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第63話 代償の重さ

「やる。今日、封印修復を試す」

 朝。テントの中で四人に告げた。テントの帆布に染み込んだ煙と汗の匂いが、朝の冷気と混じっている。レクスが去った翌日。第三冥渦は直径二十メートルで口を開けたままだ。レクスが三体の上位種を斬ったおかげで、周囲の魔物の数は一時的に減っている。試すなら今しかない。

 リーゼの碧い瞳が俺を見た。「エリシアの設計図は手順だけ。実際にやったことがない。初めての試みよ」

「分かってる」

「代償がある。蝕を使えば魔印が進む。一回でどれだけ進むか、誰にも分からない」

「分かってる」

 リーゼが碧い瞳を閉じた。一瞬。開いた。何かを飲み込んだ目。「……了解。私が周囲の安全を確保する。魔物が出たら私が対処するから、カイトは調律に集中して」

 シアが紫の瞳を真っ直ぐに向けた。「私の聖属性を全力で使います。……カイトさんの負荷を、少しでも軽くします」

 メルティアが赤い瞳で、冥渦の方角を見た。♪がなかった。代わりに、千二百年前の記憶を呼び戻す目をしていた。

「結節点の位置は、私が指示するわ。千二百年前に自分で配置した構造だもの。……忘れるわけがない」

 ◇

 第三冥渦。直径二十メートルの裂け目。赤黒い脈動。黒い霧が上空に吹き上がっている。金属の焦臭と硫黄の匂い。立っているだけで肺が重い。

 メルティアが裂け目の縁に沿って歩いた。赤い瞳が地面を走査している。千二百年前の記憶で、封印陣の痕跡を読み取っている。

「ここ。最初の結節点。……岩の下に紋様の痕跡が残っている。薄いけれど、まだ読める」

 メルティアが地面を指した。俺には何も見えない。岩と土と枯れた草だけだ。だがメルティアの赤い瞳は、千二百年前に自分が刻んだ紋様の残骸を視ている。

「二番目。ここから北西に七歩。……三番目は南に十二歩。四番目は——」

 六つの結節点。メルティアが全ての位置を指示した。裂け目を中心に、六芒の変形で配置された六つの点。千二百年前の設計図が、メルティアの記憶から地面に投影されていく。

「シアちゃん。結節点に聖属性を。一つずつ、慎重に」

 シアが頷いた。最初の結節点に跪いて、両手を地面につけた。白銀の聖属性が掌から流れ出した。地面に染み込んでいく。土と岩を透過して、千二百年前の紋様の痕跡に触れた。

 微かに、光った。

 地面の下で、青白い線が一本だけ浮かび上がった。紋様の一部が再起動した。薄い。弱い。だが、光っている。

「一つ目、成功」

 シアの紫の瞳に汗が滲んでいた。一つの結節点を起動するだけで、かなりの聖属性を消費する。二番目。三番目。シアが一つずつ回って、聖属性を注入していく。三つ目が起動した時、シアの呼吸が荒くなっていた。

「……ここまでが限界です。四番目は、私の聖属性では起動しませんでした。紋様の損傷が大きすぎます」

 六つのうち三つ。半分。残り三つの結節点と、中心の調律点。

 俺の出番だ。

 ◇

 四番目の結節点の前に立った。

 蝕を発動する。聖と魔の同時制御。

 光を呼んだ。嘘がつけなくなる。全てが晒される。

 闇を呼んだ。誰にも見つからない。孤独と安堵が同居する。

 二つの属性が掌の中で重なった。

 世界の色が変わった。

 光が見える場所に闇が透けている。影の中に光の粒が浮かんでいる。空気の中の魔素が見える。金色と黒が交互に明滅している。蝕の視界。美しかった。美しいと感じるほどの異常。正常な人間は、属性の融合を「美しい」とは感じない。感じている時点で、俺の感覚は正常ではない。

