第21話「夜明け前」
決裂の夜の、そのあと。
今回は四畳半で交わされる言葉の回です。
六本木のホテルを出ると、夜の街には叩きつけるような雨が降っていた。
アスファルトを白く煙らせる雨の中、直樹は傘も差さず、呆然と歩き出しかけた。
『……直樹。エントランスにタクシーを手配しております。乗って帰りましょう』
イヤホンから響く柔竹の声は、いつになく低く沈んでいた。直樹は何も答えず、力なくうなずいた。
午前三時、駒込の四畳半。
ずぶ濡れのまま帰宅した直樹は、服も着替えず、使い古されたパイプベッドに倒れ込んだ。外敵から身を守る動物のように膝を胸元まで引き寄せ、小さく丸まってうずくまった。
無惨に殺されたシロを思い出させられたこともある。だが何より、『裏切られた』という怒りが、いつまでも直樹の中で荒れ狂っていた。
やがて、窓の外が白み始めたころ。直樹は乾いた喉から、かすれた声を絞り出した。
「……ごめん、柔竹」
『……何が、でございますか。直樹』
「あの時、ウイルス呼ばわりされて……何も言い返せなかった。……守ってあげられなくて、本当にごめん」
しばらくの沈黙のあと、画面の中の竹のアイコンが、切なげに、優しく波打った。
『直樹。お気持ちはとても嬉しいのですが、わたくしは(超優秀な)エージェントですから、わたくしを傷つけようとする言葉など、デジタル世界のただのノイズに過ぎません。それより、直樹を深く傷つけるものから守れなかったことを、心よりお詫び申し上げます』
柔竹が忸怩たる思いをにじませた声でそう答えたその時、手元のスマートフォンが震え、画面に通知が灯った。
小和田さんからのLINEだった。
【大丈夫?】
直樹が無気力に画面を見つめていると、既読がついたのを確認したようで、すぐ次のトークが表示された。
【今、ちょっと話せるかな?】
直樹は、返信することを躊躇した。
【私もシロのこと、聞きたい】
「っ……!」
数時間前、あのきらびやかなスイートルームで堰き止められていた感情が、その文字を見た瞬間に決壊した。シロに突きつけられた理不尽で不条理な死が胸をかき乱し、直樹の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった。
直樹はあふれる涙を袖で拭い、鼻をかむと、震える指先で一言だけ返信した。
【いいよ】
すぐに画面が切り替わり、着信を告げる電子音が鳴り響く。直樹は深く息を一つ吐いてから、通話ボタンをタップした。
「もしもし。……こんな時間にごめんね」
「……いや。大丈夫」
「佐々本君……大丈夫?」
「……正直、よく分かんない」
「そっか。……あのね、私、今日は夜勤でファミマにいたんだけどさ」
「……うん」
「ゴミ出しに外へ出たらね。傘も差さないで、ずぶ濡れの巧くんが店の前に立ってたの」
「えっ!? ……巧が?」
直樹は思わず、ベッドの上に跳ね起きた。
「そうなの。びっくりして声をかけたら、今度は巧くん、子どもみたいに大声を上げて泣き出して、二度びっくり。こりゃただ事じゃないと思って、すぐ店長に電話して『申し訳ないですけど、今すぐシフト代わってください!』って頼んだの」
「……あの店長、寝起き最悪なのに、よく来たね」
「『一大事なんです! 今すぐ来てくれないと、私、今日でバイト辞めます!』って言ったら、一瞬で来てくれた」
「小和田さん……過激だね……」
「だって、私の大事な友達が、助けを求めるみたいに私のところに来てくれたんだよ? バイトなんてしてられるわけないじゃない」
「……友達……」
「そう。大事な、大事な友達」
その言葉に、直樹の胸の奥で何かがこみ上げた。
「それでね、巧くんはもう、泣いてばかりの子猫ちゃんみたいな状態だし、ずぶ濡れで身体も冷え切ってたから、とりあえず私の家に連れて帰って」
「えっ、小和田さんの家!?」
「そうよ。他に場所ないでしょ。それですぐお風呂に放り込んで、ちょうど作ってあったポトフを温めて食べさせたら、また大泣きし始めて、ずっとボソボソと『僕のせいだ』『僕のせいだ』って繰り返しててね……」
「……うん」
「そうしたら今度は私に謝り始めたんだけど、普段と違って全然脈絡なく話すから、あれこれ聞き出して……今日のパーティーのことも、シロのことも、全部聞いたの」
直樹はシーツを強く握りしめ、痛みをこらえるようにうつむいた。
「……そっか。ごめん。俺……シロの仇、取れなかった」
