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第68話 天使

 月が出ていた。

 夜。ミルフィ村の診療所の外。ユイが眠った後、村の外れの丘に登った。二人で。メルティアと。

 春の若草の上に座った。草が膝の下で潰れて、青い匂いを放っている。虫の声が四方から聞こえている。遠くの森から梟の鳴き声。月明かりが丘の斜面を銀色に染めていて、草の葉先の夜露が小さな宝石のように光っていた。さっきユイが淹れてくれた紅茶の甘さが、まだ舌の奥に残っている。

 メルティアが隣に座っていた。赤い瞳が地面を見ていた。草の下の、土の下の、岩盤の下の何かを。

「……この下にも、封印陣があるのよ」

 声が静かだった。♪がない。

「ユイちゃんが視ている『青い線』。それが封印陣の残骸。千二百年前に、私が配置した結節点の一つ」

 メルティアの赤い瞳が、地面から空に上がった。月を見ている。

「ラスティカに帰ってきた夜、封印陣のことと、天使だったことは話した。でも、なぜ堕ちたかは……聞かないでくれた」

「ああ。聞かなかった」

「……今日は、話すわ」

 蝋燭の炎のカウントはない。夜空の月だけ。メルティアの赤い瞳が月を映して、赤と銀が混ざった色になっていた。

 メルティアの声が変わった。♪が消えただけではない。声の質そのものが変わった。低くなった。千年の存在が、千二百年前の記憶を開く時の声。人間の声ではない。もっと古い。もっと深い。大地の底から響いてくるような声。

 ◇

「千二百年前。聖魔戦争の末期」

 メルティアが語り始めた。月を見ながら。俺の方を見ずに。

「私は天使だった。聖属性の天使。中位。……戦闘部隊ではなく、封印陣の設置部隊に配属されていた。各地の冥渦を封じるために、大陸を回っていた」

 天使。聖属性。封印陣の設置。メルティアの声が、過去の輪郭を一つずつ描いていく。

「天使の姿は……今とは違ったわ。白い翼があった。聖属性の色は金色。今の赤ではなく、金色の光を纏っていた。空を飛べた。大地を上から見下ろして、冥渦の位置を探して、地上に降りて封印を作る。……そういう仕事」

 白い翼。金色の光。空を飛ぶ天使。今の赤い瞳の悪魔からは想像できない姿。だが、メルティアの声には嘘がなかった。嘘をつける声ではなかった。記憶を語っている声だ。

「封印陣の設置には、人間の協力が必要だった。天使だけでは、大地に根を下ろす封印は作れない。天使の力は『上』から来る。空から降る光。だが封印は『下』に根を張る必要がある。大地の中に。……だから、人間の魔法使いが大地の側から封印を支える。天使が上から、人間が下から。二つの力で封印を挟み込む」

 メルティアの声が、少しだけ温度を変えた。次の言葉に入る前の、微かな間。

「その中に、一人の男がいた」

 風が吹いた。春の夜風。若草の匂いを載せた風がメルティアの髪を揺らした。赤い髪が月明かりの中で波打った。

「名前は……もう言わない」

 声が掠れた。

「言えば、あの人の記憶が消費される気がするから。口にするたびに、記憶の輪郭が減っていく気がするの。千二百年の間に、顔の輪郭は消えた。声の響きも薄れた。残っているのは、断片だけ。……その断片を、名前を口にすることで消したくない」

 名前のない男。顔の輪郭も消えた男。千二百年の時間が、記憶の細部を削り取っていった。残っているのは断片。メルティアがその断片を守っている。名前を言わないことで。

「ただの、人間の魔法使い。特別な力はなかった。火属性しか使えない。Cランク相当の、普通の魔法使い」

 火属性のみ。Cランク。全属性使いではない。メルティアの千二百年前の「彼」は、俺とは違う。力がない。特別でもない。ただの人間。

「でも」

 メルティアの赤い瞳が、月から外れて、自分の手を見た。両手を膝の上で広げて、掌を見ている。千二百年前に封印を作った手。

「封印陣の調律点に立った時、彼が一番安定していた」

「安定?」

「聖と魔の均衡を取る作業。調律点に立つ人間は、体の中に聖属性と魔属性の両方を通す必要がある。通常の魔法使いにとっては、地獄のような負荷。体が引き裂かれそうになる。……何人もの魔法使いが試して、脱落した。一回の調律で倒れる者もいた」

「だが、その男は?」

「倒れなかった。力が弱いのに。火属性しか使えないのに。調律点に立つと、均衡を取るのが上手かった。聖と魔が体を通過する時の揺れが、彼だけ小さかった。安定していた」

 メルティアの赤い瞳が、何かを思い出している光を帯びた。遠い光。千二百年の向こうにある光。

「なぜかは、当時の私には分からなかった。今なら分かる。彼は『強い力』を持っていたのではなく、『正しい均衡』を持っていたの。属性の強さではなく、属性の通し方が上手かった。水路のように。力を流す道筋を、体の中に自然に作れる人間だった」

 正しい均衡。力ではなく、バランス。

「……カイト。あなたが蝕を使う時の感覚。聖と魔を同時に制御する感覚。それが、彼の調律の感覚に似ているの。属性の種類も、力の大きさも全然違う。でも、均衡を取る時の——体の中の力の流れ方が、似ている」

 俺と、千二百年前の男が似ている。属性は違う。力の大きさも違う。だが、均衡の感覚が似ている。

 メルティアの赤い瞳が、月に戻った。銀色の月。赤い瞳に映る月が、ゆっくりと揺れた。

「彼と一緒に、大陸中の封印を作った。何十箇所も。各地の冥渦を封じて回った。……戦争が長引くにつれて、彼の体は消耗していった。調律のたびに。一回ごとに。少しずつ、確実に」

 メルティアの声が、小さくなっていった。月明かりの中で。春の夜の虫の声の中で。

「……続きは、明日話すわ。今夜は、ここまでで」

 声が震えていた。微かに。千年の存在が、千二百年前の記憶の重さに、今でも震えている。

「分かった」

「……ありがとう。聞いてくれて」

 メルティアが立ち上がった。赤い瞳が月から離れた。丘を降りていく。赤い髪が夜風に揺れている。白い翼がない背中。千二百年前には翼があった背中。

 俺は丘に残った。少しだけ。月を見ていた。同じ月を、千二百年前の天使が見ていた。同じ月の下で、火属性しか使えない普通の男が、調律点に立ち続けていた。

 メルティアの声が、春の夜に溶けていく。

 千二百年前の物語が、まだ途中だった。


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