第96話 四つの道
朝、紅茶の匂いが音になって聞こえた。
暖炉の前。メルティアが淹れた紅茶。湯気が立っている。その匂いを嗅いだ瞬間、琥珀色の音が聞こえた。匂いが色になるのは慣れた。だが今朝は、その色が音を伴っていた。低く澄んだ、鐘のような音。匂いが、色を経由して、音にまで変わっている。
感覚侵食が、また一段深くなっている。
ノアの声が外套の中から響いた。「進行が続いている。封印修復をしていないのに、日常の中で。……41%に近づいている」
41%。シアが旅立ってから、ゆっくりと、だが確実に。蝕を使わなくても、魔印は進む。一日に、ほんの僅か。だが止まらない。シアの帰りを待つ間にも、時計は動いている。
◇
午前。アリアの風読み通信が届いた。シアからだった。
距離が遠い。声が途切れがちだった。だが、内容は届いた。
「調和の光が、指先に灯りました」
シアの声。疲れている。だが、その疲れの中に光がある。何かを掴んだ人間の声。
「まだ完全ではありません。掌から出せるようになりましたが、持続が十二秒が限界です。もう少し時間が必要です。……でも、見えました。浄化ではない聖属性。排除しない力。カイトさんの蝕と——同じ場所にある力です」
同じ場所。蝕と調和が、同じ場所にある。聖と魔を同時に扱う力。俺は「力」で、シアは「感覚」で。違う道を通って、同じ場所に辿り着こうとしている。
通信が切れた。金色の粒子が薄れていく。シアの声の残響が、部屋に残った。十二秒。あと少し。だが「あと少し」が、どれだけの時間なのか分からない。
◇
昼。ユイがミルフィ村から来ていた。ノアと一緒に、魔印の結び目を分析している。
ユイが持ってきた野花を、宿のテーブルに飾っていた。黄色い花。その匂いが黄色い光として部屋に漂っている。ユイの匂い。花の匂い。ユイがいる場所には、いつも花の匂いがある。
ユイは魔印に触れない。前回の暴走以来、触れずに「視る」訓練をしている。一メートル離れた場所から、目だけで結び目を観察する。精度は落ちるが、ユイの体に負担がかからない。
「七つの結び目のうち、上から三番目と五番目が弱いの。糸が三本ずつ。ここから解けば——」
ユイが紫がかった灰色の瞳を細めた。
「連鎖するかも。三番目を解くと、隣の二番目と四番目が少し緩む。糸が引っ張り合ってるから。一つ解くと、隣が緩む。順番に解いていけば、後の方が楽になるかもしれない」
ノアの声が応じた。「理にかなっている。封印陣の結節点も同じ原理だ。一つの結節点を起動すると、隣接する結節点との間に力の流れが生まれる。魔印の結び目も、構造としては封印陣に近い。……ユイの観察は正しい」
十四歳の少女の目と、千年の魔導書の知識が、同じ結論に辿り着いている。ユイは「視える」。ノアは「知っている」。視覚と知識が噛み合って、解法が組み上がっていく。
◇
午後。リーゼが部屋の隅で聖剣を見つめていた。
鞘から抜いていない。膝の上に置いて、ただ見ている。鞘の銀から、微かに金属の匂いがした。冷たい鉄の匂い。その匂いが灰色の影として視界の端に揺れた。剣の匂いは灰色。碧い瞳が、銀色の鞘の表面を辿っている。父を蝕んだ剣。カイトを救えるかもしれない剣。
声をかけなかった。リーゼが考えている時は、邪魔をしない方がいい。碧い瞳の中で、何かが固まりかけている。覚悟のようなもの。だが、まだ完成していない。リーゼは決断を急がない。全ての情報を集めて、全ての可能性を検討して、それから決める。今はまだ、その途中だ。
ただ、膝の上の聖剣を見るリーゼの碧い瞳には、以前にはなかった色があった。剣を「道具」として見る色。父の形見でも、家の誇りでもなく、使える道具として。
◇
夕方。メルティアが紅茶を淹れた。
三人分。カイト、リーゼ、メルティア。マルクスは自分でコーヒーを淹れる派だから数に入らない。だが、本来ならもう一つ、シアの分があるはずだった。
メルティアの赤い瞳が、空いた席を見た。シアがいつも座っていた場所。今は誰も座っていない。
「……早く帰ってきなさいね、シアちゃん♪」
♪がついた。だが、誰もいない席に向けた♪は、軽さの中に寂しさがあった。千年の悪魔が、後輩の帰りを待っている。空いた席に紅茶を淹れたい。だが、まだ淹れられない。
窓の外を、白い法衣が通り過ぎた。
セドリックだった。街を歩いている。住人に微笑みかけながら。穏やかに。子供に手を振り、老人に会釈し、商人と言葉を交わしている。善意の聖騎士。誰からも好かれる物腰。
だが、その足が時々止まる。ミルフィ村に続く道の方角を見る。ユイがいる方角を。一瞬見て、また歩き出す。何も言わない。何もしない。ただ、見ている。穏やかな顔で。
◇
夜。マルクスが全ての情報を一枚の紙にまとめていた。
銀縁の眼鏡。蝋燭の光。蜜蝋の匂いが黄色い光として揺れている。
「四つの線が見えます」
マルクスがペンで紙の上に線を引いた。四本。
「一本目。シアの調和。あと少しで習得。二本目。ユイの目とノア殿の解析。結び目の解法が見えてきた。三本目。リーゼ殿の聖剣。最終手段としての可能性。そして四本目——」
マルクスの銀縁の眼鏡が、蝋燭の光を反射した。
「ヴィクトルの介入。セドリックがラスティカを監視している。教会が動く準備をしている」
四本の線。マルクスのペンが、四本の線の先を一点に向けた。
「四つの線が、同時に動いています。……レースです。カイトの命が尽きる前に、こちらが三つの力を揃えられるか。その前に、ヴィクトルが動くか。時間との競争です」
マルクスの声に、データの冷徹さはあった。だが、その冷徹さの下に、別の温度があった。マルクスもこのレースの当事者だ。データを並べる手が、勝ってほしいと願っている。
紅茶を啜った。鉄の味の膜を通して、温かさが届いた。41%。残り時間が、一日ごとに削れていく。シアの調和。ユイの目。リーゼの剣。三つの力が揃う日。ヴィクトルが動く日。どちらが先か。
四つの道が、同時に走っている。一つの命を救うために。
間に合うかどうかは——誰にも分からなかった。
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