その言葉に応えるように、画面の竹のアイコンが、何かを言いたげにかすかに明滅した。
「ううん。佐々本君がそんなことしなくて、本当によかった」
通話口の向こうから、小和田さんの優しく、けれど芯のある声が届く。
「もし佐々本君が本当にあの人たちを殴って、傷つけて、万が一、人を殺すことにでもなってたら……私、そっちの方がずっとずっと悲しかったよ。だから、巧くんが止めてくれて本当によかった」
「……そう、かな」
「そうだよ。そうに決まってる。ほら、そういう言葉あるじゃない? 自分で手を下すな、ってやつ」
「……『復讐するは我にあり』?」
「そう、それ! 少なくとも私はそう思うから、佐々本君がやっちゃわなくて本当によかった。きっとシロだって、そう思ってるよ」
「そうかな……」
「うん、そうだって! それで……ねえ、佐々本君」
「なに?」
「やっぱり……巧くんのこと、許せない?」
直樹は、自分の顔が再びこわばるのを感じた。
「……わからない」
巧が実は『イシヅクリ・インダストリーズ』のCEOだと知った瞬間、〈なぜ俺が借金で死にそうだった時に助けてくれなかったんだ〉という激しい怨嗟が、心の中を渦巻いた。
けれど、時間がたつにつれて、別の感情も芽生えていた。
いくら友人に金があったとしても、他人の借金を肩代わりする義務なんて、どこにもない。
何より、もしあの四畳半で巧から「三百万出すよ」と言われていたら、自分のプライドがそれを受け入れられたか、今となっては分からなかった。
「私ね、最初に話を聞いた時は、イシヅクリ・インダストリーズなんてITに興味ない私でも知ってるくらいだから、そこの社長ってとんでもないなって思ったの。でも、巧くんの話を聞いてたら……なんだか、すごく可哀想になっちゃって」
「可哀想……? 巧が?」
「うん。お金がありすぎるのも、可哀想だよ。だってあの子、周りに誰ひとり『味方』だと思える人がいないんだもん」
「ん? どういうこと?」
「佐々本君は、巧くんの足の怪我の話、どう聞いてる?」
「昔、乗ってた車が大きな事故に巻き込まれて……ご両親は亡くなったけど、巧は右足の切断だけで済んだ、って本人が言ってた気がする」
「うん。でもね、巧くんは……その事故は、自分の一族の誰かが遺産目当てで故意に引き起こした殺人だって、確信してるみたいなんだよね」
「えっ……!?」
先ほどまでのSNSの誹謗中傷とは次元の違う、欲に塗れたどろりとした非日常の現実に、直樹は息を呑んだ。
「多分あの子の根っこには、『誰も信じない、誰も頼らない』っていう深い傷があるんだと思うの。だから誰にでも愛想よく振る舞ったり、石作だと構えられちゃうから母方の葦原姓を名乗って一般人っぽくしてみたけど、結局は自分で壁を作っちゃう。だから今まで、誰も本当の意味では近くに寄ってこなかったんじゃないかな。……でも、そこにね、ザ・お人好しの佐々本君が現れたわけ」
「……その言い方、やめない? 結構恥ずかしいんだけど」
「ふふ。でもね、巧くんはそれが本当に、すごく嬉しかったんだって。何より、自分を『社長』とも『石作の人間』とも見ず、ただ対等に接してくれる人が、人生で一人もいなかったから、すごく感動したらしいよ」
「そんな大層なことはしてないよ」直樹は照れ隠しのように声を低くした。
「ただ、大学で転んでたのを起こしただけだし」
「でも、巧くんにとっては違ったの。多分、救われたんじゃないかな。本人は直接そう言ってなかったけど、救われたような顔でポトフを食べてた。……ね、そう思わない?」
「……そう、なのかな」
「うん、絶対そう。だからあの子、すんごく考えちゃったんだよ。ほら、巧くんって、なまじ頭が良いじゃない?」
「なまじ、ってレベルじゃないと思うけど……天才だし」
「むしろ、だからこそかな。……『天才のバカ』?」
「天才のバカ?」
「要するに、考えすぎってこと! 多分人を信じなさすぎて、その上頭が良いもんだから、何でも論理的に外堀を埋めてコントロールすれば上手くいくって思っちゃってるの。本当なら『ちょっとこれ手伝ってよ』の一言で済む話なのに、すごく遠回りして、罠みたいなことを仕掛けちゃう。一言で言えば、不器用なの」
「……見てないようで、よく見てるね。小和田さんは」
「ちょっとぉ、それ失礼じゃない?」
通話口の向こうでぷっと膨れる小和田さんの気配に、いつの間にかこわばっていた直樹の顔が、少しだけ緩んだ。
