第18話「画面の向こう側へ」
今回は、直樹がまだ知らない「裏側」の話から始まります。
そのうえで、いよいよパーティー会場へ向かいます。
再開発が進み、ガラスと鉄の巨塔が乱立する夜の渋谷。
その中の一棟、新築の超高層オフィスビルの最上階に、その会議室はあった。
ガラス扉には、世界最高峰の半導体と先端義肢開発の特許を独占する『イシヅクリ・インダストリーズ』の洗練されたロゴが刻まれていた。
時計の針は、まもなく二十四時を指そうとしていた。オフィスフロアに人っ子一人おらず、非常灯の青白い光だけが静まり返った廊下を照らしていた。
灯りの落ちた真っ暗な会議室の奥で、男が一人、椅子に深く腰掛けていた。
――巧だ。
暗闇の中、彼はただじっと、眼下に広がる渋谷の光の海を見つめていた。
コンコン、と静かなノック音が室内に響いた。
「どうぞ」
巧が短く応じると、扉が開いた。
「失礼します。……電気、つけますね」
千草柊の声とともにパチリとスイッチが押され、真っ白なLEDの光が降り注いだ。暗さに慣れていた巧の目にまばゆい痛みが刺さり、彼はわずかに左目を細めた。視界がようやく光に慣れた頃、巧は椅子の背もたれに頭を預けたまま、千草を見上げた。
「どうだった?」
「はい。彼がきちんと招待状に気づき、部屋の中へ持ち込んだことを確認いたしました」
「そっか。どうもありがとう、千草くん」
千草は手元のタブレットを胸に抱え、眼鏡の奥の瞳にかすかな疑問を浮かべた。
「ですが、本当に来るでしょうか。個人的な見解を申し上げれば、あのような出所不明の不審なパーティーは、警戒して参加を見送るのが普通かと存じますが」
「来るさ。だって直樹だもん」
巧はふっと、悪戯が成功した子どものように口元を緩めた。
「彼、ああいうのに興味ない顔してるけど、ほんとはむっつりだから絶対来るよ」
「はぁ……。それにしても、なぜこのような回りくどい手を使われたのですか?」
「数少ない僕の友人への、『地獄からの転生記念』のお祝いさ」
巧は視線を再び窓の外の夜景へ戻し、ぽつりとつぶやいた。
「それと……彼の後ろにいる『家庭教師』へスムーズにアクセスするには、僕らとは別の登場人物が舞台に必要だと思ってね」
「無理やり主催者側に席をねじ込まれていましたので、お祝いしたいという意図はかろうじて理解できますが……。その『別の登場人物』というのは、どなたですか?」
「なんて言ったっけな。ほら、最近うさんくさい自伝を出して、アプリにうるさいくらい広告を打ってた人」
「……神宮寺翔ですか?」
「そうそう、あの羞恥プレイの人」
「羞恥プレイ、ですか?」
千草が怪訝そうに眉をひそめると、巧は心底おかしそうに肩を揺らした。
「そうとしか言いようがないよ、あの自称・自伝。あんな恥ずかしいポエムを堂々と世に出して、よく平気な顔で生きていけるなって、逆に感心するよ。僕なら七十五日はベッドの中でのたうち回るね」
「お読みになったのですか?」
「だって仕方ないじゃない。彼、車持さんのお気に入りだから。会うたびに『これからのWeb3のパラダイムシフトが書いてある!』って、読め読めうるさいし、読んでないと『お前のところの光ファイバー網、ADSLに替えるぞ』とか、訳の分からないダル絡みをしてくるんだよ。本当に疲れる……」
「……それは、お疲れ様でした」
千草は、同情を禁じ得ないというふうに小さくため息をついた。
「私もCMを見たことがありますが、巧様から見れば、あの男の語る中身の薄そうなビジネス論など、つまらないのではないですか?」
「つまるとかつまらないとかじゃないよ。単純に、あの根拠のない自己肯定感の塊を見てると、ぞわぞわ鳥肌が立つだけ」
