第20話「シロ」
今回はかなり重い内容を含みます。
苦手な方はご注意ください。
「こいつ論破したから、この案件はもういいよな!?」
柔竹の宣言に被せて、ジンが下品な大声を張り上げた。
「あとは誰か、尋問でも何でもして裏のツールを吐かせといてよ。――そうだ翔ちゃん、これ終わったらさ、久しぶりに『ネコハン』やろうぜ。ネコハン!セッティングはこっちでやるからさ!」
「そうだね、ぜひぜひ。ただ、次はボカシを強めにかけてくれよ? 前の生田の時のやつ、参加したのバレそうだったんだから」
「ハハ、あれウケたよな!もういっそのこと無修正版を流出させてやろうかと思ったけど、またBANされると面倒だから、すっげぇ我慢したんだぞ」
「知らないよ、そんなこと。まあ、炎上したらしたで『疑惑への反論動画』を三本くらい回して様子を見て、完全に燃えてたら『謝罪動画』を回せばいいし。ネタが増えるから、美味しいっちゃ美味しいんだけどね」
ジンは厚かましく、直樹の肩に腕を回した。
「あ、お前もやる? ネコハン。一緒にネコハンして仲良くなったら、どうやって何十億も儲けたのか教えてくれよ」
「いいねぇ、そのプラン!」
神宮寺も乗っかってきた。
「迷惑系YouTuberと、暗号資産の天才クラッカーがネコハンって、もう炎上要素しかないよね。あ、僕は一応クリーンなビジネス系だから、顔出しはNGね。ちゃんとボカシかけてよ?」
「……ネコハン?」
直樹が、地を這うような低い声でつぶやいた。
その単語だけは、酔った会場の空気とはまったく別の温度を帯びて、直樹の胸の奥に沈んでいた古い嫌悪を不意にかき混ぜた。
「えっ、お前知らねえの? マジか。当時あれだけネットでトレンド入りしたのに」
「流行ったんじゃなくて、動物虐待で大炎上したんだろ」
神宮寺がくすくすと笑った。
「チッ、あんな極上のエンタメを見てないなんて、人生損してるわ。ちょっと待ってろ」
ジンはスマートフォンを操作し、にやにやしながら直樹の目の前へ画面を突きつけた。
「ほら、なんとこれはネットに残ってない『無修正版』だぞ。貴重だから、心して見ろよ」
再生された動画には、夜の深い林の中で、サバイバルゲームの装備をした六人の男たちがモデルガンを抱えて立っていた。
その湿った闇の匂いまで蘇るような画面に、直樹の喉がひくりと鳴った。どこかで見た景色だ、と体のほうが先に反応していた。
彼らの背後には、持ち運び用の取っ手がついた小さなケージがいくつも積み上げられている。
画面中央のジンが、カメラに向かって濁声を張り上げた。
『はい、それでは皆様お待ちかね! ネコハンの時間がやってきましたーーーどんどんどん、ぱふぱふ!
えー、初見の方向けに簡単にネコハンを説明しますと、まず、このエリアの周囲は高さ二メートルほどのネット柵で完全に囲っていまーす!』
ジンは手元のカメラに柵の映像を映してみせた。
『この囲いの中に、猫を十匹放ちまーす!それを我々がモデルガンで狩る!BB弾には特殊なカラーインクが塗ってあるので、タイムアップ後に猫を回収し、色の数で得点を計算するという、知的でエキサイティングなゲームなのです!……あ、一応言っとくけど、痛くない威力にしてるし、色も洗えば落ちるから問題ナッシング!終わったら猫たちに『ちゅーる』を配るからウィンウィンというわけです!』
直樹は、画面から目をそらせなかった。嫌な予感だけが、先に喉を締めつけていた。
画面の奥から、神宮寺がジンの尻をモデルガンで撃った。
『痛っ! てめえ、何すんだよ!』
『はい、どうやらまあまあ痛いようです』
『ちくしょー、後で覚えてろよ! ……それじゃあ、ゲームスタート!』
ケージの扉が一斉に開けられ、中から怯えた猫たちが放り出された。どれも、純白のきれいな毛並みをした猫たちだった。
放たれた直後から、六人の男たちは一斉に逃げ惑う白い影へ銃口を向け、容赦なく硬い弾丸を乱射し始めた。
『なかなか当たらねぇなぁ!』
『ギャンッ!!!』
画面から、悲痛な、引き裂かれるような猫の悲鳴が響いた。
『おっ! ワンヒット! ジンさん、おめでとうございます!』