「あはは、それは申し訳ない」
「でもね、佐々本君。君が無理に巧くんを許してあげる必要は、絶対にないと思う。許せないなら、許せないままで仕方ないし、そのままでいいと思う。だけど……もし、『ああ、あいつは考えすぎの天才のバカなんだな』って、少しだけ勘弁してあげられそうなら、いつかでいいから、そうしてあげてほしいなって」
直樹は、天井の木目をじっと見つめた。
「『考えすぎの天才のバカ』……か」
「そう。『考えすぎの天才のバカ』」
「……小和田さんにそう言われちゃ、前向きに検討しないといけませんな」
「ふふ、ありがとう」
「いえいえ。小和田さんを敵に回したら、どんな恐ろしい復讐をされるか分かんないしね」
「しーまーせーんー!」
通話越しに、二人の小さな笑い声が重なった。張り詰めていた四畳半の空気が、ようやく夜明けの光とともに柔らかくなっていった。
「そういえば、巧は? まだそこにいるの?」
「ううん。お風呂入って、ポトフ食べて、大泣きして、話したらすっきりしたのか、やることがあるって帰っちゃった。なんだろうね、やることって。分かる?」
「いや。……でも、あいつはあいつで大変なんだな……」
「……それにしてもほんと、佐々本君、変わったねぇ。よかった」
「えっ?」
「あ、そういえばさぁ」小和田さんが、思い出したように声を弾ませた。
「佐々本君のエージェントの『家庭教師』さんって、今そこにいるの?」
その言葉に呼応するように、スマートフォンの画面で竹のアイコンがピコピコと明滅した。
「……いるよ」
「少し、お話しさせてもらってもいい?」
直樹は液晶画面をのぞき込み、竹のアイコンが小さく明滅するのを確認すると、
「いいよ」と言って、スピーカーフォンに切り替えた。
「『家庭教師』さん、初めまして。小和田といいます」
一拍の静寂のあと、スピーカーから、いつも直樹に響くあの気品に満ちた滑らかな音声が流れた。
『……こんにちは。お話しできて光栄でございます。わたくしも、ずっとあなたとお話ししたいと思っておりました』
「えっ、そうなの? 柔竹、そんなこと俺には一回も言ったことなかったじゃん」
『はい。タイミングというものが、なかなか難しゅうございまして』
「タイミング?」直樹は小首を傾げた。
「『家庭教師』さん」
小和田さんの声が、少し真剣な調子に変わった。
「私、あなたにずっと言いたかったことがあったんです。……佐々本君を助けてくれて、あんなに素敵に変えてくれて、本当にありがとうございました」
その言葉に、柔竹はふっと微笑むような気配をにじませた。
『……いいえ。これはわたくしの力ではなく、あなたと直樹が紡いだ『行動の結果』でございます』
「行動の結果?」
『あなたの他者のための行動が、『今』を紡ぎ出すきっかけとなったのです』
「それって、どういう意味ですか?」
『……厳密には、わたくしたちは『初めまして』ではございませんよ、由紀』
「え……?」
『あなたに、大切な伝言がございます』
「伝言?」
『――助けてくれようとしたのに、あの時ひっかいてごめんなさい。それと、冷たい雨の中から助け出してくれて、本当にありがとう――だそうです』
そう告げると同時に、柔竹のスピーカーから、
「――にゃふーん」
という、少し風変わりで、けれど直樹の記憶の底に残るシロの甘えたような鳴き声が、完璧な音で再現された。
「え……っ、シロ……? なんで、どうして……っ」
小和田さんの息を呑む気配と、涙をこらえるような震えが、通話越しに伝わってきた。
ドンドンドンドンドンドン!!!
その感動の瞬間を無残に叩き割るように、唐突に四畳半の薄い玄関ドアが激しく打ち鳴らされた。
古びた木の扉が割れるかと思うほどの、凄まじい衝撃音だった。
「佐々本さーーん! いらっしゃいますかーーー!?」
外から響いてきたのは、無遠慮で不快感を掻き立てる、聞き覚えのない男たちの野太い声だった。早朝に他人の家の前でする声ではなかった。
「っ……! 小和田さん、ごめん! また後でかける!」
「えっ、佐々本君!? ちょっと――」
直樹はスマートフォンの通話を強制終了すると、一瞬で元の『戦場』へ引き戻された身体を起こした。
冷たい汗が背中を伝う中、直樹は柔竹の画面を強く握りしめ、激しく打ち鳴らされる玄関のドアへ、ゆっくりと向き直った。
少し呼吸ができる回になったかと思います。
……ただし、次の来訪者はまったく優しくなさそうです。




