9.血の誘惑
sideエレノア
遠征中、結局タブレットを見つけられなかった私はローゼルを頼るしかなかった。
森の奥深くで…ローゼルの部屋で…来る日も来る日も人目のないところを探しては、ローゼルの腕に牙を立てる。
本当は好きな人の、ローゼルの血など求めたくなかった。
せめて彼の前でだけは、ただの人間でありたかった。
だが、タブレットがない今、どうしても血を求めずにはいられない。
理性が呆気なく崩壊し、本能が私を支配する。
ーーー目の前の男の血を喰らいたい、と。
遠征5日目の夜。
私は今日もローゼルの部屋に訪れ、欲望のままに隣に座っているローゼルの左腕に舌を這わせていた。
騎士として鍛え上げられたしっかりとした腕に、唇を押し当てて、夢中でその甘い血をすする。
それと同時に流れる甘い電流は私をおかしくさせ、虜にした。
「…んん、ふぅ」
…もっと、もっと、もっと!
無我夢中でただただローゼルを喰らい続ける。
やめたいと思えない。この快楽に身を任せて、ずっとこうしていたい。
「…っ」
いや、ダメ…っ!これ以上は…っ!
まるで人間を捕食するバケモノのような思考に、一瞬だけ、正気を取り戻しかける。
しかし、そんな私の耳元で、ローゼルはどろどろに砂糖を煮詰めたような甘い声で囁いた。
「我慢しないで、エレノア」
ローゼルの言葉がわずかに戻りかけた私の理性をグラグラと揺らす。
必要最低限でいい。そうでなければ、ローゼルが死んでしまう。
私は人の血を喰らうバケモノになんてなりたくない。
確かにそう思っているはずなのに、あと少しだけ、とローゼルからどうしても口を離せない。
「ん、エレノア…」
ローゼルから甘い吐息が漏れる。
ローゼルの端正な顔はほんのりと紅潮しており、悩ましげに下がられた眉はまるで快楽に耐えているようだ。
私の吸血行為は私にだけではなく、ローゼルへも甘い快楽を与えているようだった。
私とローゼルの甘い吐息がこの静かな部屋に小さく響き続ける。
その中でローゼルに優しく頭を撫でられ、胸がぎゅうと締め付けられた。
まるで恋人同士のような甘い雰囲気の2人。
けれど、これは決してそんなものではない。
捕食される者と捕食する者。
ただそれだけの関係なのだ。
だが、ローゼルは優しく、何よりも私に恩義を感じている為、こうして私を気遣う仕草をいつも見せていた。
私が苦しんでいるから自らの血を差し出しているだけ。
それだけに過ぎない。
私とローゼルは恋人ではないし、夫婦でもない。
決してそうはなれないとわかっているからこそ、擬似的にそのような体験をしてしまい、胸が苦しくなる。
涙がまた溢れた。
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ーーーー
ーーー
気がつけば私の中の血を求める本能は収まり、ローゼルから口を離していた。
1日に必要な血を摂取でき、今度こそ本当に正気を取り戻せたのだ。
やっとローゼルから離れた私に、ローゼルは残念そうに、甘やかすように言った。
「俺が死ぬまで飲んでよかったんですよ?」
心臓がドクンッと跳ねる。
罪悪感でいっぱいなのに、好きという感情が溢れて止まらない。
二つの感情がぐちゃぐちゃに混ざって、私をおかしくさせていく。
いつもローゼルは私を助けて、こうして地獄へと堕とす。
ゆっくりと沈んでいく体に、私はただただ身を任せることしかできなくて。
まるで、悪夢だ。
それもとびきり甘い。
そう、私はいつも思っていた。
でも大丈夫。
この甘い悪夢もこの遠征中だけだから。
*****
何事もなく討伐遠征は終了し、私たちは予定通りの日程で帝都まで戻ってきた。
やっと息もできないほどの甘い悪夢が終わったのだ。
皇宮内の騎士団宿舎前で解散した今回の遠征部隊の参加者たちは、それぞれが帰路へとつく為に動き始めた。
2日間、休むことなくずっと移動してきたので、みんな、疲れの色がある。
その中で私も1週間分の遠征の荷物を肩にかけると、みんなと同じように、皇宮外へと足を進めようとした。
「エレノア」
だが、私の前に現れたローゼルによって、その足は止められた。
いつもと変わらない無表情なローゼル。
しかし、何か言いたげな瞳に胸騒ぎがする。
今日で悪夢は終わりだ。
もう、私はローゼルから血をもらう必要はない。
それなのに私を見つめるローゼルの紫の瞳は、私に血を与える前と同じで。
「…ローゼル。私はもう大丈夫よ。1週間、本当にありがとう。お礼は必ず…」
「いえ」
努めて明るく笑う私の言葉を、ローゼルが冷たい声音で制する。
