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第66話 辺境へ

 走った。

 山岳地帯を降りる道。馬車を使わなかった。馬車が通れる街道は遠回りだ。獣道を、岩場を、針葉樹の林を、足で駆け抜ける。四人と外套の中のノア。荷物は最小限。武器と水と干し肉だけを背負って。

 メルティアが先頭に立った。

「こっち。古い街道の跡がある。千二百年前に使われていた軍道。……今は誰も知らないけれど、道はまだ残っている」

 赤い瞳が地面を見ている。岩場の中に、苔に覆われた石畳の痕跡が微かに見えた。千二百年前の軍道。聖魔戦争の時代に天使と人間が使った道。メルティアが天使だった頃に、封印陣の設置部隊として歩いた道。

 千二百年前の道が、今の俺たちの足を早くしている。

 道中、松林の匂いが薄まっていく。標高が下がるにつれて、針葉樹が広葉樹に変わっていく。空気が湿り始める。暖かくなる。春の空気が戻ってくる。山岳地帯の鋭い匂いから、丘陵の柔らかい匂いに。

 通常五日の行程を、三日で。メルティアの千二百年分の地理知識が、一日ずつ距離を縮めた。

 ◇

 二日目の夜。野営。焚き火を小さく燃やして、干し肉を齧った。塩辛い。水で流し込む。舌の上の鉄の味が、塩気と混ざって不快な味になる。

 焚き火の煙の匂い。山の夜風に混じる土の匂い。遠くで夜鳥が鳴いている。

 火を見ながら、考えていた。

 ユイが狙われている。

 妹を守るために悪魔と契約した。全属性を得た。魔物を倒した。Aランクになった。聖戦に参加した。冥渦を封じ始めた。——全部、ユイのためだった。ユイの治療費のために冒険者になり、ユイを守るために強くなった。

 だが今、その力は「世界を守る」ために使われている。封印陣の修復。冥渦の封じ込め。大陸規模の危機。俺の力は、ユイ一人ではなく、世界全体に求められている。

 そして、世界を守っている間に、ユイが狙われている。皮肉だ。一人の妹を守るための力が、大きくなりすぎた。

 外套の中から、ノアの声が低く響いた。

「お前は一つの体で二つの戦場を守ろうとしている」

「ああ」

「どちらかを選ばなければならない時が来るかもしれんぞ」

 火が爆ぜた。小さな音。火の粉が夜空に舞い上がった。

「……選ばない。両方守る」

「強欲だな」

「強欲は悪魔の得意分野だろ」

 焚き火の向こうで、メルティアが紅茶のカップを持って笑った。

「失礼ね♪」

 ♪が戻っていた。前線基地にいた時には消えかけていた♪。戦場を離れて、ユイのために走っている今、僅かに余裕が戻ったのだろう。ユイを守るという動機は、メルティアにとっても力になるのかもしれない。

 リーゼが焚き火の横で碧い瞳を閉じていた。眠っているのではない。体力を温存している。いつでも動ける姿勢で、座ったまま意識を落としている。剣を膝の上に横たえて。没落貴族の教育の中に、野戦での睡眠法があったのだろう。

 シアが白銀の光を自分の足に当てていた。三日間の強行軍で、足に肉刺ができている。聖属性の回復。紫の瞳が集中している。「ユイちゃんのところに、早く……」。小さな声。

 ◇

 三日目の朝。

 丘陵地帯に出た。

 春の若草が丘を覆っている。朝露が草の葉先に光っている。風が変わった。山の鋭い冷気から、丘陵の穏やかな風に。匂いが変わった。若草と土と、遠くから微かに漂う焼き栗の匂い。

 ラスティカの匂い。

 鼻の奥に張り付いていた金属の焦臭が、この匂いに押し返されていく。肺の中の戦場の空気が、辺境の空気に入れ替わっていく。

 丘を越えた。

 街壁が見えた。赤い瓦の屋根。灰色の石壁。南門の旗。

 シアが足を止めた。紫の瞳が街壁を見ている。

「帰ってきました」

 小さな声。安堵。王都に着いた時は緊張していた。辺境に帰る時は安堵する。王都は戦場であり、辺境は故郷になった。追放された聖女にとっての故郷が、この小さな辺境の街になっている。

 ◇

 南門にドルクが立っていた。

 禿頭。顎髭。腕を組んで。いつもの場所。いつもの姿勢。だが、目だけが違っていた。緊張している。ドルクの目が緊張するのは珍しい。

「……早かったな。三日で来たのか」

「メルティアの案内で」

「アリアから聞いてる。教会の調査団は、まだ着いてない。東街道を回っているから、あと一日はもつ。……間に合った」

 間に合った。一日の差。エリシアの勅令は間に合わないかもしれないが、俺たちは間に合った。ユイの側にいられる。

 アリアが駆けてきた。亜麻色の髪が風に乱れている。眼鏡が曇っている。走ってきたのだろう。息が荒い。

「カイト。ユイちゃんはまだ無事。ミルフィ村にいる。教会の調査団はまだ来ていない」

「ありがとう、アリア」

「でも——」

 アリアの眼鏡の奥の瞳が、影を帯びた。

「もう一つ、別の気配を感じたの。私の風読みで」

「別の気配?」

「教会じゃない。もっと暗い。南東から近づいてきてる。人間の気配じゃない。……あの闇市の匂いに似てる」

 闇市の匂い。レクスの下級悪魔。王都の地下に漂っていた、甘くて腐った匂い。アリアの風読みは、風に混じった魔素の質で存在を識別する。教会の聖属性とは異なる、暗い魔素の気配。

 教会だけではない。悪魔勢力もユイを狙い始めている。

 二つの手がユイに伸びている。光の手と闇の手。どちらも「保護」と呼ぶのだろう。だが、保護と捕獲の境界は、権力者が決める。

 ユイは花を活けている。窓辺で。春の光の中で。

 その少女に、二つの影が迫っている。


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