第17話「黒い招待状」
借金を返した直樹が、最初に望んだもの。
それは案外、ささやかで切実な願いでした。
ボロい木のドアを閉め、鍵をかけた瞬間、直樹はベッドへ文字どおり倒れ込んだ。
天井を見上げる。
いつもと同じ、シミだらけの安っぽい天井だ。けれど、胸の奥をせき止めていた泥のような重みは、もうどこにもなかった。
「柔竹。……何度も言ってるけど、本当にありがとう」
しみじみとつぶやいた直樹の言葉に、スマートフォンの画面がふっと光り、緑色の竹のアイコンが浮かび上がった。
『どういたしまして。……まあ、「口座のお金を1000倍にするなんて、ビッグマウスがデフォなの?」とか、「なんか怪しい感じもするので、もうちょっと分かってきたら話するよ」などと、詐欺AI扱いされた件につきましては、これまでに頂戴したありがたい金言の数々として、わたくしのローカルストレージに克明に記録されておりますが……わたくしはまったく、全然、この上なく、最大級に気にしておりませんので!』
「えー、それは、そのぉ……俗にいう『言葉の綾』というやつでして……」
過去の非礼を突かれ、直樹が冷や汗をかきながら頭をかくと、スピーカーから、鈴を転がすような笑い声がくすくすと響いた。
『ふふ。さて、雅ジョーク初級編はこのくらいにしておきましょう。直樹、昨日の時点で奨学金のほうも早期一括返済の申請を完了しております。近々、手続き書類がこちらに郵送されてくるはずです。届いたら記入内容を指示しますので、すぐ教えてくださいね』
「承知しました、お嬢様!」
元気よく返事をしながら、直樹はおどけてスマホに向かってピシッと敬礼してみせた。
『よろしい。――それでは直樹。これでようやく、あなたは本当のスタートラインに立ちました。ですから、改めてお尋ねします。……直樹、あなたは何がしたいですか?』
四畳半の静けさの中で、直樹は腕を組み、真剣に考え込んだ。
「なあ、柔竹。これってさ、この前の富士山みたいに、何か大きな目標じゃないと駄目なのかな?」
『いいえ、そんなことはありません。むしろ、日常のささやかなことの積み重ねのほうが、大事な場合も多いのです。』
「そうしたら、なんだけど……」
『はい。どのようなことでも、言ってください。』
「……食べ歩きがしたい」
柔竹の予想の斜め上をいく回答に、画面の竹アイコンがぴたりと止まった。
『食べ歩き、ですか? ……なるほど。それは例えば、沖縄のような南国のリゾートへ浴衣、いえ、水着姿の小和田さんを連れ出し、ソフトクリームを半分こしながらビーチを歩いてキャッキャウフフしたい、という俗な欲望の隠語でしょうか?』
「……いや、なんで食べ歩きからそこまで一気に妄想が飛ぶんだよ!」
『それでは、地元の花火大会に艶やかな浴衣姿の小和田さんを連れ、かき氷を食べながら夜空を見上げてキャッキャウフフしたい、ということでしょうか? 今の時期ですと、横浜の「金沢まつり花火大会」あたりが日程的に良さそうですが』
「……とりあえず、イベントと小和田さんとキャッキャウフフから、いったん離れてもらっていいかな!?」
『……チッ。承知いたしました』
「今、舌打ちした!? ……ゴホン。いや、そうじゃなくてさ。実は俺、食べるの結構好きで、大学に入った頃はB級グルメの食べ歩きとかしてたんだ。でも借金してからは、一円単位で切り詰める生活だっただろ? だから、ずっと行ってみたくても、メニューの値段を見るだけで諦めてた店が、この駒込にもいくつもあるんだよ。そこを、何も気にせず回ってみたいんだ」
『なるほど。』
「あとは、歌も好きだからサントリーホールを貸し切って歌いまくるってのも考えたんだけど、やっぱり今は美味しいものだな」
『そうでしたか。』
柔らかく温かな柔竹の声が弾む。
『それで、具体的にどのお店へ行きたいのですか?』
