表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
69/73

第69話 愛の罪

「続きを聞いてくれる?」

 翌日の夜。同じ丘。同じ月。同じ若草の上。メルティアが隣に座っていた。昨夜と同じ場所。だが、メルティアの赤い瞳が昨夜より深く沈んでいた。今夜語ることが、昨夜より重い。

 草の匂い。夜露の匂い。月明かりが丘を照らしている。虫の声が昨夜より少なかった。季節が進んだのか。それとも、メルティアの周囲の空気が変わっているのか。悪魔の気配が、虫を遠ざけているのかもしれない。

「聞く」

「……ありがとう」

 メルティアが息を吐いた。長い呼気。千二百年分の重さを、一息で押し出そうとしているかのように。

 ◇

「戦争が長引くにつれて、彼の体が壊れていった」

 メルティアの声が、昨夜と同じ低さで始まった。月を見ながら。俺の方を見ずに。

「封印陣の調律に、人間の体は耐えられない。聖と魔の均衡を取る作業は、体内に両方の属性を通すということ。彼には全属性がなかった。火属性しかない体で、聖と魔を受け流していた。……人間の器には、重すぎた」

 カイトの蝕使用後の症状を思い出した。口の中の鉄の味。視界の揺れ。感覚侵食。あれは全属性を持つ俺でさえ起きる症状だ。火属性しかない人間が同じことをすれば——想像するだけで、体が軋む。

「調律を一回やるごとに、彼の顔色が悪くなった。二回やるごとに、咳が出るようになった。五回やった頃には、血を吐くようになった。……十回やった頃には、歩くのがやっとだった」

 メルティアの声が平坦だった。感情を抑えているのではない。事実を並べている。千二百年間、頭の中で何度も繰り返した事実。繰り返しすぎて、感情が磨耗した事実。

「私は見ていた。彼が少しずつ消耗していくのを。天使として、止めるべきだった。代わりの調律者を探すべきだった」

 声が、微かに変わった。平坦さに罅が入った。

「でも、彼以外に調律ができる人間はいなかった。あの均衡感覚を持つ人間は、彼だけだった。代わりは——いなかった。そして」

 メルティアの赤い瞳が、月から降りた。自分の膝を見ている。両手が膝の上で組まれていた。指が白くなっている。力を込めている。

「——私は彼を止めたくなかった。彼がいなくなるのが、怖かった」

 怖い。千二百年前の天使が、人間が消えることを怖いと思った。

「天使は、人間に感情を持ってはいけない。個人的な感情は、天界の法に反する。天使は『全体のため』に動く存在。一人の人間のために判断を歪めることは、あってはならない。……分かっていた。分かっていて、止められなかった」

 涙が流れた。

 メルティアの赤い瞳から。

 初めて見た。千年の悪魔の涙。赤い瞳から流れる涙は——色がなかった。透明。人間と同じ涙。悪魔の涙が透明であることに、胸の奥が痛んだ。赤い涙でも黒い涙でもない。ただの、透明な涙。人間と同じ。

 メルティアは涙を拭わなかった。流れるままにしていた。

 ◇

「最後の冥渦の封印」

 涙が頬を伝ったまま、メルティアは語り続けた。声が震えていた。だが止まらなかった。

「大陸の中央。最大の冥渦。これを封じれば、戦争が終わる。……彼が調律点に立った。私は知っていた。この封印が終わったら、彼の体は持たない。十回の調律で限界を超えていた体に、最大の封印を課す。……壊れる。確実に」

「止めなかったのか」

「止められなかった。止めれば、戦争が終わらない。冥渦が開いたまま。人が死に続ける。世界と彼の天秤。……私は世界を選ぶべきだった。天使として。全体のために。一人の人間を犠牲にして、世界を救うべきだった」

