第73話 視える声
前線に戻った。
ラスティカを出て三日。メルティアの千二百年前の軍道を辿って、山岳地帯に入った。標高が上がるにつれて、空気が変わっていく。丘陵の柔らかい風が、山の鋭い冷気に入れ替わる。若草の匂いが薄まり、針葉樹の樹脂の匂いが濃くなる。鼻の奥に、金属の焦臭が微かに戻ってきた。冥渦が近い。
だが今回の帰還には、一つだけ違うものがあった。
背中に背負った荷物の中に、シアが組み上げた聖属性のリレー装置がある。装置といっても大仰なものではない。シアの白銀の聖属性を封じ込めた小さな水晶球。ユイの「変換」と共振する周波数に調律してある。これをカイトが持ち、シアが中継することで、ユイの「視た」情報がアリアの風読み通信に乗って、より正確に届く。
ユイを戦場に連れてこない。代わりに、ユイの「目」だけを借りる。
ユイの意志を尊重しつつ、ユイの身を守る。妥協点。完璧ではないが、今できる最善の形だ。
◇
前線基地のテントに入った瞬間、空気の質が変わったことに気づいた。
三日前に離れた時とは違っていた。テントの配置が変わっている。いくつかのテントが撤収されて、その跡に新しいテントが立っている。負傷者用のテント。白い布に赤い十字が描かれている。教会の医療班。三日前にはなかった。
焚き火の煙の匂いに混じって、薬草を煮出した匂いがする。負傷者の手当て。聖騎士団の兵士たちの顔に疲弊の色が濃い。目の下の隈。頬のこけ。食事が喉を通らないのだろう。戦場の日常が長引きすぎている。
聖騎士団の隊長がテントの外で報告してきた。声が前より低い。「お前たちが離れている間に、新しい冥渦が二つ開いた。北東と南。聖騎士団が対処しているが、押されている。……正直、限界だ」
限界。あの「友好的ではないが敵意もない」隊長が、「限界だ」と言った。自分の口から弱音を出すタイプの人間ではない。出さざるを得ないほど、状況が悪化している。
リーゼが碧い瞳で基地の全景を見渡した。「テントの配置が変わっている。退路を一方向に絞り始めてる。……撤退を視野に入れた配置ね。この隊長、最悪のシナリオを想定し始めている」
リーゼの観察力が、基地の形から指揮官の心理を読んだ。撤退の準備。つまり、聖騎士団だけではもう保てないということだ。
◇
テントの中。マルクスが地図を広げた。
灰色の外套のまま、テーブルの前に座っている。銀縁の眼鏡に蝋燭の光が映っている。蝋燭の蜜蝋の匂いと、テントの帆布に染み付いた煙と汗の匂い。その中で、マルクスの指が地図の上を走った。
「聖騎士団の配置を分析しました」
声が低い。データを読み上げる声。だが、その声の奥に以前はなかった重さがある。このデータが人の命に直結していることを、マルクスは前線に来て理解し始めている。
「第一冥渦に戦力を集中。第二冥渦は最小限の戦力で押さえている。新たに開いた北東と南の冥渦には、各三名ずつの聖騎士を配置。……だが三名では上位種一体で飽和する。現状、北東の冥渦は上位種が二体同時に出現しており、聖騎士三名では押しきれていない」
マルクスの指が、地図の上の赤い印を辿った。冥渦の位置。聖騎士の配置。戦力の密度。
「この配置からヴィクトル局長の意図が読めます。第二冥渦以降の封印を聖騎士団だけでは行わない。あなたの蝕でしか封じられない以上、聖騎士団は迎撃に専念し、封印はあなたに任せる。……合理的ですが」
「俺の消耗を計算に入れた配置だ」
「ええ。使えば減る。使うほど減る。その減り方まで計算に入れた配置です。局長は——あなたを消耗品として扱っています。穏やかな微笑みの裏で」
マルクスの銀縁の眼鏡の奥の目が、一瞬だけ鋭くなった。以前のマルクスなら「合理的です」で終わっていた。今は「消耗品として扱っています」と言い切った。言葉の温度が変わっている。
「もう一つ。次の冥渦が開く場所を予測します」
マルクスが地図の北西に指を置いた。山の尾根。封印陣が集中している地帯。
「ここです。封印陣の密度が高く、劣化が進んでいる地点。データ的に、七十二時間以内に新しい冥渦が開く確率が八十%を超えています。……先手を打てる可能性があります」
リーゼが碧い瞳で地図を見た。「マルクスの予測が当たるなら、冥渦が完全に開く前に封印を補強できる。被害を最小限に抑えられるわ」
「当たります」
マルクスが短く言い切った。データへの自信。だがそれは傲慢ではなく、十年間積み上げてきたデータ分析の精度への信頼だ。
◇
北東の冥渦に向かった。新しく開いた冥渦。直径十二メートル。聖騎士団が数名で迎撃を続けているが、疲弊の色が濃い。鎧が凹んでいる。法衣に血が付いている。