男たちの下卑た笑い声と、痛みに引き裂かれるような鳴き声が、夜の林に交錯していった。
『あはは! ちょー鳴いてるよ!ほら翔ちゃん、右奥のブッシュ! 植え込みの影に一匹潜んでる!』
『オッケー、もらった――ハハ、一発命中!きれいに青インクがついたね!』
画面の向こうでは、完全に逃げ道を失った白い猫たちが、二メートルのネットに体当たりしては弾き返され、パニックを起こして鳴き叫んでいた。容赦なく至近距離から放たれるプラスチック弾の風圧と衝撃。何発も固い弾丸を撃ち込まれた一匹の猫は、あまりの痛みに激しく痙攣し、地面をのたうち回っていた。
『おいジン君、あいつもう動かねえぞ?カウントしていいの?』
『あー、動かなくなったらノーカンね!動かないの撃っても映えないでしょ。次、次いこ!ほら、タイムアップまであと三十秒!弾切れになるまで撃ち尽くせー!』
まるで害虫でも駆除するかのように、楽しげに引き金を引き続ける男たち。おもちゃの銃から放たれる無数のインク弾が、暗闇の中で無抵抗な命を容赦なく蹂躙していく。
やがて、ピピーッと甲高いホイッスルが鳴った。
『しゅーりょー!それでは、これより得点計算です!』
再び乱暴に捕まえられた猫たちが、一匹ずつカメラの前へ引きずり出された。
純白だったはずの体は、赤や青、様々な色の粘着質な塗料でどろどろに染まり、打撲で腫れ上がっていた。数えられている間、猫たちは完全に絶望しきったように、身動き一つしなかった。
『はい、結果発表!優勝は二十一点でジンさんでしたーーー!』
『よっしゃあ!』
『それでは、優勝者に喜びの声をお願いします!』
ジンが、激しく怯える一匹の白猫の首根っこを掴んで掲げようとした瞬間、その猫は最後の力を振り絞るように、ジンの手の平へ深く噛みついた。
『いってぇな、この野郎!!!』
画面の中のジンは顔を真っ赤に染め、掴んでいた白猫の頭部を全力の拳で殴りつけた。
ゴツッという鈍い衝撃音とともに、猫は囲いの出入り口のほうへ吹き飛ばされ、激しく地面を転がった。そして猫は、起き上がると出入り口の隙間から命からがら漆黒の林の中へ消えていった。
『おい、逃げたぞ! 捕まえろ!』という怒号とともに、動画の最後に黒い字幕が浮かび上がった。
【いくらカラフルに染められたとはいえ、夜の林に逃げ込んだ猫がどこにいるのかはまったく分からなかった。我々のハンティングは続く――】
「いやー、でもマジで楽しかったねー! 動画見たら、またやりたくなってきたわ」
ジンはスマホをポケットにしまい、笑った。
「結局、最後のあいつ、どこ行ったのか分かんなかったんだよな」
「まあ、普通に考えて、あの傷じゃ死んだっしょ」
神宮寺が何でもないことのように応えてから、シャンパンをあおった。
「…………そうだよ、死んだよ」
部屋の温度が、一瞬で氷点下まで叩き落とされたようだった。
直樹の口から漏れたのは、これまでの彼からは想像もつかない、低く、ドスの利いた、地獄の底から這い上がってきたような憎悪の声だった。
『……直樹?』
イヤホンの中で、柔竹の声がかつてない緊迫感を帯びた。
「そうか。お前らか。お前らが……シロをやったのか」
「あ? 何言ってんだ、こいつ?」
ジンが怪訝そうに顔を近づけ、その動きに合わせるかのように神宮寺も首を傾げた。
「佐々本君、もしかしてこの猫のこと知ってるの?」
「……ああ、知ってる。よく知ってるよ。……ここ、専修大学の生田キャンパスの裏山だろ?」
脳裏に、ゴミ箱の隙間で倒れている泥と血と塗料にまみれた猫と、その猫を指差しながら泣きじゃくっている小和田さんの顔が、嫌というほど鮮明に蘇る。
直樹のあまりに正確な指摘に、ジンの顔から余裕が消えた。
「えっ、おい、なんで分かったんだ? 特定早すぎだろ、お前ストーカーかよ」
「えー、じゃあもうあそこ使えないじゃん。次の会場どうするのさ、ジン君」
「うるさい」
「あ?」
「うるさい。黙れ、クズ」
「論破された小僧が、調子に乗ってんじゃねえぞ、あぁ!?」
ジンが威嚇するように大声を出し、直樹の胸ぐらを掴もうと詰め寄った。
だが直樹は一歩も引かず、血を流さんばかりの目でジンを真っ向から睨み返した。
