第99話 契約の天秤
暖炉の薪が、爆ぜる音を立てた。
夜。宿の部屋。リーゼもマルクスも、それぞれの部屋に戻っていた。暖炉の前に残ったのは、俺とメルティアの二人だけ。テーブルの上に紅茶が二つ。湯気が立っている。紅茶の匂いが琥珀色の光として、カップの上に浮かんでいる。感覚侵食。慣れた色。
メルティアが、いつもの場所に座っていた。赤い瞳が暖炉の炎を映している。炎が揺れているのに、瞳の中の炎は揺れていなかった。何かを考えている時の目。千年の存在が、言葉を選んでいる時の目。
しばらく、二人とも黙っていた。薪の爆ぜる音。窓の外の虫の声。紅茶の湯気。静かな夜だった。
「カイト」
メルティアが口を開いた。
♪がなかった。
メルティアの声に♪がない時は、本気の時だ。千年の存在が、軽さの仮面を外す時。赤い瞳が、炎から俺の方に動いた。
「一つだけ、伝えておかなければならないことがある」
◇
「契約を解除すれば」
メルティアの声が、静かだった。
「あなたの魂は、死後に悪魔界に落ちなくなる。私との契約がなくなるから。そして——魔印の進行も、止まる」
魔印が止まる。
その言葉に、心臓が一度、大きく打った。
「魔印は、悪魔契約の証よ。契約があるから、魔印がある。契約を解除すれば、魔印の根本原因が消える。進行も止まる。今ある紋様も、時間をかけて薄れていく。……あなたは助かる」
助かる。最もシンプルな答え。魔印の根本原因を断つ。悪魔契約を解除すれば、全てが解決する。三者同時操作も、聖剣の吸収も、要らない。シアの旅も、ユイの危険も、リーゼの覚悟も、要らなかった。
そんな簡単な答えが、あったのか。
口の中の鉄の味が、急に濃くなった気がした。魔印の味。契約の味。これを消せば、全部終わる。シアが今も山を旅している。ユイが指を火傷させながら結び目を視た。リーゼが父を殺した剣を握る覚悟をした。みんなが、もっと複雑な道を選んで動いている。なのに、こんなシンプルな答えがあった。
暖炉の薪の匂いが赤い波紋として壁に揺れた。いつもの感覚侵食。その赤が、なぜか血の色に見えた。
「だが——」
メルティアの声が、震えた。
初めてだった。メルティアの声が震えるのを聞くのは。千年の存在が、言葉の途中で声を震わせた。
「契約を解除すれば、あなたは全属性を失う。魔印の力は、悪魔契約から来ている。契約がなくなれば、全属性も消える。あなたは——ただの人間に戻る」
ただの人間。全属性使いではなくなる。蝕も使えない。封印修復ができない。冥渦を封じる力が、なくなる。
「世界を守れなくなる」
メルティアの言葉が、暖炉の前に落ちた。
冥渦はまだ大陸中に開いている。封印を直せるのは、俺の蝕だけだ。契約を解除して全属性を失えば、誰が封印を直す。レクスは剣で物理的に塞ぐことしかできない。シアの調和は浄化の補助。ユイは視ることしかできない。蝕を使えるのは、俺だけだ。
俺が力を失えば、世界が壊れる。
「そして」
メルティアの赤い瞳が、潤んでいた。炎の光を映して、濡れた赤が揺れている。
「私は、契約者を失う。……悪魔は、人間界に留まるために依代が要る。契約者が、その依代よ。契約を解除すれば、私は人間界での足場を失う。悪魔としての力の基盤が、揺らぐ。……消えるかもしれない」
消える。
メルティアが、消えるかもしれない。契約を解除すれば。俺を助けるために契約を解除すれば、メルティアが消える。
それは、考えていなかった。魔印を消す方法ばかり考えていた。シアの調和。ユイの結び目。リーゼの聖剣。どれも「俺を助ける」方法だった。だが、契約解除という方法は——俺を助ける代わりに、メルティアを消す。メルティアが、最初からその可能性を知っていて、それでも俺に伝えた。「最もシンプルな解決法」として。自分が消えるかもしれない選択肢を、解決法として差し出した。
◇
メルティアが紅茶を啜った。両手でカップを包んで。赤い瞳が、カップの中の紅茶を見ている。
「千二百年前にも、同じ天秤があったわ」
声が、遠くを見ていた。
「彼を救うために、私は天界の法を破った。あの時、私は一人で選んだ。彼に相談しなかった。彼が止めるのが分かっていたから。だから、勝手に選んで、勝手に堕ちた。……彼を救って、私は翼を失った」
メルティアの指が、カップの縁をなぞった。
「今、また同じ天秤の前にいる。あなたの命を救うか。世界を救う力を維持するか。契約を解除すれば、あなたは助かる。でも世界を守れなくなる。そして私は消えるかもしれない。契約を維持すれば、あなたは魔印で死ぬかもしれない。でも世界を守る力は残る」
赤い瞳が、俺を見た。濡れた赤。だが、まっすぐな赤。
「千二百年前は、私が一人で選んだ。彼の意志を無視して。……今度は、そうしない」
メルティアが、カップを置いた。
「この天秤を、あなたに預ける。あなたの命のことよ。あなたの力のことよ。あなたが選ぶ権利がある。私が勝手に決めない。……カイト。あなたは、どうしたい?」
暖炉の炎が揺れた。メルティアの赤い瞳が、答えを待っている。
契約を解除すれば、俺は助かる。だが世界を守れなくなる。メルティアが消えるかもしれない。契約を維持すれば、世界を守る力は残る。だが俺は魔印で死ぬかもしれない。
二つの皿が、天秤の上で揺れていた。
どちらの皿にも、誰かの命が載っている。
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