到着して、まず聖騎士たちを後方に下がらせた。聖騎士たちの目に安堵が浮かんだ。限界だったのだ。
シアが水晶球を取り出した。白銀の聖属性が、球の中で微かに脈動している。シアが両手で球を包んで、紫の瞳を閉じた。集中。聖属性がユイの「変換」と共振する周波数を探っている。
「……繋がりました。ユイちゃんの変換波形と同期しています。アリアさん、中継をお願いします」
風が変わった。甘い風属性の残滓が、冥渦の瘴気の中に混じった。アリアの風読み通信。二百キロの距離を繋ぐ風の糸。
そして——ユイの声が届いた。
「お兄ちゃん」
小さな声。少し歪んでいる。距離の限界。だが、声の芯は明瞭だった。十四歳の少女の声。ミルフィ村の窓辺で花を活けている少女の声が、冥渦の瘴気と金属の焦臭が漂う戦場に届いている。
その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが温かくなった。戦場の空気が、一瞬だけ柔らかくなった気がした。シアの水晶球が微かに光を強めた。ユイの「変換器」が、聖属性のフィールドを遠隔で放出しているのか。二百キロ先の少女の存在が、物理的に空気を変えている。
「見えるよ。北東の冥渦。……青い線が三本切れてる。でも、残り三本はまだ繋がってるよ。繋がってるところから直せば、少ない力で封印できると思う」
エリシアの設計図が示す封印陣の「構造」。メルティアの記憶が示す千二百年前の「配置」。そして今、ユイの目が示す「今この瞬間の状態」。三つの情報源が重なった。
山岳地帯で最初に蝕を試した時は、メルティアの記憶だけが頼りだった。記憶は正確だが、千二百年の変化を反映できない。ユイの目は「今」を視ている。どの線が生きていて、どの線が切れているか。リアルタイムで。
「……北西の結節点が一番しっかりしてる。そこから時計回りにやったら、効率がいいかも」
修復の順番まで提案できる。ユイの目は構造を視るだけではなく、「どこから直すのが最善か」を直感的に判断できる。花を活ける感覚で、封印陣の修復順序を組み立てている。
「ユイ。北西の結節点の位置を、もっと正確に教えてくれ」
「うん。えっと……冥渦の縁から北西に、歩いて十歩くらいのところ。大きな石があるでしょ? その石の下。青い線が集まってるの。そこが一番明るい」
メルティアが赤い瞳を見開いた。
「……あの石。覚えている。千二百年前に、最初の結節点を設置した目印にした岩。苔に覆われて形が変わっているけれど——あの岩だわ。まだ残っているのね」
千二百年前の記憶と、ユイの今の目が、同じ場所を指している。過去と現在が一致した。天使だったメルティアが刻んだ封印の残骸を、十四歳の少女の目が視ている。千二百年の時間を超えて、二人の視線が交差している。
石を見つけた。苔に覆われた大きな岩。表面が風化して角が丸くなっている。だが確かに、地面の中で何かが微かに脈動していた。シアの白銀の聖属性を注ぎ込むと、青白い光が浮かび上がった。結節点の残骸。生きている。
口の中に鉄の味がした。まだ蝕を使っていないのに。体が覚えている。次に来る痛みを。次に来る消耗を。唾を飲み込んだ。鉄の味が喉を通った。
それでも足が動く。次の結節点に向かって。
「次は?」
「時計回りに、二番目。冥渦の縁に沿って東に歩いて……十五歩くらい。そこにも青い光がある。でもこっちは薄い。壊れかけてる。丁寧にやって、お兄ちゃん」
丁寧にやって。ユイの声が、冥渦の瘴気の中で、花の匂いのように軽かった。だがその声が指示する内容は、千二百年前の封印を修復するという、この世界で最も重い仕事だ。
「ユイ。ありがとう」
「えへへ。役に立てた?」
十四歳の少女の声が、戦場に響いた。冥渦の瘴気と金属の焦臭の中に、甘い風属性の残滓に載った笑い声が混じった。場違いな明るさ。だが、その場違いさが、今の俺たちには必要だった。
リーゼが碧い瞳で微かに口元を緩めた。メルティアの赤い瞳に、複雑な光が浮かんでいた。千二百年前にはなかったもの。こうやって遠くから声で戦場を支える存在。あの時代にも、こんな子がいたら——。メルティアは何も言わなかった。だが、赤い瞳が一瞬だけ濡れた。
ユイの目が戦場の地図になった。見えない封印陣が、見えるようになった。
だが、見えるものが増えるほど、やるべきことも増える。
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