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第64話 戦場の手紙

 体が重かった。

 朝。目が覚めても、ベッドから体が持ち上がらなかった。正確にはベッドではない。テントの中の簡易寝台。薄い毛布。硬い木の板の上に敷いた藁のマットレス。だが昨日まではこの硬さで問題なく起きられた。今日は違う。蝕の代償が、一晩寝ても抜けていない。

 全身が鈍く痛む。筋肉の痛みではない。もっと深い場所。骨の中。魔力の通り道が焼け焦げたような、内側からの痛み。

 口の中に鉄の味がした。昨日の戦闘ではない。今朝の味だ。慢性化している。舌の上に薄い金属の膜が張り付いている感覚。何を飲んでも、何を食べても、最初に感じるのは鉄の味。

 起き上がった。体を引きずるように。テントの帆布の隙間から朝日が差し込んでいた。光が眩しい。感覚侵食の残滓。通常の朝日が、直視できないほど鋭く感じる。

 外に出た。前線基地。朝の空気。針葉樹の匂いと、焚き火の煙と、兵士たちが炊いている粥の匂い。山の空気は澄んでいるが、鼻の奥にはまだ昨日の冥渦の焦臭が残っていた。

 今日は戦闘がない。蝕の後の回復日。リーゼが「今日は全員休息。出動しない」と宣言した。碧い瞳に有無を言わせない光。カイトの消耗を見抜いている。

 ◇

 昼過ぎ。アリアからの風読み通信が届いた。

 テントの入口を開けた瞬間、甘い風属性の残滓が漂い込んできた。外の山の匂い——針葉樹と岩と、昼食に焚いた火の残り香の中に、アリアの風読みの気配が混じっている。アリアの声。少し疲れている。通信の回数が増えているのだろう。辺境でも、状況が動いている。

「ドルクさんからの伝言。『ラスティカ周辺で小規模な冥渦が一つ開いた。現地のBランク冒険者で対処した。街は守れている。心配するな』」

 ドルクの声が、アリアの声を通じて聞こえた。低い声。太い声。「心配するな」。ドルクらしい。短くて、強い。辺境は辺境で守っている。カイトがいなくても。

「あと、ユイちゃんから手紙を預かってるの。読むね」

 アリアの声が、少し柔らかくなった。ユイの言葉を代読する声。

「『お兄ちゃんへ。シアちゃんが来てくれる日が減りました。聖戦で忙しいんですよね。大丈夫です。私は元気です。花も咲きました。窓辺の花瓶に新しいお花を入れました。黄色いのと、紫のと。……お兄ちゃん、無理しないでね』」

 ユイの声が聞こえた。アリアの声なのに。十四歳の少女の、穏やかで、優しくて、少しだけ心配を含んだ声。

 花が咲いた。窓辺の花瓶に、新しい花を入れた。ユイは花を活けている。戦場の外で。春の光の中で。

 アリアの声が、少し低くなった。

「最後に一行だけ。ユイちゃんが言っていた言葉。そのまま伝えるね」

 間が空いた。アリアが言葉を選んでいるのか、ユイの言葉の重さを感じているのか。

「『お兄ちゃんの首のところの黒いの、もう隠せなくなってきてるんじゃないかな。……私には分かるよ』」

 テントの中が静かになった。

 リーゼが碧い瞳を上げた。シアが紫の瞳を伏せた。メルティアの赤い瞳が、微かに揺れた。

 ユイは知っている。魔印が首まで来ていることを。直接見ていない。ミルフィ村にいるユイと、山岳地帯にいる俺の間には、馬車で何日もかかる距離がある。それでも「分かるよ」と言った。

 視える目なのか。シアから聞いたのか。それとも——ただ、兄の嘘を見抜いているだけなのか。「何でもない。大丈夫だ」と繰り返してきた嘘を。

 「私には分かるよ」。

 その一行が、胸の奥に沈んだ。重い石のように。

 ◇

 午後。シアが治療をしてくれた。

 テントの中。横になった。シアが隣に座って、白銀の聖属性を両手から放った。温かい光。柔らかい。浄化の力が魔印に触れる。シアの聖属性には微かに花の匂いがする。聖属性そのものの匂い。教会のステンドグラスの下に漂う香のような、清浄な匂い。

