第12話「天に届く階段」
二か月の準備と訓練の先にある、日本最高峰。
借金と停滞に縛られていた直樹が、自分の足でどこまで届くのか。
第2章・第3章の締めです。
七月二十一日。直樹は富士山・吉田ルートの五合目に立っていた。
御茶ノ水で整えた硬い登山靴は、二か月のトレーニングを経て、すでに直樹の足の一部のようになじんでいた。
最初は、お助け小屋まで続く緩やかな下り道だ。
新緑のカンバ林を抜け、六合目の安全指導センターを過ぎると、いよいよ本格的な登りが始まった。
ジグザグに続く砂礫の急坂。踏み出すたび、ジャリ、ジャリと細かい火山礫が靴裏で崩れ、じわじわと体力を削ってくる。
「はぁ、はぁ……なるほど、生田の坂とは、わけが違うな……」
『焦ってはいけません、直樹。歩幅を小さく。大腿四頭筋ではなく、骨盤で重心を前に運ぶイメージです。深呼吸を忘れないでください。』
イヤホンから響く柔竹の声に従い、直樹は必死にペースを保った。
標高二七〇〇メートル。七合目最初の山小屋「花小屋」にたどり着いたとき、直樹は目の前の光景に息を呑んだ。
それまでの砂利道は終わり、ここからは斜度の一気に増した、赤黒い溶岩の岩場が壁のようにそびえ立っていた。
一歩、また一歩。生田キャンパスの坂道で鍛えた脚が、日本の最高峰の傾斜を確実に踏みしめていく。
岩に張られた白いロープをつかみ、三点支持を意識しながら、這うように登る。
硬いソールの登山靴が岩の凹凸をしっかり捉えてくれるのだけが救いだった。だが、標高が上がるにつれて、空気が明らかに薄くなっていくのがわかる。
胸の奥が焼けるように苦しい。トレーニングで鍛えたはずの背中も、バックパックの重みで悲鳴を上げ始める。
「くそっ……トモエ館は、まだかよ……」
見上げても、視界に入るのは落石防止の石積みの壁と、はるか上に連なる山小屋の明かりだけ。登っても登っても、次の小屋が遠い。
指先がわずかに冷たくなり、頭の奥がずきりと重くなりかけた。高山病の初期兆候だった。
『直樹、立ち止まって。ここで水分をひと口。そして、息を吐ききることに意識を集中させてください。肺の底の二酸化炭素を出し切れば、自然と新しい酸素が入ってきます。あなたは、二か月前とは違う肉体を持っています。自信を持ってください。』
柔竹の凛とした声が、パニックになりかけた直樹の脳を叩き起こした。
言われた通り、岩に背中を預けて深く息を吐き出し、スポーツドリンクを口に含む。冷たい液体が喉を通り、ゆっくりと拍動が落ち着いていく。
不思議と、足はまだ動いた。毎日のスクワットと自炊で蓄えたエネルギーが、細胞の奥でまだ燃えていた。
赤い岩肌をヘッドランプで照らしながら、這いつくばるようにして岩場を越えていく。
鳥居の立つ「鳥居荘」を越え、さらに斜度の増す東洋館の岩場を乗り越える頃には、直樹の動きは無駄のない、泥臭くも確実なものへと変わっていた。
そして――。
ついに傾斜がわずかに緩み、目の前に「本八合目」の標識が現れた。
冷え込んできた空気の中で息を整えながら、直樹はふと夜空を見上げた。
遮るもののない標高三千メートル超の世界。そこには、吸い込まれそうなほど濃い黒のなかに、見たこともない数の星々と、不気味なほど大きく輝く「月」が浮かんでいた。
「……すごいな。月が近すぎて、ちょっと怖いくらいだ」
『当然です。富士山は、地球の鼓動がもっとも月に届きやすい場所なのですから。』
イヤホンから響く柔竹の声は、いつになく厳かで、どこか遠い響きを帯びていた。
『古代の人はここを「天に届く階段」と考えましたが、それはあながち間違いではありません。この山の持つ特殊な地磁気と気圧の条件は、大規模なデータ送受信を行うための、いわば「天然のアンテナ」なのです。』
「天然のアンテナ? AIでも、古代文明の都市伝説みたいなスピリチュアルなことを言うんだな」
直樹が白い息を吐きながら笑うと、柔竹は少しだけ寂しげに声音を落とした。
『……そうですね。今となっては、もう難しいことなのかもしれませんね。――昔は、「望」になると、あの山頂でさかんにやりとりをしたものです。』
「ぼう? ぼうって何だ?」
『月の満ち欠けのサイクルの中で、月と太陽の黄経の差がちょうど一八〇度になり、地球から見て月が完全に真ん丸になる瞬間のことを、「望」と言います。』
「へえ……」
『要するに、満月のことです。』
「最初からそう言えよ」
直樹は小さく笑いながら、再び足を前に出した。柔竹の言う「昔」が何を指しているのか、AIである彼女がなぜ満月をそんなふうに呼ぶのか、直樹は深く追及しなかった。ただ、彼女とこうして暗闇を登っている時間が、不思議と温かかった。
午前四時三十分。
直樹は、富士山頂、浅間大社奥宮の鳥居の前に立っていた。
「はぁ、はぁ……っ、つ、着いた……!」
凍えるような冷気が肺を刺す。強風に煽られながらも、直樹はしっかりと両足で地面を踏みしめていた。
薄明の雲海の向こうで、東の空がゆっくりと、鮮烈な茜色と黄金色に染まり始めていく。
一分刻みのシフト表に縛られ、三百万円という数字に怯え、四畳半の天井を見上げていたあの男は、もうどこにもいない。
自分の意志で時間を買い戻し、自分の肉体で、日本の最高峰まで登り詰めた。
劇的に変わり始めた人生にとって、これが本当のスタートラインだった。
登りきった強烈な達成感に包まれ、昇りゆく朝日の光を瞳いっぱいに受け止めていた直樹にとって、
父親の姿は、もはや自分を縛るものではなく、ただ遠い思い出へと変わっていった。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
四畳半の停滞から始まった直樹の時間は、ようやく自分の意志で前へ進み始めました。
富士山頂は終着点ではなく、これから本当に人生が加速していくためのスタートラインです。
今後も直樹と柔竹の行く先を見届けていただけたら嬉しいです。
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