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第97話 調和

 十日経っても、十二秒のままだった。

 シアは天界の遺跡の訓練場で、掌を広げていた。調和の光が両手の間に膜を作る。白銀と金色の中間の、温かい光。だが十二秒で消える。四日目に十二秒に届いてから、六日間、一秒も伸びていない。

 遺跡の空気は、相変わらず重かった。聖と魔が混在した空気。呼吸するたびに、清浄な匂いと、微かに焦げたような魔の匂いが、同時に鼻に入る。教会の聖域では決して嗅げない匂い。二つの相反する匂いが、ここでは一つの空気の中に溶けている。

 壁にぶつかっていた。

 光は出る。だが広がらない。持続しない。何かが妨げている。シアには分かっていた。自分の中の何かが、調和の光を押し戻している。十二秒経つと、体が勝手に光を「閉じよう」とする。閉じようとする力。排除しようとする力。

 浄化の癖だった。

 十年以上、教会で叩き込まれた。聖属性は穢れを排除する力。魔を見れば浄化する。穢れを消す。それが聖属性の正しい使い方だと教わった。その本能が、体の芯に染み込んでいる。調和の光を出している間も、無意識に「排除」しようとしてしまう。聖と魔を同じ場所に置こうとすると、体が「魔を消せ」と命じる。十二秒が、シアの本能が耐えられる限界だった。

 頭では分かっている。調和は排除しない力だ。だが体が言うことを聞かない。十年間の訓練が、十日間の努力を上回っている。

 ◇

 夜。訓練に疲れて、壁画の前に座った。

 月明かりが石柱の間から差し込んでいる。壁画の天使たちが、青白い月光に照らされていた。金色の翼。人間の手を取る天使。一緒に封印を作る天使と人間。

 シアは壁画をぼんやりと眺めていた。何度も見た壁画。だが今夜は、違うものが見えた。

 天使たちは、排除していない。

 壁画の中の天使は、人間と手を繋いでいる。人間は魔を含む存在だ。全ての人間が、微量の魔素を持っている。シアも持っている。だが壁画の天使は、人間を浄化していない。排除していない。手を取って、共に働いている。魔を含む人間と、聖を持つ天使が、同じ封印陣を作っている。

 共存。

 天使は、人間の中の魔を「消そう」としていない。「在る」ことを認めて、その上で手を取っている。

 シアの中で、何かが繋がった。

「浄化は……排除」

 声に出した。誰もいない遺跡で。月明かりの中で。

「調和は、受容」

 言葉が、形になっていく。

「カイトさんの蝕は、聖と魔を同時に受け入れる力。光の中に闇を、闇の中に光を。どちらも消さない。両方を、同じ場所に置く。……私がやろうとしていたことは、間違っていた。私は調和の光を出しながら、心のどこかで魔を排除しようとしていた。だから十二秒で閉じる。排除する本能が、受容を妨げている」

 答えが見えた。

 調和を使うには、まず自分の中の魔を受け入れなければならない。聖属性を持つシア自身の中にも、微量の魔素がある。全ての人間と同じように。教会はそれを「消すべき穢れ」と教えた。シアはずっと、自分の中の魔素を恥じていた。聖女なのに、穢れを持っている、と。

 だが、それは穢れではなかった。

 ただ、在るもの。聖と並んで、在るもの。

 ◇

 目を閉じた。

 聖属性を呼んだ。だが今までと違った。浄化しようとしなかった。自分の中の微かな魔素を探した。胸の奥。誰にでもある、小さな魔の種。今まで見ないようにしてきたもの。恥じてきたもの。

 その魔素を、排除しなかった。

 そのまま、置いた。聖の隣に。「在る」ことを認めた。消そうとせず、ただ、認めた。聖と魔を、自分の中で、同時に。

 光が、変わった。

 白銀だった光が、金色を帯び始めた。指先からではない。体全体から。胸の奥から。温かい光。何も排除しない光。壁画の天使たちが纏っている、あの金色の光と——同じ色。

 光が広がった。十二秒の壁が、消えていた。光は閉じようとしなかった。排除する本能が、もう光を妨げなかった。受け入れたから。自分の中の魔を、受け入れたから。

 遺跡の石柱が、共振した。

 十二本の石柱。千二百年前、天使たちが調和を訓練した場所。その石柱が、シアの光に反応して、微かに光り始めた。一本、また一本。青白い月光の中で、石柱が金色を帯びていく。千二百年ぶりに。この場所が、再び調和の力で満たされていく。

 壁画の天使たちの金色と、シアの光と、石柱の光が、同じ色になった。

 シアの紫の瞳から、涙が流れた。

「……できた」

 声が震えていた。涙が頬を伝って、顎から落ちた。唇の端に涙が触れて、塩の味がした。久しぶりに泣いた。追放された日以来、泣かないようにしてきた。聖女は泣かない。そう自分に言い聞かせてきた。だが今の涙は、悲しみではなかった。十年間恥じてきた自分の中の魔を、やっと受け入れられた。その安堵の涙だった。

 追放された聖女が、教会の教えを超えた場所に辿り着いた。教会が「異端」と呼んで封じた力。千二百年前の天使の力。浄化ではなく、調和。排除ではなく、受容。

 自分の中の魔を恥じてきた聖女が、自分の中の魔を受け入れて、本当の力を取り戻した。

 ◇

 翌朝。シアは水晶球を取り出した。

 カイトがくれた水晶球。中の白銀の光が、脈打っている。山を降りて、アリアの風読みが届く距離まで戻ってきていた。

 水晶球に聖属性を込めた。調和の光。白銀と金色の中間。アリアの風読みと共振する。二百キロの距離を超えて、ラスティカに繋がる。

「アリアさん。……聞こえますか」

 数秒。風が応えた。アリアの声が、微かに届いた。「シア! 聞こえる。……どうしたの?」

 シアは紫の瞳で空を見た。朝の空。青い。雲が金色の朝日に染まっている。壁画の天使の翼と、同じ色の空。

「調和を、習得しました」

 声に迷いがなかった。

「カイトさんを助けに、帰ります」

 追放された聖女が、教会が千二百年間封じてきた力を取り戻して、帰路に就いた。


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