第62話 赤い剣
第三の冥渦が開いた。
早朝。基地に報告が飛び込んだ。北に十キロ。山の尾根に沿って、巨大な裂け目が走った。直径二十メートル。これまでの冥渦の倍の規模。聖騎士団の斥候が発見した。
聖騎士団と独立部隊が共同で対処に向かった。尾根まで二時間。獣道を登る。針葉樹が途切れて岩場になると、風が変わった。上から吹き下ろしてくる。冥渦からの魔素を含んだ風。金属の匂いに加えて、岩が割れた時の粉塵の匂い。乾いて鋭い。
だが、冥渦に到達する前に、異変に気づいた。
岩場に斬撃痕があった。
赤黒い。石の壁を紙のように切断した痕跡。三本。切断面が滑らかではない。暴走に近い力で振るわれた剣の痕。見覚えがある。王都南区の宿の壁。レクスの安宿の壁。同じ軌道。同じ色。
先に進んだ。冥渦が見えてきた。直径二十メートルの裂け目。赤黒い脈動。黒い霧。これまでで最大の規模。
だが、冥渦の手前で——魔物の死骸が転がっていた。
三体。上位種。体長四メートル超の蛇型。角持ち。全て、一太刀で斬り裂かれていた。断面が赤黒い残滓で焼けている。聖属性の剣に魔属性を上書きした斬撃。斬った直後に魔力が灼き付けた痕跡。
一体につき一太刀。三体で三振り。三年分の命。
そして——冥渦の縁に、男が立っていた。
◇
金色の髪が、冥渦の赤黒い光に照らされていた。
レクス・グランディア。
だが、噴水広場で会った男とは変わっていた。
瞳。金色の縁取りなど、もうなかった。虹彩のほぼ全体が赤に侵食されている。わずかに瞳孔の周りにだけ、金色の残滓が薄く残っている。夕暮れの空に最後に残る陽光のように、消えかけの色。
右手。赤黒い契約印が脈動している。指先から手首の半ばまで、灰色に変色していた。爪が黒ずんでいる。髪の先端が白く褪せ始めている。命の燃え殻が体に蓄積している。
体から黒い靄が漏れ出していた。噴水広場の時より量が多い。肩と手の甲と、首筋からも。寿命が絶え間なく燃えている。焦げた甘い匂い。命が灼ける匂い。風に乗って、冥渦の瘴気と混じっている。
赤黒い聖剣を右手に提げていた。刀身に赤黒い光が脈動している。三体の魔物を斬った直後。まだ力が残っている剣。
「よう、カイト」
レクスの声は、穏やかだった。
あの夜と同じ空虚な穏やかさ——ではなかった。似ているが、微かに違う。空虚ではない。何かがある。何かを探している。目が動いている。赤い瞳が、冥渦を見て、俺を見て、自分の灰色の手を見て。何かの答えを、目の前の全てから探している。
「……お前、何をしてる」
「見ての通り。冥渦から出てくる魔物を斬ってる」
赤い瞳が冥渦を見た。裂け目の奥で、新たな魔物が身じろぎしている気配がある。
「力を試すのに、ちょうどいいだろ? 上位種がいくらでも出てくる。一振りで一体。分かりやすい」
「一振りで一年の命が消えるんだぞ。もう三年分使った」
「知ってる」
軽い声。だが、灰色の指先が微かに震えていた。知っている。知っていて、止まらない。
「やめろ。お前が——」
「もう聞いたよ、それ。噴水の広場で」
レクスの赤い瞳が俺を見た。
「お前が死ぬ、だろ? 知ってる。……でもカイト、お前だって同じことをしてるだろ。さっきの戦闘も見てたよ。融合魔法を連発して、口の中に鉄の味がして、魔印が伸びて。俺と何が違う?」
何も言えなかった。同じだ。形が違うだけで、同じことをしている。命を削りながら戦っている。
◇
後方で、聖騎士団の兵士たちがレクスを見ていた。赤い瞳。悪魔契約者。赤黒い聖剣。体から漏れる黒い靄。
聖騎士の隊長が剣に手をかけた。「あれは——悪魔契約者か。捕縛する」
「手を出すな」
声が出た。隊長が俺を見た。
「あれは俺の——」
言葉が止まった。仲間、ではない。もう同じパーティではない。敵、でもない。噴水広場で剣を交えたが、あれは戦いではなかった。味方、でもない。レクスは誰の味方でもない。自分自身の味方ですらない。
何と呼べばいい。
「……俺が対処する。手を出すな」
隊長が俺を睨んだ。だが、Aランクの独立部隊の判断に口を出す権限はない。渋々手を下ろした。
レクスが冥渦に背を向けた。赤黒い聖剣を引きずるように。噴水広場と同じ姿。切っ先が岩場を擦って、高い音を立てている。
だが、今回は振り返った。
一度だけ。
赤い瞳が、俺を見た。ほぼ赤に染まった瞳の中に、金色の残滓がちらついていた。その残滓の中に、何かが浮かんでいた。恐怖。
「カイト。お前に一つ聞きたかった」
声が低かった。穏やかさが消えていた。代わりに、剥き出しの声があった。
「……お前の契約した悪魔は、お前を喰おうとするか?」
問いの意味が分からなかった。
メルティアが俺を喰おうとする? メルティアは契約者を気遣う上位悪魔だ。紅茶を淹れてくれる。♪をつけて笑ってくれる。手が震える時がある。俺を喰おうとする? 考えたこともない。
「……しない。メルティアは俺を喰おうとはしない」
レクスの赤い瞳が、一瞬だけ揺れた。揺れの中に、何かが見えた。安堵ではなかった。羨望でもなかった。確認。自分の悪魔との差を、確認している。
俺の悪魔は、俺を喰わない。
では——レクスの悪魔は。
「……そうか」
レクスはそれだけ言って、背を向けた。歩き出した。赤黒い聖剣の切っ先が岩場に傷を残していく。金色の髪が風に揺れている。黒い靄が肩から漏れ続けている。その背中が、山を降りていく。
赤い剣の軌跡が、岩に長い傷を残していた。
レクスの問いが、耳の奥に残っていた。
「お前の悪魔は、お前を喰おうとするか」。
レクスの悪魔は——レクスを喰おうとしているのか。
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