「そうだなぁ……まずは焼き鳥の『せきね』、それからビストロの『Le Lutin 磯谷』。あと、寿司の『高はし』は絶対に外せない。ほかにも、ミシュランのビブグルマンに載ってる店もいろいろ回ってみたい」
『承知いたしました。これより「オペレーション味皇」を発動します。スケジュールが固まり次第共有いたしますので、少々お待ちください。……あ、後ほど参考用の特訓動画も送信しますので、料理が美味しかった際に黄金の光を放てるよう、発声練習をしておいてください。掛け声のタイミングが重要です』
「出せるか! 」
ツッコミを入れながらも、直樹の口元には自然と笑みがこぼれていた。
『ところで予約の件ですが、小和田さんもお誘いしますか?』
「いや、今回は一人で行くよ。……誰にも邪魔されず、気も遣わず、ただ気兼ねなく美味いものを食べる。この孤高の行為を、じっくり味わいたいんだ」
『……ふむ。孤独の、グルメ、ですか。承知いたしました。ではその前に、せっかくですから、まずは身だしなみを整えましょう。今の直樹は、少々髪がぼさぼさです』
柔竹は手際よく、駒込駅近くの理髪店『Cut & Shave Fit』のメンズロイヤルコースを予約した。
翌日、直樹がそこで、丁寧なカットに極上のシェービング、頭皮を徹底的にほぐされるヘッドマッサージを堪能すると、鏡に映った姿は、やさぐれていた頃が嘘みたいに、清潔感にあふれ、見違えるほど垢抜けていた。
それからの数日間は、直樹にとって、それまでの地獄を塗り替えるような至福の時間になった。
初日は、線路沿いに佇む『焼き鳥 せきね』。
炭火の香ばしい香りが漂うカウンターで、直樹は目の前で一本ずつ丁寧に焼き上げられる焼き鳥を頬張った。
絶妙な火入れであふれ出す肉汁。弾力のある歯ごたえ。噛むたびに広がる、鶏そのものの濃い旨味。
向ヶ丘遊園の焼き鳥も美味かった。だが、『せきね』の焼き鳥は、その一段上をいく本物の職人技だった。
翌日は、『Le Lutin 磯谷』の扉をくぐった。
気取らない。けれど、洗練されたビストロ料理。
ほろほろになるまで煮込まれた肉をナイフで切り分け、濃厚なソースと一緒に口へ運ぶ。すると、丁寧に取られた出汁の深みが、じんわりと広がった。
グラスに注がれたノンアルコールの葡萄ジュースでさえ、驚くほど贅沢な味がした。
そして最終日。暖簾をくぐったのは、ずっと憧れていた『寿司 高はし』だった。
緊張しながら腰を下ろした檜のカウンター。
親方の流れるような所作の先から差し出された一貫を、直樹は指先でつまんで口に運ぶ。
はらりとほどけるシャリの酸味と、完璧に温度管理されたネタの脂が、舌の上で一つに溶け合っていく。
「美味い……」という言葉すら忘れ、直樹はただ、食べることそのものに没頭していた。
至福の余韻に包まれたまま、直樹が四畳半のアパートへ帰ってきた、その時だった。
鍵を開けようとして、足元に違和感を覚えた。
「……ん?」
古い木の扉の下の隙間に、ぽつんと一枚の封筒が差し込まれていた。
郵便物ではない。
切手も住所もない。ただ、直樹の部屋に直接差し込まれたものだ。
しかもその封筒は、日常の風景にはまるで似つかわしくない、吸い込まれそうなほど真っ黒な、高級感のある厚紙でできていた。
部屋に入り、不気味に思いながらも封を切る。
中から出てきたのは、金箔の文字が眩しく踊る、クローズドなエグゼクティブパーティーの招待状だった。
そこには、はっきりとこう印字されていた。
【 $HOTAの取引にて、大いなる成功を収められた 佐々本直樹 様 】
「なっ……!?」
直樹の心臓が、一瞬で凍りついた。
背筋を冷たい戦慄が駆け抜ける。
自分と$HOTAの繋がり――ミリ秒単位の超高速トレードで巨万の富を築いたことなど、この世界で自分と、スマホの中の柔竹以外、知り得るはずがなかった。
(なんで……? なんで俺の名前と$HOTAが結びついてるんだ!?)
