第69話 愛の罪
「続きを聞いてくれる?」
翌日の夜。同じ丘。同じ月。同じ若草の上。メルティアが隣に座っていた。昨夜と同じ場所。だが、メルティアの赤い瞳が昨夜より深く沈んでいた。今夜語ることが、昨夜より重い。
草の匂い。夜露の匂い。月明かりが丘を照らしている。虫の声が昨夜より少なかった。季節が進んだのか。それとも、メルティアの周囲の空気が変わっているのか。悪魔の気配が、虫を遠ざけているのかもしれない。
「聞く」
「……ありがとう」
メルティアが息を吐いた。長い呼気。千二百年分の重さを、一息で押し出そうとしているかのように。
◇
「戦争が長引くにつれて、彼の体が壊れていった」
メルティアの声が、昨夜と同じ低さで始まった。月を見ながら。俺の方を見ずに。
「封印陣の調律に、人間の体は耐えられない。聖と魔の均衡を取る作業は、体内に両方の属性を通すということ。彼には全属性がなかった。火属性しかない体で、聖と魔を受け流していた。……人間の器には、重すぎた」
カイトの蝕使用後の症状を思い出した。口の中の鉄の味。視界の揺れ。感覚侵食。あれは全属性を持つ俺でさえ起きる症状だ。火属性しかない人間が同じことをすれば——想像するだけで、体が軋む。
「調律を一回やるごとに、彼の顔色が悪くなった。二回やるごとに、咳が出るようになった。五回やった頃には、血を吐くようになった。……十回やった頃には、歩くのがやっとだった」
メルティアの声が平坦だった。感情を抑えているのではない。事実を並べている。千二百年間、頭の中で何度も繰り返した事実。繰り返しすぎて、感情が磨耗した事実。
「私は見ていた。彼が少しずつ消耗していくのを。天使として、止めるべきだった。代わりの調律者を探すべきだった」
声が、微かに変わった。平坦さに罅が入った。
「でも、彼以外に調律ができる人間はいなかった。あの均衡感覚を持つ人間は、彼だけだった。代わりは——いなかった。そして」
メルティアの赤い瞳が、月から降りた。自分の膝を見ている。両手が膝の上で組まれていた。指が白くなっている。力を込めている。
「——私は彼を止めたくなかった。彼がいなくなるのが、怖かった」
怖い。千二百年前の天使が、人間が消えることを怖いと思った。
「天使は、人間に感情を持ってはいけない。個人的な感情は、天界の法に反する。天使は『全体のため』に動く存在。一人の人間のために判断を歪めることは、あってはならない。……分かっていた。分かっていて、止められなかった」
涙が流れた。
メルティアの赤い瞳から。
初めて見た。千年の悪魔の涙。赤い瞳から流れる涙は——色がなかった。透明。人間と同じ涙。悪魔の涙が透明であることに、胸の奥が痛んだ。赤い涙でも黒い涙でもない。ただの、透明な涙。人間と同じ。
メルティアは涙を拭わなかった。流れるままにしていた。
◇
「最後の冥渦の封印」
涙が頬を伝ったまま、メルティアは語り続けた。声が震えていた。だが止まらなかった。
「大陸の中央。最大の冥渦。これを封じれば、戦争が終わる。……彼が調律点に立った。私は知っていた。この封印が終わったら、彼の体は持たない。十回の調律で限界を超えていた体に、最大の封印を課す。……壊れる。確実に」
「止めなかったのか」
「止められなかった。止めれば、戦争が終わらない。冥渦が開いたまま。人が死に続ける。世界と彼の天秤。……私は世界を選ぶべきだった。天使として。全体のために。一人の人間を犠牲にして、世界を救うべきだった」
メルティアの声が、静かに崩れた。
「選ばなかった」
二文字。
「封印の途中で、彼が崩れた。体が限界を超えた。膝が折れた。血を吐いた。封印陣が暴走しかけた。聖と魔の均衡が崩れて、冥渦が逆流し始めた。このままでは彼が死ぬだけでなく、封印ごと冥渦に飲まれる」
「私は——天界の法を破った」
風が止んだ。虫の声が消えた。月だけが、メルティアの涙を照らしていた。
「聖属性を直接彼に注ぎ込んだ。天使の力を、人間の体に。天使が人間に力を直接与えることは、天界の最大の禁忌。人間の自由意志を侵害する行為。力を与えることで、人間の魂の構造が変わってしまう。……でも」
メルティアの声が、壊れた。
「彼を死なせたくなかった。それだけ。理由はそれだけ。天界の法も、禁忌も、全部分かっていた。分かっていて、破った。……彼を、失いたくなかった」
メルティアが両手で顔を覆った。赤い瞳が隠れた。肩が震えていた。千年の間、誰にも語らなかった記憶。千二百年分の後悔と、後悔しきれない愛情が、春の夜の丘の上で溢れていた。
「彼は助かった。封印も完成した。戦争は終わった。……だが」
両手が顔から離れた。赤い瞳が濡れていた。涙の筋が月明かりに光っている。
「天界が私を裁いた。『人間を愛した罪』。天使が個人的な感情で天界の法を破った。罰は——堕天。聖属性を剥奪されて、悪魔の属性に置き換えられた。天界から追放されて、悪魔界に堕とされた」
堕天。天使から悪魔へ。金色の光から赤い瞳へ。白い翼から翼のない背中へ。
「その男は……どうなった」
聞かなければならなかった。聞きたくなかった。だが、聞かなければメルティアが一人で抱えたままになる。
「……知らない」
メルティアの声が、消えかけた。
「堕天した後、私は人間界から引き離された。数百年を悪魔界で過ごした。人間界に戻った時には……彼の名前を知る者は、もう誰もいなかった。墓もなかった。記録もなかった。千二百年前の人間を覚えている人間は、一人もいなかった」
千二百年。人間の寿命の何十倍。メルティアが悪魔界にいる間に、彼は老いて死んだのだろう。人間として。普通の人間として。
何も言えなかった。言葉がなかった。
代わりに、メルティアの隣に座り続けた。草の匂い。月明かり。涙が乾いていく頬。春の夜風が、メルティアの赤い髪を揺らしていた。
◇
しばらく、何も話さなかった。虫の声が戻ってきた。月が少しだけ傾いた。時間が流れた。
「カイト」
メルティアの声が、小さかった。涙は止まっていた。だが、声はまだ濡れていた。
「あなたの中に、彼の影を見ていないか、と聞かれたら——嘘はつけない」
心臓が跳ねた。
「最初は見ていた。全属性ではないけれど、調律の感覚が似ていた。人間なのに、均衡を取るのが上手い人間。封印の修復のために自分を消耗する人間。……重なった。重なってしまった」
メルティアの赤い瞳が、俺を見た。正面から。涙の痕が残った頬。月明かりに光る赤い瞳。千二百年前の記憶と、今この瞬間の両方が映っている瞳。
「でも、今は違う」
声に力が戻った。微かに。だが確かに。
「あなたはあなたよ。彼の代わりじゃない。彼は火属性しかなかった。あなたは全属性がある。彼は一人だった。あなたには仲間がいる。彼は何も選べなかった。あなたは全部自分で選んでいる。……全部違う」
メルティアの赤い瞳が、揺れた。
「それだけは、信じて」
短く答えた。言葉を選ぶ余裕はなかった。だが、選ぶ必要もなかった。
「信じてる」
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