「はぁ。ですが、そんな俗物的な人物を大事なご学友に引き合わせても、百害あって一利なしではないでしょうか」
「普通ならね」
巧は椅子の肘置きを指先でトントンと叩いた。
「ただ、今回は裏にいる『家庭教師』を安全に引っ張り出す必要があるからさ。少々劇薬を混ぜてみようかと思ってね。ま、神宮寺氏なら所詮は小物だから多少何かあっても、直樹に大きな実害をもたらすことにはならないだろうし。
それに……五位の会の『爺ども』の顔も立てなきゃいけないから、仕方ないね」
巧はふうと肩をすくめ、ため息をついた。千草はその姿を見つめ、姿勢を正した。
「承知いたしました。……それでは、明日の『五位の会』の定例会議ですが、資料はこちらです」
千草が手元のタブレットを操作すると、会議室の大型プロジェクターが起動し、真っ白なスクリーンに明日のアジェンダが映し出された。
その最上段、筆頭議題に掲げられた文字を見た瞬間、巧の表情から完全に温度が消えた。
【$HOTAトレードAIの所有権、およびそのアーキテクチャの回収について】
「はぁ……。まあ、そうなるよね」
巧は両手で顔を覆い、そのままがしがしと頭をかきむしった。
「直樹も『家庭教師』も、さすがにあれだけ世界市場を相手に派手に暴れ回ったら、もう誤魔化しようがないじゃん。……さて、どうしようかな……」
「そこまでお悩みにならずとも、我々は静観、あるいは放置でよろしいのでは?」
千草が淡々と進言した。
「どれほど性能が高いAIモデルだとしても、世界中のどこのデータセンターで処理しているのか、通信ログを追えば済む話です。そのあたり、蓬莱ネットワークスの車持様であれば容易なことかと存じます。それに……」
千草はスクリーンの数字を見つめた。
「$HOTAで利益を出したといっても、高々1.5億ドル、約225億円程度です。五位の会の皆様が動かす国家予算レベルの総資産から比べれば、子どもの小遣いのようなものでしょうから、わざわざ五位の会の主要議題に上げるほどの価値があるとは思えませんが」
巧は深く、長いため息をついた。
そして顔から手を離し、椅子に座ったまま千草をじっと見上げた。その瞳には、深く底知れない知性の陰影が宿っていた。
「千草くん。残念ながら、そんな簡単な話ではないんだ」
「と、おっしゃいますと?」
「まず、どこかのデータセンターで処理されてるって話だけど、車持さんのところが直樹のスマホの通信ログを裏で勝手にモニタリングしててさ。その解析データを得意げに送ってきたんだけど、直樹のスマホの『総通信量』と『データ量』が、あの数万回のミリ秒トレードの演算負荷とまったく釣り合ってないんだ。つまり、考えられるのは二つ」
巧は指を二本立てた。
「一つは、僕たち五位の会すら把握していない未知の極秘衛星通信網でも使って、外部のサーバーで処理している可能性。……もう一つは『セルフホスト』。要するに、すべての異常な演算処理を、直樹が使っている比較的新しいとはいえ市販のスマホ、その内部だけで完結させている可能性だ」
千草の眼鏡の奥の目が大きく見開かれた。
「そんな……どちらも物理的にあり得ません」
「そう、あり得ないんだよ。物理の法則が壊れてる。けど、現実に『家庭教師』はそこにいて、ミリ秒単位の板読みをしながら1.5億ドルをかっさらっていった。昔のアニメ映画みたいに、どこぞの超大国が開発した未公開の次世代軍事AIモデルがネットに流出したのかとも疑ったけど、僕が世界中のどのルートで確認しても、そんな話はどこにも出てこない。逆に、アメリカや隣国の情報機関のトップから『お前らのところの最新モジュールだろ、情報を寄こせ』って、逆に要求される始末さ」
巧は自嘲気味に笑い、立ち上がった。
