第100話 俺の答え
第100話 俺の答え
紅茶の湯気は、もう立っていなかった。
俺が黙り込んでいる間、メルティアは急かさずに待っていた。暖炉の火が時々爆ぜて、蜜蝋の蝋燭が低く燃えている。赤い瞳が、こちらの言葉を待っている。
契約を解除すれば、魔印は止まる。命も助かる。ただ「解除してくれ」と言えばいいだけだ。それで全部が終わる。首を巡る黒い紋様も、舌に張りついた鉄の味も、匂いが色になって見えるあの感覚も、何もかも消えていく。
一瞬だけ、その先を想像してしまった。
朝、パンを齧っても橙色の光は浮かばない。ただのパンの味がするだけだ。リーゼの声はただの声として耳に届いて、腕に振動は走らない。メルティアの紅茶は、鉄の味に邪魔されることなく、ちゃんと甘い。普通の朝が、普通の世界が、手を伸ばせば届くところにある。
冷めた紅茶を、一口だけ飲んだ。鉄の味の下で、ぬるい紅茶がゆっくり喉を通っていく。
カップを置いた。
「契約は、解除しない」
メルティアの赤い瞳が見開かれた。
「……カイト」
「封印を直せるのは、俺だけだ」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「契約を解除して全属性を失ったら、残りの冥渦を誰が封じる。レクスは剣で塞ぐだけだ。シアの調和は補助にしかならない。ユイは視ることしかできない。蝕を使えるのは、結局のところ俺だけなんだ」
「世界のために、自分の命を捨てるの」
「違う」
即答すると、メルティアが小さく息を呑んだ。
「捨てない。俺の命も、世界も、両方拾う。……ユイは結び目を解けると言った。シアは調和を覚えに行ってる。三人で同時にやれば、契約を捨てなくても魔印を止められる道がある」
「それは」
メルティアの声が硬くなった。赤い瞳が、炎の揺らぎを映したまま俺を捉えている。
「賭けよ。三者同時操作が成功する保証なんて、どこにもない。シアの調和はまだ完成していないし、ユイの体が持つかどうかも分からない。失敗すれば魔印は進み続ける。確実に助かる道があるのに、それを蹴って、不確実な賭けに全部を載せるの」
「ああ」
「死ぬかもしれないのよ」
「分かってる」
メルティアの赤い瞳が揺れた。俺は逸らさずに、その瞳を見返した。
「確実に助かる道を選んで、他の全部を捨てるのは——俺じゃない」
暖炉の火が爆ぜて、火の粉が一瞬だけ赤く散り、すぐに闇に溶けた。
メルティアはしばらく俺を見つめたまま動かなかった。揺れる赤い瞳から、怒っているのか呆れているのかは読み取れない。やがてその口元が、ゆっくりと緩んだ。
笑っていた。
涙は流れなかった。流れそうになるのを、瞼の縁でこらえている。赤い瞳の際がほんの少しだけ濡れて光って、それだけだった。
「……そう言うと思った」
♪のない、低い声だった。
「あなたは、いつもそう。手の中のものを一つも手放さない。命も、世界も、仲間も、妹も。全部抱えたまま進もうとする。……強欲ね」
メルティアが冷めた紅茶へ手を伸ばしかける。
「強欲は」
俺はその手の動きを見ながら言った。
「悪魔の得意分野だろ」
メルティアの手が、止まった。
一拍の沈黙のあと、赤い瞳が悪戯っぽく細められた。
「……失礼ね♪」
戻ってきた♪は、泣き笑いのように揺れていた。冷めた紅茶を啜るメルティアの肩が、小さく震えている。笑っているのか泣いているのか、もう判別はつかなかった。たぶん、その両方だったのだと思う。
暖炉の火がまた爆ぜて、窓の外では虫が鳴き続けている。
契約は維持する。全属性も、世界を守る力も、メルティアも、何一つ手放さない。その代わりに、賭けに出る。シアの調和と、ユイの目と、俺の蝕。三つが揃った時、魔印の結び目を解く。間に合えば助かる。間に合わなければ——その先は、考えないことにした。
窓の外を、流れ星が一つ横切っていった。
紅茶に目を落としていたメルティアは、気づかなかった。
願い事をする時間はなかったが、もう願うまでもない。
答えは、決めた。
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