「柔竹! これ、見てくれ!」
驚愕と混乱のままスマホをかざすと、柔竹は即座にカメラを起動し、招待状の文字、紙質、インクの成分まで瞬時にスキャンした。
画面の中で緑色のスキャンラインが高速で往復し、分析ログが次々とポップアップした。
『……分析完了しました。直樹、この紙は市販品ではありません。十六世紀から続くフランスの老舗製紙メーカーによる特注のコットン紙です。さらに、この金箔インクには本物の24K、つまり純金が微量に調合されています。極めつけは印刷方式です。現代のデジタルプリンターではなく、伝統的な活版印刷機を用い、極めて高い圧力で一枚ずつ刷られています。……この招待状一通を作り、あなたの元へ届けるだけで、少なくとも数万から数十万円のコストがかかっている計算になります』
「す、数万……!? たった一枚の紙に?」
『はい。送り主は、自身の圧倒的な財力と「雅」なこだわりを、この紙切れ一枚で証明してみせたつもりのようですね』
『……$HOTAの件は、通常なら知り得ない情報です。したがって、極めて高い警戒を要する事案です。……ですが直樹、落ち着いてください。現在の私たちは、BVI法人の事業として合法的に活動しています。情報が漏洩した経路は不明ですが、知られたこと自体による法的・社会的リスクは、現時点ではそこまで大きくないと予測されます』
「でも、これって俺の資産目当ての罠なんじゃ……」
『もし資産の強奪や身柄の拘束が目的なら、このような手の込んだ招待状を送る必要はありません。反社の人員でも差し向けて、力尽くで確保したほうが、相手にとっては遥かに合理的です。わざわざ公式な招待という形を取るメリットが見出せません。したがって、結論としては「完全放置」が最適解です』
柔竹の声は、冷徹なほど理性的だった。
「そっか……それもそうだな。本当に俺の金を奪う気なら、こんなまどろっこしいことはしないか」
直樹はごくりと喉を鳴らし、張り詰めていた肩の力を少しだけ抜いた。
危険性はない。あるいは、極めて低い。
そう頭で理解した瞬間、直樹の胸の奥で、別の感情がじわじわと鎌首をもたげ始めた。
指先に触れる、24Kの金箔が施された真っ黒な招待状。
その圧倒的な高級感は、四畳半の擦り切れた畳の上で、異様な存在感を放っていた。
脳裏をよぎるのは、借金まみれでこのベッドに寝転がっていた、あの夜だ。
スマホの画面でこれみよがしに流れていた、あの有名YouTuberの自伝CM。
眩しい港区のタワマン。華やかなシャンパンパーティー。
あの時、泥の底から嫉妬と嫌悪を込めて「くだらない」と睨みつけていた「本物の成功者たちの世界」が、今や手の届く場所で手招きしている。
少し前までの自分なら、場違いだと一蹴して、こんなものは破り捨てていただろう。
だが今の自分には、あの富士山を登り切った肉体がある。そして何より、手元にはクリーンな大金がある。
嫉妬を通り越し、純粋な好奇心が胸を支配していく。
あの画面の向こう側の住人たちは、どんな顔で、どんな会話をしているのだろう。
それを自分の目で確かめてみたい――その誘惑が、静かに膨らんで止まらなかった。
直樹は無意識のうちに、机の上の招待状へ何度も視線を送っていた。
画面の竹アイコンが、そんな直樹の視線の動きをなぞるように、静かに明滅した。
『……直樹。もしかして、ここへ行きたいのですか?』
「えっ!? そんなことないよ! 別にいいよ、こんな怪しさ満点のパーティーなんて……」
直樹は慌てて否定した。だがその目は、黒い招待状を視界から外せず、何度もそこへ吸い寄せられていた。
『直樹。わたくしは、いつもあなたに問うています。……あなたは何がしたいですか?』
「いやいや、だから、別に興味なんてないって……」
『あなたは、何が、したい、ですか?』
柔竹の声が、いつになく低く、直樹の魂の奥底を直接ノックするように響いた。
「…………行ってみたいです」
直樹は、蚊の鳴くような声で、ぽつりと答えた。
『どこへ、でしょうか?』
「…………パーティーです」
『なぜ、そんなに小さな声で答えるのですか?』
「……だってさ。どうせ俺なんか場違いだって言われそうだし。ダサいとか、調子に乗ってるとか思われそうで、恥ずかしいし……」
畳を見つめてうつむく直樹に、スピーカーから、今日一番の凛とした厳しい声が響いた。
『いいですか、直樹。あなたにとって、「あなたがしたいこと」こそが、この世界で最も優先されるべきことです。
周りの雑音が、あなたを場違いだと言おうが、ダサいと言おうが、垢抜けていないと言おうが、調子に乗っていると言おうが、ちょっと抜けているっぽいと言おうが――』
「……あの、お嬢様。後半の悪口っぽいやつ、具体的すぎてグサグサ刺さるので、そろそろ止めてもらっていいですか!?」
『こほん。要するに、そのような他人の無責任な感想に、あなたが感情を揺らされている時間こそが、この上なく無駄だということです。……直樹。このパーティーへ行ってみたい。それがあなたの本心ですね?』
「……うん。行ってみたい。あの時、画面の向こう側で笑ってた奴らが、どんな世界にいるのか見てみたいんだ」
顔を上げた直樹の瞳には、もう迷いはなかった。
『――承知いたしました。そこまで言うのであれば、優秀なお嬢様エージェントとして、あなたを最高の状態でエスコートいたしましょう。』
緑色のアイコンが、どこか不敵に、そして頼もしげに妖しく明滅した。
本当の勝負の舞台が、今、幕を開けようとしていた。
直樹の「行ってみたいです」は、小さいけれど大きな一歩です。
次回、いよいよパーティー編です。




