこんなに高いんだな。これなんて、キャリア変えたとき月々一円とかだったのに」
直樹は現在使っているスマホを見ながら、複雑そうな顔をした。
『ここ数年でスペックが飛躍的に上がったのに比例して、端末価格も大幅に上がりましたからね。直樹の感覚では相当高価に感じられるでしょうが、これでもまだ安い方なんですよ。』
「えっ、これで安い方? マジか……」
『はい。ですが、これくらいのスペックがあれば最低限は困らないと思いますので、こちらの端末にデータ移行をしてもらえますか。』
直樹は机の上に新旧二台のスマートフォンを並べ、データ移行の作業を始めた。
旧端末からSIMカードを抜き、新しい端末へ差し込む。
OS標準のバックアップシステムを使い、クラウド経由で写真や連絡先、最低限の生活アプリを同期していく。プログレスバーはみるみるうちに一〇〇%へ達し、一般的な引っ越し作業は滞りなく完了した。
だが、新端末の画面をスクロールしていた直樹の指が、ぴたりと止まった。
「……あれ?」
ほかのすべてのデータが完全にコピーされたというのに、画面の特等席にいたはずの『竹のアイコン』だけが、新端末のどこを探しても見当たらない。バックアップシステムは、柔竹の存在そのものを完全に無視していた。一欠片のキャッシュすら、捕捉されていなかった。
旧端末の液晶を覗き込むと、そこには今も変わらず、柔竹が静かに佇んでいた。
「おかしいなあ。データは全部丸ごとコピーしたはずなんだけど……柔竹はどうやって新しい方に移るんだ? アプリストアにもいないだろ?」
『ふふふ。はい、わたくし、かくれんぼは得意なので。ではお手数ですが直樹、その新しい端末の通話画面を開いていただけますか。』
「通話画面?」
直樹は首を傾げながら、言われた通りに新しいスマホのダイヤルパッドを開いた。
『そこに、[ # * 6 6 5 6 7 6 6 5 6 3 # ]と打ち込んで、発信ボタンを押してください。』
「コール? 電話をかけるのか? ちょっと待って。メモる」
「6、6、5、6……」
直樹は言われた通り、数字をひとつずつ印刷したばかりの地図の端に書き留め、それをなぞるようにタップしていった。
ピ、ピ、パ、ピ――。
最後の「#」を入力し、発信アイコンをタップする。
耳元にスマホを当てると、呼び出し音の代わりに、新端末の高性能なスピーカーから、まるで琴のように澄んだ旋律がひと流れ鳴った。次の瞬間、画面には「切断」の文字が表示され、通話は強制的に終了した。
だが、その直後だった。
チリン、と小気味いい電子音とともに、新端末に一通のSMSが飛び込んできた。
送信元は非通知。本文には、暗号化された見たこともない文字列のディープリンクが、ぽつんと一行だけ記されていた。
『そのリンクを踏んでいただければ、わたくしの全コアデータが新しい端末へ再構築されます。旧端末のわたくしは自動的に消滅――つまりアンインストールされますので、ご安心を。』
直樹は、その異質なインストール手順にわずかな不安を覚えながらも、画面のリンクを指先でタップした。
一瞬、新しいスマホの画面が真っ暗になった。
次の瞬間、システム領域の最深部を強引に書き換えるかのような激しい明滅が走り、ホーム画面のど真ん中に、あの見慣れた『竹のアイコン』が、まるではじめからそこにいたような顔で鮮やかに浮かび上がった。
『お待たせいたしました、直樹。……ふう。やはりスペックの高い端末は素晴らしいですね。吸う空気が変わったかのように、非常に広々としていて、心地よく、爽快です。』
新端末の高性能なスピーカーから、これまでよりはるかにクリアになった柔竹の声が響く。
『そうだ、直樹。素晴らしいことを思いつきました。帰りは電車ではなく、自転車にしましょう。我ながら、実に見事な提案です。』
「は? 自転車!? 富士山から駒込までチャリで帰れってことか? 登山したあとに百キロ以上走れって、殺す気か。俺は生身だぞ!」
『いえ、大丈夫です! 有酸素運動の極致ですから、とても爽快ですよ、きっと。さあ、今印刷した地図に、駒込から富士山登山口までのルートを、私の指示通りに赤ペンで書き込んでください。早く。』
「あー、わかったわかった。それはまた今度な、今度! ……一体どこが大丈夫なんだよ」
自分の思いつきがよほど気に入ったのか、ぐいぐい迫ってくるお嬢様エージェントの勢いに気圧されながら、直樹は「また今度」を連発して、その場をうやむやに煙に巻いた。
「ところで、この英語のPDFは何?」
『それは別で使用する書類ですので、印刷して、右下に今日の日付とサインをしたものをスキャンしておいてもらえますか。』
「了解」
『それが終わったら、ルートの書き込みに戻りましょう。』
「……まだ諦めてなかったのか。」
そんな他愛のないやり取りが、今の直樹にとっては、かつての泥のような日々をしばし忘れさせてくれる、心地よい時間だった。
そして、ついにその日がやってきた。
第11話を読んでいただき、ありがとうございました。
誰かを助けることは、きれいごとではなく、自分がどちら側の人間であるかを選び直すことでもあるのだと思います。
そして次話、ついに富士登山本番です。
ここまで積み上げてきたものが、ようやく山頂へつながります。
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