表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
72/75

第72話 守るものの名前

「お兄ちゃん、こっち! こっちにも咲いてるよ!」

 ユイが畑の向こうで手を振っていた。ミルフィ村の外れ。野原。春の花が一面に咲いている。黄色、白、紫、薄い桃色。風が花の間を吹き抜けて、甘い匂いを撒き散らしている。

 教会の調査団は一時撤退した。悪魔の斥候は追い払った。エリシアの勅令が届くまで、あと数日。束の間の平穏。

 ユイと一日を過ごすことにした。

 花を摘んでいた。ユイが先に走って、しゃがんで、花を一本ずつ丁寧に摘む。紫がかった灰色の瞳が花を見ている。その瞳には、花の色だけでなく、花の周りの魔素の流れも視えているのだろう。だがユイにとってはそれが普通だ。花を見ることと、魔素の流れを見ることに、区別がない。

 シアが少し離れたところでユイを見守っていた。紫の瞳が柔らかい。聖女が少女を見守る目。治療者が患者を見る目ではなくなっていた。もっと近い距離の目。

 リーゼが木陰に座って、花を見ていた。碧い瞳が野原全体を見渡している。花を楽しむ目ではなかった。周囲の安全を確認する目。だが、視線の端がユイの姿を捉えるたびに、碧い瞳の角度が微かに緩んでいた。

 メルティアが花を一本摘んで、髪に挿した。赤い髪に白い花。似合っていた。赤い瞳で俺を見て、「どう?♪」と笑った。♪がついた。教会も悪魔も退いている今、メルティアに余裕が戻っている。

 ◇

 昼過ぎ。診療所の窓辺で、ユイが花瓶に花を入れていた。摘んだばかりの花を一本ずつ。窓から差し込む春の光が花瓶を通って、テーブルに色付きの光の模様を落としていた。

 隣に座った。

「ユイ」

「ん?」

「……お前の目に視えるもの。怖くないか?」

 ユイの紫がかった灰色の瞳が、花瓶から俺に向いた。

「怖くないよ」

 即答だった。考える間がなかった。

「綺麗だもん。お兄ちゃんの黒いのは、ちょっと心配だけど。でもシアちゃんの白銀はすごく綺麗だし、メルティアさんの赤も、深くて温かい色なの。リーゼさんの碧は、刃物みたいに鋭くて格好いい」

 花を活けるように、人の光を語る。ユイにとって「視える」ことは恐怖ではない。世界を見る方法の一つ。生まれた時から、これが普通だった。

「でもね、お兄ちゃん」

 ユイの目が変わった。花を活ける柔らかさが消えて、真剣な光が灯った。十四歳の少女が、こんな目をすることがあるのだと知った。

「お兄ちゃんの黒いの、前より大きくなってる。首のところまで来てる。……前に来た時より、ずっと多い」

 知っていた。ユイは視えている。俺がどれだけ隠しても、ユイの目には全部見えている。

「大丈夫だ」

 言った。いつもの嘘。何度目の嘘だろう。

「嘘」

 ユイが言った。即座に。迷いなく。

 俺が「大丈夫だ」と言って、ユイが「嘘」と返したのは、これが初めてだった。いつもは「……うん」と頷いて、追及しなかった。今日は違う。

「嘘だよ、お兄ちゃん。大丈夫じゃない。黒いのが伸びてるの、私には分かる。お兄ちゃんが戦うたびに、黒いのが少しずつ大きくなってるの。……全部、視えてるよ」

 ユイの紫がかった灰色の瞳が、真っ直ぐに俺を見ていた。嘘を許さない目。だが怒りではなかった。心配。そしてもう一つ、別の色。

「お兄ちゃん」

「……なんだ」

「私にもできることがあるなら、やりたい」

 声が震えていなかった。

 病弱な少女の声ではなかった。ベッドの上から弱々しく手を伸ばす声ではなかった。自分の足で花畑を走って、自分の手で花を摘んで、自分の目で世界を見ている少女の声。自分の意志で選ぼうとしている声。