 メルティアの声が、静かに崩れた。

「選ばなかった」

 二文字。

「封印の途中で、彼が崩れた。体が限界を超えた。膝が折れた。血を吐いた。封印陣が暴走しかけた。聖と魔の均衡が崩れて、冥渦が逆流し始めた。このままでは彼が死ぬだけでなく、封印ごと冥渦に飲まれる」

「私は——天界の法を破った」

 風が止んだ。虫の声が消えた。月だけが、メルティアの涙を照らしていた。

「聖属性を直接彼に注ぎ込んだ。天使の力を、人間の体に。天使が人間に力を直接与えることは、天界の最大の禁忌。人間の自由意志を侵害する行為。力を与えることで、人間の魂の構造が変わってしまう。……でも」

 メルティアの声が、壊れた。

「彼を死なせたくなかった。それだけ。理由はそれだけ。天界の法も、禁忌も、全部分かっていた。分かっていて、破った。……彼を、失いたくなかった」

 メルティアが両手で顔を覆った。赤い瞳が隠れた。肩が震えていた。千年の間、誰にも語らなかった記憶。千二百年分の後悔と、後悔しきれない愛情が、春の夜の丘の上で溢れていた。

「彼は助かった。封印も完成した。戦争は終わった。……だが」

 両手が顔から離れた。赤い瞳が濡れていた。涙の筋が月明かりに光っている。

「天界が私を裁いた。『人間を愛した罪』。天使が個人的な感情で天界の法を破った。罰は——堕天。聖属性を剥奪されて、悪魔の属性に置き換えられた。天界から追放されて、悪魔界に堕とされた」

 堕天。天使から悪魔へ。金色の光から赤い瞳へ。白い翼から翼のない背中へ。

「その男は……どうなった」

 聞かなければならなかった。聞きたくなかった。だが、聞かなければメルティアが一人で抱えたままになる。

「……知らない」

 メルティアの声が、消えかけた。

「堕天した後、私は人間界から引き離された。数百年を悪魔界で過ごした。人間界に戻った時には……彼の名前を知る者は、もう誰もいなかった。墓もなかった。記録もなかった。千二百年前の人間を覚えている人間は、一人もいなかった」

 千二百年。人間の寿命の何十倍。メルティアが悪魔界にいる間に、彼は老いて死んだのだろう。人間として。普通の人間として。

 何も言えなかった。言葉がなかった。

 代わりに、メルティアの隣に座り続けた。草の匂い。月明かり。涙が乾いていく頬。春の夜風が、メルティアの赤い髪を揺らしていた。

 ◇

 しばらく、何も話さなかった。虫の声が戻ってきた。月が少しだけ傾いた。時間が流れた。

「カイト」

 メルティアの声が、小さかった。涙は止まっていた。だが、声はまだ濡れていた。

「あなたの中に、彼の影を見ていないか、と聞かれたら——嘘はつけない」

 心臓が跳ねた。

「最初は見ていた。全属性ではないけれど、調律の感覚が似ていた。人間なのに、均衡を取るのが上手い人間。封印の修復のために自分を消耗する人間。……重なった。重なってしまった」

 メルティアの赤い瞳が、俺を見た。正面から。涙の痕が残った頬。月明かりに光る赤い瞳。千二百年前の記憶と、今この瞬間の両方が映っている瞳。

「でも、今は違う」

 声に力が戻った。微かに。だが確かに。

「あなたはあなたよ。彼の代わりじゃない。彼は火属性しかなかった。あなたは全属性がある。彼は一人だった。あなたには仲間がいる。彼は何も選べなかった。あなたは全部自分で選んでいる。……全部違う」

 メルティアの赤い瞳が、揺れた。

「それだけは、信じて」

 短く答えた。言葉を選ぶ余裕はなかった。だが、選ぶ必要もなかった。

「信じてる」


読んで下さりありがとうございました!

★★★★★評価と[[[ブックマーク]]]、リアクションお願いします!

Youtubeにて作品公開中!

http://www.youtube.com/@mizukara-h2z

ご感想やご質問など、ぜひコメントでお聞かせください。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