「何が痛くないだ。何が洗えば落ちるだ……ふざけるなよ。シロはな、小和田さんが見つけた時には、もう骨が見えるほどぼろぼろだったんだ。右目は完全に潰れてて、お前らがつけたクソみたいな塗料は、何をしても、どんな洗剤を使っても、最後まで落ちなかったんだ!!!」
直樹の叫びは、周囲の浮ついた参加者たちを黙らせる。
「知ってるか。猫はな、自分で体を舐めてきれいにするんだよ。でも、シロはその塗料の有害な成分のせいで、毛づくろいすら出来なくなって、ただ毎日、弾の当たらなかったお腹を血が出るまで舐め壊して、苦しんで、死んでいったんだ!!!」
「はっ、シロって、あの猫のことかよ?」
ジンは動揺を隠すように、下品にせせら笑った。
「全然、白いとこなんて残ってなかったじゃん。それにあのカラフルなほうが、地味な白一色よりよっぽど映えてよかったんじゃねえの?」
その言葉に、神宮寺も話を合わせるように嘲笑を漏らした。
「……ああ、俺も最初はそう思ったよ。こんな風に汚されて何でシロなんだって」
直樹の目から大粒の涙が溢れ、頬を伝って次々に床へ落ちた。
「でも、小和田さんはずっと、泣きながら言ってたんだ。
『この子は、本当はきれいな白なんだから、シロなんだ』って……!!!」
直樹の激痛のような叫びが室内にこだました。
「お前ら、なんでそんなことができるんだよ!?
狩り? エンタメ!? ふざけるな!!!
自分より弱い生き物をいたぶって、何が楽しいんだ!?
そんなゴミみたいなことして稼いだ金で食う飯は、そんなにうまいのか!?
なあ、教えてくれよ!これが『成功』なのか?こんなにくだらなくて、反吐が出るほど汚いものが『成功』なのかよ!!!」
直樹は鋭い踏み込みで神宮寺に近づくと、スーツの腕を掴み、その顔を至近距離で睨みつけた。神宮寺の顔から余裕の笑みが完全に消え、恐怖に引き攣った。
神宮寺の腕を掴みながら今度はジンを睨みつける。
「……っ、うめぇよ、当たり前だろ! 世の中、金が一番に決まってんだろ!!!」
ジンが直樹を突き放そうと怒鳴り返したが、その視線は明らかに恐怖で激しく泳いでいた。
「猫が何匹死のうが知ったことかよ!」
その一言が、直樹の導火線に完全に火をつけた。怒りで視界が真っ白に染まる。
殺意に満ちた直樹は、全力を込めた拳を握りしめ、ジンめがけて飛びかかった。筋肉痛を乗り越え、富士山を登りきったその強靭な肉体から放たれる一撃は、間違いなくジンの骨を砕く威力を持っていた。
『いけません!』
柔竹が悲鳴のような警告を響かせた、まさにその瞬間だった。
「直樹、止めるんだ!!!」
直樹とジンの間に、猛烈な勢いで一人の男が割り込んだ。男は自分の体を盾にするようにして、直樹の強烈な突進をその身で受け止め、必死に両腕を押さえ込んだ。
――巧だった。
「直樹、止めるんだ! 落ち着け!」
だが、怒り狂った直樹の力は凄まじく、巧の体ごと引きずり回そうとする。振り切られそうになりながら、巧は必死に直樹の胸にしがみつき、顔を真っ赤にして叫んだ。
「直樹、止めろ! こんなことを小和田さんが知ったら、どれだけ悲しむと思ってるんだ!!!」
その声には理屈より先に、止めたいという切実さが滲んでいた。止めたいのは暴力だけではない、この瞬間に直樹を壊したくなかった。
「っ……!!!」
『小和田さん』という名前を認識した瞬間、直樹の体を、冷水を浴びせられたような感覚が一気に貫いた。拳の力が抜け、直樹はその場に立ち尽くした。殴れば取り返しがつかない――その単純な事実より先に、彼女にはそんな自分を見せたくない、という思いが胸を締めつけた。
巧は荒い息を吐きながら、直樹の肩をしっかり掴んだ。
「……こんな奴でも、一応は人間だからね。手を出したら、どんな理由があろうとお前のほうが悪くなる。……お前のきれいな手を、こんな奴らのために汚させるわけにはいかないよ」
「……巧」
直樹は目の前の親友の顔を見つめた。ほんの一瞬だけ、助かった、と思ってしまった自分がいた。
だが、巧の顔にはかつてないほど激しい罪悪感と苦悩が張り付いていた。