「お兄ちゃんだけが痛い思いをするのは、もう嫌だよ」

 胸の奥が、軋んだ。

 この言葉を聞く日が来ることを、どこかで予感していた。ユイは弱い少女ではない。弱かったのは体だけだ。心は——心はずっと強かった。シアの治療で体が回復するにつれて、心の強さが表に出てきている。

 答えられなかった。

 ユイを守ることが俺の動機だ。ユイのために契約した。ユイのために力を得た。ユイのために戦っている。全てがユイから始まった。

 だが、ユイ自身がそれを望んでいない。守られるだけの存在でいたくない。自分にもできることがあるなら、やりたい。兄だけが痛い思いをするのは嫌だ。

 守ること。ユイの意志を尊重すること。この二つが、矛盾している。

「……すぐには答えられない」

 正直に言った。嘘ではなく。「大丈夫だ」ではなく。

 ユイの紫がかった灰色の瞳が、微かに揺れた。それから——笑った。

「うん。いいよ。すぐじゃなくて。でも、考えてね」

 ユイが花瓶に最後の一本を挿した。紫の花。斜めに傾いている。直さなかった。傾いているのが、ユイの活け方だから。

 ◇

 夕方。ラスティカの宿。暖炉の前。

 紅茶が並んでいた。五つ。カイト、リーゼ、シア、メルティア。そして、マルクス。

 マルクスが灰色の外套のまま暖炉の前に座っている。銀縁の眼鏡に暖炉の炎が映っている。異様な組み合わせだった。全属性使い、没落貴族の剣士、追放された聖女、千年の悪魔、元審問官。全員がどこかから追い出された者たち。追放者の集合体。

 メルティアが紅茶を配った。一人一人に。マルクスの前にカップを置いた。

 マルクスがカップを手に取って、一口啜った。表情が微かに動いた。

「……紅茶ですか。データ的に言えば、コーヒーの方が覚醒効率は高いんですが——」

「私の紅茶に文句をつけるの?」

 メルティアの赤い瞳が据わった。♪がなかった。据わった目。千年の矜持。紅茶に対する千年のこだわり。

「……いただきます」

 マルクスが黙って紅茶を啜った。リーゼが碧い瞳で口元を微かに緩めた。シアが紫の瞳で小さく笑った。

 窓の外を見た。ラスティカの夕暮れ。赤い瓦に夕日が映っている。丘陵の向こうに夕日が沈んでいく。空が橙と紫のグラデーションに染まっている。

 この景色を、半年前にも見た。王都に出発する前日。あの時は三人分の紅茶だった。今は五人分。いや——アリアと、ドルクと、ユイを数えれば、もっと多い。

 守りたいものの名前が増えていく。

 ユイ。リーゼ。シア。メルティア。ノア。アリア。ドルク。リタ。エリシア。イレーネ。ラスティカの街。ミルフィ村。封印陣の向こうにある世界。

 名前が増えるたびに、守る理由が増える。守る力も増えた。だが、守るたびに魔印が進む。守れるものが増えるほど、守れる時間が減る。

 紅茶を啜った。温かい。普通の味。戦場の鉄の味に慣れた舌に、紅茶の普通さが沁みた。暖炉の炎が爆ぜた。小さな音。薪の匂いが部屋に広がった。

 メルティアが紅茶を啜って、小さく笑った。♪がなかった。だが笑みだった。穏やかな笑み。千年の存在が、暖炉の前で紅茶を飲んでいる時の、素の顔。

「……千年のこだわりにしては普通の味、でしょう?」

「ああ。普通の味だ」

 窓の外の夕日が、最後の光を丘の向こうに沈めていく。部屋が少しだけ暗くなった。暖炉の炎が、壁に揺れる影を作っている。五人分の影が、一つの暖炉の前で重なっている。

「……それがいい」


読んで下さりありがとうございました!

★★★★★評価と[[[ブックマーク]]]、リアクションお願いします!

Youtubeにて作品公開中!

http://www.youtube.com/@mizukara-h2z

ご感想やご質問など、ぜひコメントでお聞かせください。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