表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
71/75

第71話 断絶

 マルクス・ヴァイゼンは、審問局長の前に立っていた。

 王都。大聖堂。最上階の執務室。窓から午後の光が差し込んでいる。白檀の香りが漂う部屋。蝋燭ではなく、ステンドグラスを透過した色彩の光が、執務机の上に虹色の模様を描いていた。

 ヴィクトル・ルミエールが椅子に座っていた。金色の法衣。白い手袋。穏やかな微笑み。いつもの微笑み。マルクスがこの部屋に入った日から、一度も変わっていない微笑み。

「局長」

 マルクスの声は低かった。銀縁の眼鏡が窓からの光を反射して、一瞬だけ白く光った。

「辺境の少女の確保命令は、あなたの指示ですか」

「ええ」

 ヴィクトルが穏やかに答えた。何も隠していない声。隠す必要がない声。

「聖なる器は教会が保護すべきです。穢れた力に利用される前に」

 保護。ヴィクトルはそう言った。保護。確保ではなく。ヴィクトルの言葉遣いは常に穏やかだ。「浄化」を「救済」と呼び、「確保」を「保護」と呼ぶ。

 マルクスの銀縁の眼鏡の奥の目が、ヴィクトルを見ていた。

「あの少女を確保すれば、灰原カイトは前線を離れます。前線の戦力が落ちます。冥渦の封印が遅れます。……それはデータが示す最適解ではありません」

「データだけでは魂は救えませんよ、マルクス」

 穏やかな声。いつもの台詞。マルクスが審問局に入った日から、何度も聞いた台詞。データでは測れないものがある、という信念。ヴィクトルの信仰の核心。

 だが今日は、マルクスが引かなかった。

「データが示す最適解に従います」

 マルクスの声が変わった。低さは同じ。だが、質が違った。報告の声ではなかった。宣言の声だった。

「たとえそれが、あなたの方針と異なっても」

 ヴィクトルの穏やかな微笑みが、一瞬だけ止まった。

 止まって——戻った。

 一瞬。瞬きより短い時間。だがマルクスの目はそれを捉えた。データ収集に特化した目。変化を見逃さない目。ヴィクトルの微笑みが「停止」した瞬間を。

「……そうですか。残念です」

 ヴィクトルの声は穏やかだった。だが、穏やかさの質が変わっていた。温かい穏やかさから、温度のない穏やかさに。声の形は同じで、中身だけが入れ替わっていた。

 マルクスが手を動かした。

 胸元。白い法衣の留め具の上に、銀の十字架の徽章がある。審問局第三席の証。入局した日に授けられた徽章。十年間、一日も外さなかった徽章。

 外した。

 ピンが布から離れる小さな感触。金属の重さが指先に残った。掌の上の銀の十字架。小さい。こんなに小さかったのか。十年間の重さが、掌の上では数グラムの銀に過ぎなかった。

 テーブルの上に置いた。

 金属がテーブルに当たる小さな音。それだけの音が、白檀の香る執務室に重く響いた。

「審問局を離れます。私はこれ以上、最適解から外れた方針には従えません」

 ヴィクトルの穏やかな目が、テーブルの上の徽章を見ていた。銀の十字架。午後の光がステンドグラスを透過して、徽章の表面に虹色の模様を落としていた。美しい光景だった。退職の書類のように事務的であるべき瞬間が、虹色に染まっている。