 四番目の結節点に力を注いだ。聖と魔が混ざった力。均衡した力。結節点の損傷した紋様に触れた。紋様が反応した。青白い光が、三つ目の時より強く浮かび上がった。蝕の力は聖属性だけより修復効率が高い。

 五番目。六番目。結節点を一つずつ起動していく。全身に力が流れている。掌が灼けている。だが止められない。

 六つの結節点が全て起動した。

 最後。調律点。冥渦の中心。裂け目の真上に立った。

 封印陣の六つの結節点から、青白い線が中心に向かって走っている。六本の線が交差する場所。ここで、聖と魔の均衡を取り直す。

 蝕を全開にした。

 左腕が灼けた。

 魔印が灼熱した。黒い紋様が赤く染まっている。熱い。火属性の熱とは違う。もっと深い場所で燃えている。骨の中で。魂の中で。

 感覚侵食が始まった。

 色が音に変わった。冥渦の赤黒い光が、低い唸り声に聞こえる。地面の灰色が、重い振動として足裏に伝わってくる。匂いが映像で見える。岩の匂いが灰色の波紋として視界に広がり、メルティアの存在が赤い残像として空気の中に揺れている。第二段階。感覚の境界が溶けている。

 冥渦が反応した。裂け目の縁が脈動を変えた。赤黒い光が薄まり始めた。調律が効いている。聖と魔の均衡が、冥渦の傷口を塞ごうとしている。

 シアの白銀の光が俺を包んだ。聖属性の障壁。シアが後方から、浄化の力でカイトの体への負荷を軽減している。シアの力がなければ、この瞬間に意識が飛んでいた。

 冥渦が縮み始めた。

 二十メートルの裂け目の縁が、ゆっくりと狭まっていく。地面が軋む音。岩が擦れ合う音。大地が傷を閉じようとしている音。

 だが——全部は閉じなかった。

 十メートルのところで、止まった。

 蝕の出力が限界だった。体が持たない。膝が震えている。視界が白と黒の斑になっている。もう一歩先に進めば、意識が消える。

 蝕を解いた。

 色が戻った。音が戻った。世界が正常に戻った。だが、体は正常に戻らなかった。膝が折れた。石の地面に手をついた。口の中に鉄の味ではなく血の味がした。唇を噛んでいた。歯形が唇の内側に残っている。

 冥渦は十メートルに縮小していた。完全ではない。だが、二十メートルの半分。魔物の出現頻度は大幅に減る。応急修復としては成功だ。

 代償。

 左腕の袖をまくった。黒い紋様の先端が——首の付け根を超えて、喉仏の手前まで伸びていた。数ミリではない。数センチ。一回の蝕使用で、一気に進行した。

 ノアの声が低く響いた。

「……進行率、推定27%。5%近く進行した。一度でだ」

 5%。三日間の連戦で1%だった進行が、蝕一回で5%。

「この修復を何度も繰り返せば——」

「分かってる」

「分かっていて、やるのか」

 膝の上に座ったまま、空を見上げた。青い空。春の雲。冥渦の黒い霧が半減して、空が少しだけ青く戻っていた。

「冥渦が開いたままなら人が死ぬ。俺が消耗するのと、人が死ぬのと、どっちを選ぶか。……答えは最初から決まってる」

 ノアが黙った。千年の魔導書が、何も言えなくなった。

 メルティアが近づいてきた。赤い瞳が俺の首元を見ていた。黒い紋様が伸びた場所を。襟から明確にはみ出している。もう隠せない。

 メルティアの手が震えていた。何かを言おうとしていた。唇が動いた。だが、音にならなかった。

 何も言わなかった。言えることがなかった。

 千二百年前にも、同じ光景を見た。調律点に立った人間が消耗していく姿。あの時も何も言えなかった。千二百年経っても、言える言葉は見つからなかった。

 封印は直せる。代償はカイトの命。

 天秤は、傾き始めていた。


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