第101話 末期の手紙
その夜の風読みは、いつもより短かった。
暖炉の前に届いたアリアの声を聞きながら、俺は妙な胸騒ぎを覚えていた。レクスからの手紙は、いつもならもっと長い。前線の様子や、斬った魔物の数や、減らず口の一つや二つが必ず混じっている。だが今夜のアリアの声は、最初の一言から硬かった。
「レクスさんから。……読むね」
メルティアが紅茶のカップを置き、リーゼが本から目を上げ、マルクスがペンを止めた。部屋にいる全員が、暖炉の火の音だけを残して静かになった。
「『カイト』」
アリアがレクスの言葉を一つずつなぞっていく。
「『右腕が、動かなくなった』」
暖炉の火が、低く爆ぜた。
「『剣を左手に持ち替えた。まだ戦える。片手でも、上位種くらいなら斬れる』」
左手、という言葉が胸に引っかかった。あの男はいつも右手で赤黒い聖剣を握っていた。灰色に変色しきった、あの右手で。その手が、もう動かない。
「『でも、もう長くはないかもしれない』」
アリアの声が、そこで一度途切れた。風読みの残り香が金色の粒子になって空気に揺れているが、いつもより薄い。何度も通信を重ねて、アリア自身が疲れているのが伝わってきた。
「『教えてくれたこと、感謝してる。俺の悪魔が俺を喰ってたこと、本当は最初から薄々知ってた。でも、お前に言われて確信になった』」
雨上がりの噴水広場が、頭をよぎった。濡れた石畳に赤黒い聖剣を引きずって、空っぽの目で笑っていた男。何のために命を売ったのか分からないと、あの時のレクスは何も感じていないふりをしていた。
「『お前に会わなきゃ、俺は何も分からないまま死んでた』」
アリアの声が、また止まった。
今度の沈黙は、長かった。金色の粒子が、ゆっくりと揺れている。
「アリア?」
俺が呼ぶと、小さな声が返ってきた。
「……ごめん。最後の一行が、ね」
息を吸う気配があって、それからアリアは続けた。
「『お前の仲間の聖女が、俺の契約も解く方法を知ってるなら』」
「『——教えてくれ』」
暖炉の火が、爆ぜた。
「『まだ、死にたくない』」
誰も動かなかった。
リーゼの碧い瞳が見開かれ、メルティアの赤い瞳は暖炉の炎を映したまま止まっている。マルクスは銀縁の眼鏡の奥で、静かに目を伏せた。俺の掌の中で、ぬるくなった紅茶が温度を失っていく。舌に張りついた鉄の味だけが、いつも通りそこにあった。
死にたくない、と、あの男が言っている。
全部を失って、命を売って、引きずるように生きていた男が。「誰かを守るため」という答えをやっと見つけた男が。今になって、生きたいと願っている。
「……アリア。ありがとう。レクスに伝えてくれ。方法を探す、と」
自分の声が掠れているのが分かった。
「うん。……必ず伝える」
金色の粒子が薄れ、アリアの気配が遠ざかっていった。
◇
暖炉の前に、沈黙だけが残った。
その沈黙を破ったのは、メルティアだった。赤い瞳を炎に向けたまま、低く口を開く。
「下級悪魔の契約解除は、理論上は可能よ」
全員の視線が、メルティアに集まった。
「契約は魂に刻まれた印。下級悪魔の印を、上位悪魔の力で上書きする。私の力なら、レクスの印を塗り替えられるかもしれない」
「できるのか」
「『かもしれない』と言ったわ」
メルティアの声に♪はなかった。
「印を上書きする時、契約者の魂に私の力を直接流し込むことになる。成功すれば、レクスは下級悪魔の契約から解放される。でも失敗すれば——」
そこで言葉を切ると、メルティアは一度だけ瞬きをした。
「魂が壊れる。契約者の魂は契約の印で支えられているの。印を乱暴に剥がせば、魂そのものが砕ける。レクスは命を喰われて死ぬ前に、魂を失って消えるかもしれない。それでも、やるかどうか」
暖炉の炎が、ゆらりと傾いた。
メルティアの赤い瞳が、炎から俺の左腕へと移る。袖の下の黒い紋様を、見透かすように。レクスの契約を解くという話は、そのまま俺自身の契約の話でもあった。この左腕に刻まれた、メルティアとの契約の。
「契約の本質を、もう一度調べ直すわ。レクスのためにも」
赤い瞳が、また炎へと戻っていく。
「……あなたのためにも」
窓の外で、風が低く鳴っていた。
二百キロ先の前線では今も、左手に剣を握り直した男が魔物と斬り結んでいる。死にたくない、と胸の内で繰り返しながら。
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