「……あなたがいなくなると、寂しくなりますね」

 ヴィクトルの声に、温度がなかった。

 寂しい、と言った。だが声が寂しくなかった。言葉と声が分離していた。「寂しい」という単語を発音しているだけで、感情が伴っていなかった。

 マルクスは背を向けた。扉に向かって歩いた。革靴が石の床を叩く音。規則的なリズム。十年間歩いた廊下を、最後に歩いている。白檀の香りが薄まっていく。扉が近づく。

 扉のノブに手をかけた時、ヴィクトルの声が背中に届いた。

「マルクス。一つだけ」

 振り返らなかった。だが足は止まった。

「あなたのデータは正確です。いつも正確でした。……だからこそ、あなたには分かるはずです。データが示す最適解と、正しい行いは、必ずしも一致しない」

 マルクスは答えなかった。扉を開けた。出た。閉めた。

 廊下を歩いた。白い法衣が暗い廊下に白く浮いている。窓がない廊下。蝋燭の灯りだけ。白檀の匂いが遠ざかっていく。代わりに、古い石と蝋燭の蝋の匂いが廊下に満ちていた。

 胸元が軽かった。徽章がない胸元。十年間あった重さが、消えていた。

 ◇

 三日後。ラスティカ。

 南門に、灰色の外套の男が立っていた。

 白い法衣ではなかった。教会の紋章もなかった。灰色の旅人の外套。フードを被っている。だが、銀縁の眼鏡だけが変わらなかった。

 ドルクが南門で腕を組んで、その男を見ていた。「……あんた、前にカイトを聖鎖で縛ったやつだろう。何しに来た」

「灰原カイトに会いに来ました」

「教会の人間を、この街に入れる理由がないな」

「教会の人間ではありません。もう」

 マルクスがフードを下ろした。銀縁の眼鏡の奥の瞳が、ドルクを見ていた。以前と同じ冷徹な目。だが、胸元に銀の十字架がない。白い法衣ではなく灰色の外套。教会を離れた人間の姿。

 ドルクが黙って門を開けた。何かを感じ取ったのだろう。ドルクは見えていても言わないが、見えたことで判断はする。

 ギルドの酒場。テーブル。俺とマルクスが向かい合って座った。マルクスの前に麦酒を置いた。マルクスは麦酒に口をつけなかった。

「審問局を離れました」

 声が低かった。事実だけを伝える声。だが、その事実の重さが声を低くしている。

「……今の私は、どこにも属さない人間です」

「なぜここに来た」

「データが最適解を示したからです」

 同じ答え。いつもの答え。だが、マルクスの銀縁の眼鏡の奥の目が、いつもと微かに違っていた。冷徹さは残っている。だが、その奥に——自分で選んだという色があった。データに従ったのではなく、データを理由にして自分で選んだ色。

「灰原カイト。あなたの周囲が、現在最もデータ的に重要な場所です。封印の修復に必要な全属性使い。聖と魔の変換器を持つ少女。千二百年前の封印を知る存在。風読みの通信拠点。……全てがここに集中している」

「つまり、ここにいるのが一番効率的だと」

「ええ。データ的に」

 データ的に。その言葉の裏に、別のものが透けていた。データ的でない理由。データでは説明できない何か。前線の松林でカイトに指摘されたもの。「お前が震えている理由はデータじゃないだろう」。

 あの夜から何かが変わった。マルクスの中で。データだけでは説明できないものが、マルクスを審問局から引き離し、辺境に連れてきた。

 メルティアが紅茶を持ってきた。三つ。マルクスの分も含めて。

「元審問官さん♪ 紅茶はいかが?」

「……いただきます」

 マルクスが紅茶を啜った。一口。表情が微かに動いた。

「悪くない。データ的に言えば、この茶葉の品質は——」

「データの話は紅茶の後にしてちょうだい♪」

 メルティアの♪が軽かった。マルクスが口を閉じた。酒場の隅で、リーゼが碧い瞳でマルクスを見ていた。警戒ではない。観察。元審問官が味方になった。その事実を、碧い瞳が静かに受け入れている。

 審問局に亀裂が走った。マルクスという名の柱が抜けた。残ったヴィクトルが、穏やかな微笑みの裏で何を計算しているのか。

 テーブルの上の紅茶が湯気を立てていた。三人分の紅茶。酒場の暖炉が小さく燃えている。窓の外には春の夕暮れ。

 マルクスが銀縁の眼鏡を押し上げた。灰色の外套が、酒場の暖炉の光に照らされて、少しだけ温かい色に見えた。


読んで下さりありがとうございました!

★★★★★評価と[[[ブックマーク]]]、リアクションお願いします!

Youtubeにて作品公開中!

http://www.youtube.com/@mizukara-h2z

ご感想やご質問など、ぜひコメントでお聞かせください。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