第3話「不完全な芸術」
値段で殴る相手に、順番と読みで勝つ。
直樹にとって『SILVER LINING』だけは、まだ自分の意志が通じる場所でした。
その一言だけで、直樹の脳裏に父の姿が焼きつくようによみがえった。
心臓が跳ね、後悔と動揺が悪寒のように全身を走る。
呼吸の仕方すら忘れたみたいに、直樹は浅い口呼吸を繰り返した。
しばらくして落ち着くと、
「……いや、いい。それはもう済んだだろ。」
そう言いながらも直樹は以前提案された債務整理シミュレーションを思い出していた。
【債務整理シミュレーション:ID:9920】
・自己破産による最適化案:未実行
経済的メリット: 月々の返済額(8万円)の即時免除。卒業時の可処分所得の最大化。
指摘されたリスク:
1.信用情報の毀損: 7年間のカード発行・ローン不可。
→エージェントの見解: 「現金主義を貫けば生活に支障なし。数年の不便は300万円の価値を下回る」
2.保証人への影響: 奨学金および本件債務の連帯保証人である「母親」への一括請求。
→エージェントの見解: 「実家との関係修復、または母親による法的整理を推奨。感情的な忌避感より自身の経済的再建を優先すべき」
AIは、頭を下げればいいと簡単に言う。数字だけ見れば、その通りなのだろう。だが父の借金で削られきった母に、ようやく掴んだ職まで失わせるかもしれない頼みごとを、自分の口から重ねることだけは、直樹にはどうしてもできなかった。
直樹は唇の裏を噛んだ。
正しいのは、たぶん向こうだ。
それでも、その正しさに従った瞬間、自分の中の何かが二度と戻らない気がした。
「……わかってるよ。理屈じゃ、お前のほうが正しいんだろ」
ふと口に出た独り言に反応して
『了解しました。現在の返済計画を継続します。』
「ああ。」
直樹は、喉の奥に残ったものを無理やり飲み込み、短く答えた。
直樹は起き上がると、逃げ場を探すように『SILVER LINING』のアイコンをタップした。
暗い四畳半に、極彩色の光と軽快なBGMが弾ける。部屋に沈んでいた澱が、一瞬だけ吹き飛ぶ気がした。
『SILVER LINING』は、最近ユーザー数を爆発的に伸ばしている対戦ゲームだ。自分の持ち札となるNFTを3枚並べ、その合計スコアを競う。ルールだけ見れば、驚くほど単純だった。
NFTは、購入したものでも、自分でブロックチェーン上に登録したものでもいい。3枚のNFTは『SILVER LINING』独自の基準でスコア化される。だが、その判定基準は公開されていない。
直樹が、野良試合の中で経験則として掴んだのは、せいぜい次の三つだけだった。
・工芸、美術、スポーツ。人の手や熱が感じられるものは、スコアが伸びやすい。
・コピー品、あるいはChild NFTと判定されたものは、容赦なく零点に落とされる。
・同じNFTでも、組み合わせと順番、そして相手次第で、スコアはまるで別物になる。
試合に勝つと勝者には敗者からFEATというゲーム内通貨が移動する。
この単純なゲームが異様な熱狂を集めているのは、最近FEATが換金可能になったからだった。
世間では、一枚でスコア一兆を超える『伝説のNFT』が数億ドルで落札されたと騒がれているが、そんな富裕層の遊びとは無縁の『野良試合』ですら、いまや熱狂の渦中にあった。
「……今日こそ、三連勝までいく」
画面を見つめる直樹の瞳に、かすかな熱が灯った。
手元にあるのは、バイト代を削って少しずつ揃えた、彼なりの『最適解』だった。
一枚目は【研ぎ澄まされた彫刻刀】
中央に黒光りする鋼の刃先が映し出され、柄の部分は手汗と脂で深い飴色に変色し、細かな傷が無数に刻まれている。
周囲には削り出されたばかりの微細な木屑が散っている。
二枚目が【限界まで使い込まれた野球グローブ】
