第16話「完済、そして監視」
自由になるはずの日。
けれど、世界はもう次の段階に入っていました。
第五章:宴の後
新宿歌舞伎町の喧騒から一本裏に入った路地。直樹は、かつて見上げるだけで胃が縮んだ八階建ての古い雑居ビルの前で、ゆっくり深呼吸した。
見上げた空は、皮肉なほど澄んで青かった。ジーンズのポケットには、かつてのように熱を帯びたスマホではなく、冷たさを取り戻した相棒が静かに収まっている。
(行ける。もう、あのときみたいに黙って怯えるだけじゃない)
『直樹、大丈夫です。準備は整っています。堂々と行きましょう』
イヤホン越しに響く柔竹の明るい声に、直樹は小さくうなずいた。昨夜、四畳半のアパートで交わしたやり取りが、不意に脳裏によみがえった。
『では、全額返済の意思を先方に伝える前に、契約書をアップロードしていただけますか?』
「了解」
直樹は短く返した。昨日までなら、ファイル名を見るだけで指が止まったはずの忌まわしいデータだ。それなのに今の直樹は、宝箱でも探るみたいにそれを引っ張り出している。我ながら現金だ、と苦笑が漏れた。
『ありがとうございます。確認します。……なるほど。これは直樹本人の直接借入というより、実質的には連帯保証人の立場に置かれていますね。目立って不自然な特約も見当たりません。では、一括返済の手順を確認するメールを作成します』
直樹のスマホ画面に、メールの文面がカタカタと打ち出されていく。一見きちんとしたビジネスメールだ。だが、読み進めるほどに、どこか時代錯誤めいた響きが混じっている気がした。
「……ねえ、柔竹。この文末の『かしこ』って何? 全体的に、妙に平安貴族っぽいんだけど。ビジネスメールって、こんな感じなの?」
『何か問題でも? 敬意と気品を兼ね備えた、由緒正しい結びですが』
「いや、問題しかないだろ。相手は令和の会社だよな?」
『……承知しました。「かしこ」は削除しました』
「そこだけ!?」
メールは、送ったそばから返ってきた。
「……早いな」
要するに、「手続きにあたり状況を確認したいので、一度来店してほしい」という内容で、メールの末尾には小さな注意書きが添えられていた。
【本年1月1日より社名が変更となり、『トキワ総合金融』から『豊葦ファイナンシャルソリューションズ』となりました】
「そういえば……」と、直樹は思い出したように呟いた。「このところ、毎月うるさかった事前確認の督促電話がパタリと来なくなってたんだよな。社名変更とかでバタバタして、俺のこと忘れてたのかな。こっちは気持ち的に楽だったから良かったけど」
その瞬間、スマホの画面の中で、緑色の竹のアイコンが一瞬だけ、鋭く明滅した。
『そうですか。……ちなみに直樹、この契約書を、過去に誰かに見せて相談したことはありますか?』
「え? いや、一度巧にうるさく言われて少し見せたくらいで、後は誰にも見せてないけど。……何かあった?」
『いいえ。念のための確認です。さあ、今日は寝ましょう。』
――そんなやり取りを思い出しながら、直樹はビルのエレベーターに乗り込んだ。
ガタガタと頼りない音を立てて、エレベーターの扉が開く。七階のフロアは以前と変わらず薄暗く、左右には二つの重い鉄扉が並んでいた。左奥が、かつての『トキワ総合金融』だった場所だ。
だが、扉の前に立った直樹は目を瞬かせた。
以前そこにあった、時代遅れの安っぽい明朝体の社名プレートは跡形もなく消え、代わりに【豊葦ファイナンシャルソリューションズ】と刻まれた、すっきりと高級感のあるアクリルプレートが掲げられていた。
「……へえ。会社が変わるって、こういうことか」
直樹は小さくノックをし、重い鉄扉を押し開けた。
「すみません、十三時にお約束した佐々本ですが……」
一歩足を踏み入れた瞬間、直樹は場所を間違えたかと思い、思わずもう一度扉のアクリルプレートを確かめた。
かつてこの空間を支配していた、男たちの怒鳴り声も、充満するヤニ臭さも、パイプ椅子のきしみも、すべて消え去っている。代わりにあったのは、目に優しいナチュラルグリーンのパーテーションで機能的に区切られた、静かで驚くほど綺麗なオフィスだった。ほのかにアロマの香りすら漂っている。
「佐々本様ですね。本日はご来店いただき、誠にありがとうございます」
パーテーションの奥から現れた女性を見て、直樹は再び妙な違和感を覚えた。
三十代前半。細いフレームの眼鏡をかけ、隙のない空気をまとった、いかにも仕事のできるキャリアウーマン。
……のはずなのに、彼女が身にまとっているのは、一世代前の地方銀行の受付が着るような、少し野暮ったい古い事務員制服だった。彼女自身の洗練された雰囲気と衣装のちぐはぐさが、かえって妙に目を引く。