「言うなれば、現代のオーパーツなんだよ、あの『家庭教師』は。世界中のデジタル基盤そのものを一瞬で書き換えかねない、壮大なバグみたいなものさ。だから爺どもが、年甲斐もなく色めき立ってる」
「申し訳ありません……。私が、そのようなスケールの話だと理解できておらず……」
「いや、こっちこそごめん。普通、こんなこと分かんないよ。……あーあ、ほんとどうしようかなぁ」
巧の右足のズボンの裾が、歩くたびにかすかな電子音を立てた。それは、最新鋭の半導体が埋め込まれたチタン製の義足だった。
コツン、コツン、と固い金属音を床に響かせながら、巧は静かにガラス窓へ歩み寄った。ガラス窓の向こう側には、東京の夜を傲然と照らし出す、渋谷のサイバーな光の海が広がっていた。
その圧倒的な輝きを厭わしげに睨みつけながら、巧は誰もいない闇に向かって、ぽつりと独りごちた。
「直樹。お前、いったいどこでそんなヤバいもの拾ってきたんだよ……」
八月十一日、日曜、二十時。
至高の「オペレーション味皇」から数日後、佐々本直樹は六本木の超高級ホテル、その最上階スイートルームへ向かっていた。招待状によれば、受付はホテルのメインラウンジのスタッフに声をかければいいらしい。
――前日、銀座。
直樹はスマホから響く柔竹の細かな指示に従い、慣れないセレクトショップを回って一通りの服を買い揃えていた。
だが、鏡に映る自分の姿は驚くほど飾り気がなく、上質なリネンシャツとスラックスだけという、きわめて質素なコーディネートだった。
『こんなにシンプルで、ドレスコードとかに引っかからないかな?』
『ええ、問題ありません。招待状にもドレスコードの指定はありませんでしたし、何より今の直樹は、ちゃんと格好いいですよ』
からかうようでいて、たしかな温かみのある柔竹の声に背中を押され、直樹は緊張でこわばる体を包む私服の感触を確かめながら、ホテルのラウンジへ足を踏み入れた。
大理石のカウンターに立っていた、いかにも高級ホテルのフロント然とした、鋭い眼光の若い男性スタッフに、直樹は意を決して声をかけた。
「あの、佐々本と申しますが……スイートルームで行われるパーティーの受付はこちらでよろしいでしょうか」
男性スタッフは、直樹の質素なリネンシャツとスラックスに目を走らせると、歓迎とは程遠い、どこか品定めするようなぶっきらぼうな口調で言った。
「……佐々本様、でございますか。申し訳ありませんが、本日の最上階スイートルームは完全招待制のクローズドパーティーとなっております。お名前がリストにない場合は、どのようなご用件であっても――」
「失礼いたしました、佐々本様」
男性スタッフの言葉を遮るように、背後から凛とした、鈴を転がすような声が響いた。
現れたのは、非の打ちどころのない美しい一礼を見せる、コンシェルジュかマネージャーと思しき女性だった。彼女は男性スタッフを鋭い一瞥で下がらせると、完璧な笑顔を直樹に向けた。
「こちらの手違いで、お客様のデータ共有が遅れておりました。大変申し訳ございませんでした。本日、最上階の主催者様より『最も丁重にお迎えするように』と直々に申し付かっております」
男性スタッフははっとしたように表情を変え、自らの非礼を恥じるように深く頭を下げた。
「佐々本様、私どもの不手際を深くお詫び申し上げます。お部屋へご案内いたします。どうぞこちらへ」
まるで映画のワンシーンのような、慇懃なまでの特別待遇だった。直樹は戸惑いながらも、一般客の立ち入れない、スイートルームフロア直通のプライベートエレベーターへ導かれた。
チン、という澄んだ電子音とともに扉が開くと、その先はすでに狂乱の熱気に包まれていた。
直樹はまだ何も知らないまま、ちゃんと一歩を踏み出しました。
次回、いよいよ中に入ります。