かつては鮮やかだったであろうオレンジ色の革が、土埃と汗、そして繰り返される捕球の衝撃によって、焦げ茶色にまで変色している。人差し指が当たる部分には、何度も修理した跡がある。
背景には西日に照らされたグラウンドの砂が舞い、革の表面に残るわずかな「艶」が、情熱を可視化している。
最後の三枚目が【描きかけの油絵】
キャンバスの半分は、まだ荒々しい下地の色が露出している。
中央には青白い月のような円形が描かれ始めているが、分厚い絵具の塊が、生のままのエネルギーを放っており、隅には使い古された筆と絵具で汚れたパレットが写り込んでいる。
高額NFTを持てない直樹にとって、このゲームは値段ではなく順番で殴るしかない。
工芸で手を作り、スポーツで体温を乗せ、最後に未完成の美術で爆発させる。直樹はそんな独自のコンボを、自分の頭だけで掘り当てていた。
AIの最適化にはない、自分の読み、自分の順番、自分の意志。その三つを、直樹はこの小さな画面の中にだけ残していた。
マッチングが完了し、第一セットが始まった。
相手の出した一枚目のNFTは
【純金製の宝冠】――スコア:12,000
時価数万円の豪華なNFTだ。
対して直樹は
【研ぎ澄まされた彫刻刀】――スコア:4,500
どうやら相手は重課金プレイヤーらしい。一枚目から、値段で殴るような豪華NFTを平然と叩きつけてきた。圧倒的な数値差。『SET LOSE』の文字が浮かんでも、直樹の表情はまだ動かなかった。
第二セット。
相手のNFTは
【色鮮やかな着物】――スコア:28,000
直樹のNFTは
【限界まで使い込まれた野球グローブ】――スコア:18,000(コンボ加点:+3,000込)
またしても敗北。合計スコア差は大きく開いた。それでも、諦めの色は無く、画面を支える直樹の指先は悔しさと熱でわずかに震えていた。
最終第三セット。
相手は勝利を確信したのか、開始するとすぐにNFTを場に出してきた。
【重装甲の武者】――スコア:15,000 合計:55,000
ここまでの合計は2万2,500。逆転には、あと3万2,501以上。ほとんど無茶な数字だった。直樹は祈るように切り札の【描きかけの油絵】をスワイプした。
【描きかけの油絵】――スコア:17,500
「いけ……! 『未完成』を、爆発させろ!」
その瞬間、画面が激しく発光し、コンボエフェクトが視界を塗り潰した。
【研ぎ澄まされた彫刻刀】【限界まで使い込まれた野球グローブ】が融合し、【描きかけの油絵】に吸い込まれるようなエフェクトの後、スコア表示が猛烈な勢いでカウントアップしていく。
22,500……40,000……65,000……。
【描きかけの油絵】――スコア:55,500(コンボ加点:+38,000込) 合計:78,000
画面いっぱいに『VICTORY』の文字が踊り、相手の豪奢な武者たちは光の塵となって霧散した。
「……勝った」
乾いた唇の端が、ようやくわずかに持ち上がる。誰のレコメンドでもない。自分の頭と順番だけで掴み取った、泥臭い逆転勝利だった。
だが次の瞬間、スマホの画面が激しく明滅し始めた。
『SILVER LINING』のUIはノイズに侵され、勝利の余韻ごと誰かに上書きされるみたいに歪んでいく。やがて真っ黒な背景の中央に、白いテキストが一行、タイプライターのように打ち出された。
『得たりと思へるその果てに、まことの「熱」はあらむや』
第3話を読んでいただき、ありがとうございました。
どん底の大学生が、自分の頭だけで掴んだ泥臭い逆転勝利。
……なのに、ここで終わりません。
次話、勝利の画面を上書きする“もうひとつの声”が現れます。
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