「私、豊葦ファイナンシャルソリューションズの千草と申します」
名刺を差し出す所作から、案内する手つきに至るまで、街金には似つかわしくない、高級ホテルのコンシェルジュめいた完璧な身のこなしだった。
奥の静かな会議室に通され、窓際の席を示される。
「この度は一括返済のお申し出、誠にありがとうございます」
千草は対面の席に腰を下ろすと、眼鏡の奥の怜悧な瞳で、直樹の顔をまっすぐ見つめた。
「早速ですが、手続きに入る前に、現在の状況について少々確認をさせていただいてもよろしいでしょうか。……大変不躾なお願いではございますが、昨今、犯罪行為や不正な手段で得た資金を原資として返済に充てられるケースが増加しております。そのため、今回の返済原資となった資金の『入手経路』について、皆様にご説明をお願いしております」
「え……」
直樹は一瞬、言葉に詰まった。
三百万の出所。まさか、AIエージェントが数日前のミームコイン暴騰の裏で何万回もの超高速トレードを繰り返し、巨額の利益を叩き出したうちの一部を役員報酬として還流させた、などと言えるはずがない。
直樹の背中に冷たい汗が流れた、その瞬間。耳のイヤホンから、柔竹の冷静な指示が滑り込んできた。
『暗号資産のトレードです。ビットコインとソラナ、と答えてください』
直樹は小さく唾を飲み込み、平静を装って口を開いた。
「あ、えっと……暗号資産の、トレードです。何年か前から少しずつ買っていた、ビットコインとかソラナが、運よく値上がりしまして……それで、一括で返せるだけの利益が出たので」
「なるほど、暗号資産ですか」
千草は表情を変えず、手元のタブレットへ視線を落とした。
「主要銘柄の長期保有というわけですね。……ちなみに、それ以外のトレードはされなかったのですか? 例えば……ここ数日、市場を騒がせているようなミームコインの類ですとか」
心臓がドキン、と跳ねた。ミームコイン――まさに【$HOTA】のことだ。
千草の視線が、直樹の目元から机上のスマートフォンへと滑り、まるでスキャナーのように冷徹に観察してくる。凄まじいプレッシャー。しかし、直樹は駒込の四畳半でした柔竹との「約束」を思い出し、ぐっと踏みとどまった。
「……いえ。そういう危ないものには手を出していません。それ以外は、ありません」
「さようでございますか」
千草はそれ以上追及することなく、ふっと口元に営業用の笑みを浮かべた。
「色々と細かいことをお聞きしてしまい、失礼いたしました。疑うような真似をして申し訳ありません。それでは、完済の手続きに移らせていただきます」
そこからの手続きは、拍子抜けするほどあっさりしていた。
提示された振込先口座を確認し、直樹はその場でスマホのインターネットバンキングを操作して振込を実行する。
柔竹の完璧な裏での手回しにより、着金確認は一瞬で完了した。いくつかの書類に署名と捺印を済ませると、千草は深く一礼した。
「確かに、全額の着金を確認いたしました。これにて、佐々本様の債務はすべて消滅いたしました。長らくのご利用、誠にありがとうございました」
「……ありがとうございました」
ビルを出て、新宿の雑踏に飛び出した瞬間、直樹は天を仰いで小さな雄叫びをあげた。
「よっしゃあああああ……!!」
肩の荷が下りる、という程度ではない。
全身の血が入れ替わったかのような圧倒的な解放感。今度こそ、本当に、俺の人生を縛り付けていた地獄の鎖が、跡形もなく断ち切られたのだ。
――その頃。
豊葦ファイナンシャルソリューションズの七階、窓際の会議室。
千草柊は、ビルの下で小さくガッツポーズをして歩き去っていく直樹の後ろ姿を、冷たい瞳で見下ろしていた。
お仕着せの野暮ったい制服のポケットから私物のスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきで特定の番号を発信する。コールは一回でつながった。
「……はい、千草です。いま、すべて終わりました。……ええ、予想どおり、彼は【$HOTA】については一切口にしませんでした。ビットコインの長期保有という、古典的な嘘を」
電話の向こうから返ってきた、若き天才の静かな声に、千草は眼鏡のブリッジを指先で押し上げながらうなずいた。
「はい。彼のスマートフォンの挙動、および対面時のデータはすべて回収してあります。後ほど、詳細な分析レポートをお送りします。……失礼いたします」
通話を終えた千草は、スマホをポケットに戻すと、すでに群衆の中に消えた直樹の残像を追うように、遠い街並みをいつまでも見つめていた。
借金完済そのものは一つの到達点ですが、この章ではそこがゴールではありません。
むしろ、ここからが本番です。