「すまない、直樹。……全部、僕のせいだ」
「お前のせい……? いったい何言ってるんだよ。ていうか、なんで巧がここにいるんだ?」
「本当にごめん。……直樹をこのパーティーに呼んだのは、僕なんだ」
「え……?」
「お前の後ろにいる『家庭教師』の情報を、どうしても引き出したくて……ここに直樹を呼ぶよう、僕が裏から手を回した」
「家庭教師? ……柔竹のことか?」
「そうだ。本当は、こんなセレブっぽい華やかなパーティーを楽しんでもらって、いい気分になった勢いでちょっと口を滑らせてくれたらな、なんて浅はかな期待をしてたんだ。
……小和田さんと猫のことも、僕はお前が昔、猫を助けたことがあるってことくらいしか知らなくて、それがこんな……いや、こんなの言い訳にもならないな。本当にごめん。申し訳ない」
必死に弁明する巧の言葉を、直樹は静かに、どこか冷めきった目で聞いていた。
「……別に、巧のせいじゃないよ」
直樹の声は冷たい。
「直樹……!」
「でもさ。お前、こんなすげえパーティーを裏で操れるくらい、本当はとんでもない金持ちだったってことだよな?」
「…………ああ。イシヅクリ・インダストリーズのCEOをやってる」
「……イシヅクリ・インダストリーズって、あの大企業の?そうなんだ。すげぇじゃん。いや、すごいですね、社長様」
巧がはっとした面持ちで直樹を見た。
「……直樹」
自分にとって一番大切なものが、跡形もなく崩れ落ちていくさまを、巧は悲しげに見ていた。
「俺が、毎日毎日、借金に追われてたの……お前、全部知ってたよな?」
「……ああ」
「俺が、あの四畳半で絶望してたの……お前、全部知ってたよな?」
「……ああ」
「……なんで、助けてくれなかったんだ?」
直樹の声は、涙さえ枯れ果てたように静かだった。
「お前にとって、三百万なんて、はした金だろ?お前なら一言言うだけで、一瞬で俺を救えたはずだったよな!? なんで……なんで、助けてくれなかったんだよ!?」
巧の喉がひくりと震えた。金を差し出した瞬間、もう友達ではいられなくなる。そんな身勝手な怯えを、巧はずっと正しさだと思い込んでいた。
「それは……」
「なあ、答えろよ!!! 巧!!!」
巧は唇を血が出るほど噛み締め、絶望に染まった目で直樹を見つめ返した。
それは、ずっと自分の中でだけ正当化してきた、いちばん醜い本音だった。もう隠していい段階ではないと知って、巧はようやくそれを吐き出した。
「…………友達を、失いたくなかったんだ。……ごめん」
その時、直樹の視界の端に、巧のすぐ後ろで息を潜めて立つ、眼鏡の人物の姿が映った。
「あ……」
直樹の記憶が、あの解放された日へと巻き戻った。
「あんたは……『豊葦ファイナンシャルソリューションズ』の、千草……」
千草が、痛ましげに目を伏せた。
直樹は巧に向き直ると猜疑心に満ちた言葉をぶつけた。
「じゃあ……あそこもお前の会社だったのか?俺が一円単位でケチケチ生活して、借金にのたうち回ってるのを……お前は上から見下ろして、笑ってたのか!?」
完済したあの日、その報告を受けた巧が見せた満面の笑みが、千草の中に甦った。同時に、あまりの理不尽さに、喉元までせり上がった言葉をもう飲み込めなかった。
「そんなわけないでしょう!!! 巧様があなたにどれだけ――」
それは反論というより、見ていられずにこぼれた叫びに近かった。
「やめろ、千草!!!」
巧が喉を潰さんばかりの声で、千草の言葉を制した。
千草は唇を強く結び、一歩だけ退いた。なおも何かを言いたい衝動を、爪が食い込むほど拳を握って押し殺した。
「……直樹、本当にごめん。言い訳はしない。全部、僕のせいだ。ただ……お前を苦しめようとしたわけじゃ――」
直樹は、巧の言葉を最後まで聞かなかった。
かつての親友の顔を一瞥すると、何も言わず、人形のように無表情なまま背を向け、狂乱の残骸が転がるスイートルームを静かに歩き去った。
巧はその背中を追うことすらできず、ただ握りしめた拳の痛みだけを感じながら立ち尽くしていた。
かなり感情の消耗が大きい回だったと思います。
次回は夜明け前、少しだけ言葉の回になります。