それから何も言わずに私の荷物をヒョイっと取り上げると、そのまま私の手を引いて歩き出した。
「ロ、ローゼル…!?」
突然のことに驚いてしまったが、この手を振り払おうとは思えない。
私を優しく掴むローゼルの熱が、私の体温を少しずつ上げていく。
こちらに背を向け、無言のまま進むローゼルの背中に、どうしても愛おしい気持ちが溢れて止まらない。
抗いがたい熱に身を任せて、私はローゼルと共に進んだ。
*****
ローゼルに連れられてやって来たのは、騎士団宿舎内にある、おそらくローゼルの部屋だった。
初めて訪れる場所なので、濁すような言い方をしたが、この部屋の鍵をローゼル自ら開けていたので、ほぼ間違いないだろう。
一人暮らしをするにはちょうどいい広さのここには、ベッドと書類仕事をする用のデスクとソファと机などがあった。
散らかっておらず、整理整頓されたここはかなり綺麗で落ち着きのある場所だった。
ローゼルらしい部屋だ。
そんな感想を抱くと同時に、鼻いっぱいにローゼルの爽やかでどこか甘い香りが広がる。
その香りに私はやはりここがローゼルの部屋であると確信した。
私から手を離したローゼルが私の荷物を丁寧にソファの上へと置き、こちらにゆっくりと近づく。
それから真剣な表情で、徐に口を開いた。
「エレノア。アナタは先ほど俺への感謝を伝えてくれました。まるで、今日がこの関係の最後であるかのように」
一歩、また一歩とこちらへと歩みを進めるローゼルに、ドクンッと心臓が跳ねる。
全てを聞かなくとも、彼が何を言いたいのかわかってしまった。
けれど、どうか勘違いであって欲しいと願う。
そうでなければ、私は悪夢から目覚めることができない。
「そ、そうよ?今日で終わりよ?もうローゼルに頼らなくても私は…」
タブレットがあるから…。
そう伝えたかったのに、その先が出てこない。
目の前まで迫ったローゼルがあまりにも仄暗い瞳で私を見つめていたからだ。
何故、そんな目で私を見るの?
ローゼルの紫の瞳はいつもアメジストのような輝きを放っていた。
それなのに、その輝きは今はない。
彼の仄暗い瞳の理由がわからず、固まっていると、ローゼルはおかしそうに瞳を細めた。
「本当に終わりなんですか?こんなに美味しいって、気持ちいいって、知ってしまったのに、本当に終われますか?」
それだけ言って、ローゼルが自身の腰へと手を伸ばす。
ローゼルはその先にある短剣を手に取ると、鞘を投げ捨て、刃を自分の首へと当てた。
ローゼルの突然の行動に血の気が一気に引く。
あんなところにナイフを当てるなど、一歩間違えれば命に関わる。
死んでしまうというのに。
「…い、あ…っ」
…やめて!
そう心では叫んでいるのに、私の口ははくはくと一生懸命動かされるだけで、一言も出せない。
そんな私の様子を暗い瞳で見つめながら、ローゼルはついにナイフを動かした。
ナイフによってできた切り傷から、血がゆっくりと流れ落ちていく。
「…っ!」
その光景があまりにも扇情的で、私の本能を煽った。
体の奥から熱を感じ、喉がカラカラに乾いていく。
とても、美味しそうだ。
先ほどまではなかった感覚に、何故、と嫌悪感を抱く。
だが、その嫌悪感は私の中に際限なく広がる欲望によって、すぐに消えていった。
食べてしまいたい。
滴る血に、赤く染まっていく騎士服。
私を見つめるローゼルの瞳はどこか熱っぽく、まるで何かを切実に求めているようで。
…だ、だめ。
私は自分の抑えきれない本能に、まぶたを強く閉じた。
私にはもうタブレットがある。
今までは緊急を要していた為、仕方なくローゼルから血をもらっていたが、今はその必要はない。
今欲望に任せて、ローゼルの血を吸うということは、自ら〝バケモノ〟であることを選んだことになる。
そう強く思っているはずなのに、誰にも吸われず、流れていく血を、私はどこかでもったいないと思ってしまった。
ふらり、と足が動く。
まるで吸い寄せられるように、ローゼルの首へと顔を近づける。
目の前に迫る逞しい首筋と美しい赤。
あとたった数センチ。舌を伸ばすだけ。
「…」
しかし私はギリギリで自分を制した。
バケモノなんてなりたくない。
「飲んでいいですよ?エレノア。俺を殺してください」
やっとの思いで止まった私に、ローゼルの柔らかな囁きが届く。
その囁きはわずかに残っていた私の理性を粉々に崩壊させた。
気がつけば私はローゼルの首に下を這わせ、唇を寄せ、夢中になって、ローゼルの血を味わっていた。
「んん…」
ーーーああ、私の悪夢はまだ終わらない。