 だが——効いている感覚が薄かった。

 以前は、シアの治療を受けると魔印の脈動が弱まった。灼熱感が和らいだ。呼吸が楽になった。今日は、灼熱感が微かに和らいだだけで、脈動は変わらない。魔印の根は深くなっている。シアの聖属性が届く層より、もっと奥に根を張り始めている。

 シアの紫の瞳に焦りが浮かんでいた。

「……抑えきれなくなってきています」

 声が震えていた。聖女の力で抑え続けてきた魔印の進行が、聖女の手に余り始めている。進行速度が上がったせいだ。通常の進行なら、シアの浄化で緩やかにできる。だが蝕の後の加速は、シアの力では追いきれない。

「ごめんなさい。私がもっと強ければ——」

「謝るな」

 声が出た。強すぎたかもしれない。シアの紫の瞳が揺れた。

「お前がいなければ、俺はもっと前に壊れてた。昨日の蝕の時も、お前の障壁がなければ意識が飛んでいた。……お前の力は、俺が戦い続けるための命綱だ。謝るな」

 シアが黙った。紫の瞳が潤んでいた。だが涙は流さなかった。唇を引き結んで、白銀の光を少しだけ強くした。効果が薄いと分かっていても、それでも続ける。聖女としてではなく、仲間として。

 ◇

 夕方。テントの隅で、リーゼが本を読んでいた。

 一冊の革装丁の本。古い革の匂い。インクの匂い。前線基地に持ち込んだ荷物の中に入っていた。エリシアから受け取ったもの。表紙に「王立裁判所 非公開資料閲覧申請書」と書かれている。

 戦場に法律書を持ち込む女。碧い瞳が紙面の上で動いている。揺れていない。安定した目。焦りがない。

 リーゼは「その後」を信じている。

 戦争が終わった後。聖戦が終わって、冥渦が封じられて、平和が戻った後の世界。その世界で、父の冤罪を晴らす。王立裁判所の非公開資料を閲覧して、真相を掴む。そのための書類を、今、戦場の中で読んでいる。

 未来を信じている人間の目だ。碧い瞳の中に、戦場の泥も、魔印の不安も映っていない。ただ、紙面の文字だけが映っている。

 その目が、強かった。

 ◇

 夜。テントの外に出た。

 空を見上げた。星が見えた。

 山岳地帯の空気は澄んでいて、王都より星が近い。ラスティカの空に似ている。無数の星が暗い空に散らばっていて、天の川が白い帯のように横切っている。

 冥渦の方角からは、まだ微かに赤黒い光が漏れている。十メートルに縮小した裂け目。完全には閉じていない。だが、空の半分は青黒い夜空のままだ。星が見える。それだけで、今夜は少しだけ救われている。

 足音が聞こえた。テントの裏から。軽い足音。

 メルティアが隣に立った。赤い瞳が空を見上げている。星の光が赤い瞳に映って、小さな白い点が瞳の表面に散らばっている。

「……千二百年前にも、同じ星を見たわ。戦争の夜に」

 声が小さかった。♪がない。夜の空気に溶けるような声。松林の匂いと夜露の匂いの中に、メルティアの声が沈んでいく。

 千二百年前の夜。同じ星。同じ戦争。天使だったメルティアが、聖戦の夜に見上げた空。あの時も、同じ星座がこの場所を照らしていた。

 だが、メルティアは♪をつけた。

「でも、隣にいる人間は違うわね♪」

 ♪の中に、何かが透けていた。空元気ではなかった。もっと複雑な感情。千二百年前の「彼」への追憶と、今ここにいるカイトへの——何と呼ぶのか分からない感情。二つが♪の中で混ざっている。

 俺は何も言わなかった。星を見ていた。

 左腕の魔印が、静かに脈打っていた。進行率27%。残り時間が縮んでいく。だが、星は変わらない。千二百年前と同じ星が、同じ場所で光っている。メルティアが千二百年前に見たのと同じ光を、今、俺も見ている。

 星の光は千二百年前から変わらない。

 変わるのは、それを見上げる者の寿命だけだった。


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